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安国寺恵瓊




元亀五年(1577年)   六月上旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木基綱




「御怪我の具合は如何でございましょう」

伊勢兵庫頭が心配そうな表情で訊ねて来た。そりゃそうだな、足を投げ出しているんだから。でもね、大した事は無いんだよ。その証拠に同席している重蔵、下野守は平然としている。むしろ余り足を庇わない方が良いなんて言い出す始末だ。温泉でも行こうかな。


「大した事は無い、以前に比べれば大分良くなってきた。七月か八月には西国に兵を出すつもりだ。今は足を曲げると少し引き攣るような痛みを感じるので投げ出している。兵庫頭、我が無作法を許してくれよ」

兵庫頭が首を横に振った。

「何を仰せられます。御怪我をなされたのですからお気になされる事は有りませぬ」


「そう言って貰えると有難い。本来なら俺が京に行きそなたの話を聞かねばならぬところだ。その上で公家の方々と話をせねばならんのだが……、済まぬな、面倒をかける」

頭を下げると兵庫頭が首を横に振った。

「御屋形様、お気遣いは無用になされませ」

「そうか、甘えさせてもらうぞ」

「はっ」

ちょっとホッとした。曲げると少し痛いんだ。


「上杉の件、御苦労だった。上洛は上首尾に終わった。兵庫頭の根回しが上手く行ったようだ」

「畏れ入りまする」

兵庫頭が頭を下げた。

「これで弾正少弼殿の権威も一段と上がったであろう。良くやってくれた」

「はっ」

兵庫頭がまた頭を下げた。上杉もなあ、俺が義昭に関東管領職は上杉で好きに継承して良いと言わせたのに権威付けが欲しいなんて言うんだから。まあ帝に拝謁して御剣と天盃を下賜されたし天下静謐に力を尽くせとの御言葉も頂いた。景勝への権威付けは十分だろう。


「それで西園寺の件は如何であった?」

「はっ、西園寺家では当初は家禄を増やして欲しいようでしたが御屋形様が周囲のやっかみを受けると心配していると伝えると道理であると」

「納得したか」

「はい」

兵庫頭が頷いた。


「ただ内親王殿下が御存命の内は宜しいですがその後の事がいささか不安であると……」

兵庫頭が言葉を濁すと重蔵、下野守が頷いた。当然だよな、家禄が四分の一程度になるんだから。

「その事は俺も考えている。西園寺家には加増が必要だろう。元々の家禄と合わせて千石ぐらいにしたいと考えている。家禄が大幅に減った後に多少戻す、それならば周囲も煩くは言うまい」

「はっ」

兵庫頭が頷いた。


面倒だよな。人間、厄介なのは嫉妬心だ。特別扱いされた人間には当然だが嫉妬心による敵意が集まる。当代の西園寺権大納言は未だ二十歳にもならないのに権大納言になっている。飛鳥井の伯父と比べてみればいかに優遇されているか分かるというものだ。西園寺権大納言に対して面白くないと思っている公家は少なくないだろう。権大納言の代は良くてもその次、さらにその次辺りの代で反動が来るのは避けなければならん。


「その儀、証文は頂けましょうか?」

「それは拙かろう。婚儀の前から内親王殿下の死後の約束など非礼にも程が有る。表沙汰になれば西園寺家も気まずい思いをするぞ」

重蔵、下野守が頷いた。兵庫頭も無理にくれとは言わない。やはり失礼だと思っているのだろう。


「証文は出せん、だが俺がその事を心配していた、西園寺家にはそれなりの配慮をしたいと考えているようだと伝えてくれ。どうも千石ぐらいにしたいと思っているようだと漏らしても構わぬ」

「はっ」

千石ならば公家の中では摂家に次ぐ立場だといえる。文句は言わんだろう。それにしても西園寺家は内親王を大切にしてくれるんだろうな。どうも不安だ、一度釘を刺しておくか。


「兵庫頭、西園寺権大納言に伝えてくれ。内親王殿下は畏れ多い事ではあるがこの基綱にとっては従妹にあたる。決して粗略に扱ってくれるなとな。もし従妹姫を泣かせる様な事が有れば決して許さぬと。例え万里小路家の血縁であろうと容赦はせぬとな」

「はっ、必ずや」

兵庫頭がしっかりと頷いた。兵庫頭も西園寺の態度に不安を感じているのかもしれん。


「では後は日取りだな?」

「はい、おそらくは年内に納采の儀を終わらせ御降嫁は年明けになりましょう」

「そうだな、異存はない」

「ところで、納采の儀でございますが……」

兵庫頭が言い辛そうにしている。溜息出そう。

「費用は朽木で持つと西園寺家に伝えてくれ。心配はいらぬと」

「はっ」

やっぱり降嫁先はそれなりの家じゃないと問題が多いな。今回は例外、通常は摂家からにしよう。


「譲位の件は如何か?」

「ただ今土地の確保に当たっております」

「そうか」

出来るだけ御所の近くに仙洞御所を用意しなければならん。という事で用地確保の名目で土地を買い漁っている。何の事は無い地上げ屋だな。昔も今もやる事は変わらん。


「出来るだけ早く譲位は執り行いたい。来年は御降嫁、再来年は譲位と行きたいものだ。帝も御疲れであろうからな」

俺の言葉に三人が頷いた。トップは疲れるんだよ、二十年もやれば疲労も蓄積する。休ませてあげないと。公家達も譲位が実施されれば喜ぶ筈だ。何と言っても上皇に仕える役職、つまりポストが出来るんだから。待てよ、譲位が実施されれば東宮が帝になる。となると新たな東宮が要るな。親王宣下から立太子か、未だ幼いから少し先でも良いか。


「ところで御屋形様」

「うむ」

「改元をしないのかと関白殿下よりお訊ねが有りました」

「改元?」

俺が訊ねると兵庫頭が頷いた。

「元亀の年号は義昭公が定めたものにございます」

なるほど、俺が改元する事で天下人は俺だと宣言しろという事か。重蔵、下野守も頷いている。


元号ってあまり変える物じゃないと思うんだよな、現代人の感覚を持つ俺としては。大体変えても毛利とか使わないだろう。だとすると混乱するだけじゃないのかな。いや待て、誰が元亀を使い続けるかで誰が俺の敵かの判断材料にはなるか。いや、待てよ……。

「兵庫頭、改元は朝廷が望んでいるのか?」

訊ねると兵庫頭が頷いた。なるほどな、朝廷は完全に義昭を否定したいわけだ。俺が征夷大将軍解任に反対したからな。別な手段で義昭との決別を宣言したい。それが改元か。


「異存はない。兵庫頭」

「ではこちらで進めさせて頂きます。ところで次の元号でございますが……」

三人が俺を見た。

「朝廷の御意向を優先する。もしこちらの意向を聞かれた場合には天正と答えよ。所以は清静は天下の正たりだ」

「はっ」

あれ、三人が平伏している。なんか変な感じだな。


兵庫頭が去った後はいつも通りのお仕事だ。奉行、軍略方、兵糧方、他にも坊主や神官、色々な面会希望者に会う。越前からは心和寺の証意が来た。随分と俺を心配してくれた。無理をしないでくれとね。考えてみれば一向門徒で本願寺から破門されている。朽木領でしか生きていけないと思っているのだろう。俺に万一の事が有って朽木が混乱するのは避けたいのだ。悪くない、それだけ証意達は朽木の中に溶け込もうとしているんだから。


時々綾ママ、小夜、雪乃、辰がやってくる。そして怪我をしているのだから無理をしては駄目だとか少し休めとか言う。今まで怪我らしい怪我はしていなかったからな。妙に過保護にされて居心地が悪いわ。それに夜が困るんだ、三人とも無理はしないでくれって必ず言う。心配そうな目で俺を見る。大丈夫だって言うんだが納得はしていないみたいだ。そうだよな、俺だって無茶はしないと約束出来ないんだから。


御着の十兵衛から文が来た。兵を動かし失地を取り返したいと書いてある。俺が怪我をした所為で責任を感じているらしい。少し待てと伝えた。八月には兵を出す。俺は但馬、因幡方面。それに合わせて十兵衛には備前で兵を動かす。八月から十一月くらいまで、米の収穫が儘ならないようにしてやろう。大規模な出兵になる。今から兵糧方に準備をさせないと。


土佐で戦が起きそうだ。また長宗我部が兵を起こそうとしている。多分田植えの後、七月から八月だろうと大叔父から報告が有った。長宗我部は領内がいよいよ不安定になって来たらしい。一条には鉄砲、弾薬、銭を送っている。勝たなくても負けなければ良い。負けなければ徐々に長宗我部はジリ貧になっていく。徐々に追い詰められて行く筈だ。


仕官希望の武田の遺臣と何人か会った。主だった者で言うと浅利彦次郎昌種、甘利郷左衛門信康、小山田左兵衛尉信茂。良いねえ、小山田はちょっとあれだけどこっちが不利にならなければ大丈夫だ。これから益々武田の遺臣が来るだろう。山県、馬場、内藤、高坂は信長との戦で戦死か残党狩りで殺されてしまった。残念だけど良い人材は他にもいる。今後に期待だ。


奥州の伊達から使者が来た。遠藤不入斎基信、伊達の重臣だな。伊達というと政宗が有名だが今は親父の輝宗が当主だ。だがこの輝宗、決して無能ではない。奥州だけでなく中央にも気を配っている。まあ現状では“宜しく”程度の挨拶だ。だが上杉が落ち着けば当然だが関東に兵を出すだろう。その辺りがどう影響するのか。陸奥にも人を入れるか、八門、伊賀、どちらかな? 伊賀は四国から九州を担当、八門は畿内、中国、東海、関東。伊賀の方が良いかな? 大叔父と相談してみよう。




元亀五年(1577年)   六月上旬      安芸国高田郡吉田村  吉田郡山城  小早川隆景




「申し訳ありませぬ、不覚を取りました」

頭を下げた。

「小早川の叔父上、面を上げて下され。それでは話が出来ぬ」

甥、毛利右馬頭輝元が正面に座っている。幾分困惑した表情だ。左には兄、吉川駿河守元春、渋面を浮かべている。そして右には安国寺恵瓊。


「惜しゅうございましたな。今一歩、でございましたのに」

「簡単に言うな、恵瓊。その一歩が詰められん、それが戦だ。その方には分かるまいがな」

兄の皮肉に恵瓊が一礼した。

「駿河守様、愚僧は左衛門佐様を責めているのではございませぬ。近江中将様が負傷されたのは事実。当たり所が悪ければ、いや良ければ命を奪えたやもしれませぬ。それを申し上げただけにございます」

恵瓊の言葉に兄がフンと鼻を鳴らした。それを見て右馬頭が困った様な表情を見せた。


「これは如何見れば良いのだ? 毛利は朽木を押し返したと見れば良いのか?」

「……」

誰も答えない。それを見て右馬頭が更に困った様な表情を見せた。

「小早川の叔父上、如何か?」

右馬頭がこちらを見ている。一つ息を吐いた。

「本来なら備前から朽木勢を押し返すのが狙いでございました」

兄、恵瓊が頷いた。二人とも表情が厳しい。


「ですが朽木勢の反撃が予想外に早く十分に押し返せておりませぬ。備前の東部、和気郡、邑久郡、磐生郡は朽木領として残りました。近江中将様に手傷を負わせたとはいえ兵に劣る朽木勢に押されて退いたのも事実。到底満足出来るものでは有りませぬ。それに伊予も少なからず三好に取られました」

「……では負けか?」

右馬頭が呟いた。


「負けでは有りますが意味の有る負けでございます」

「如何いう意味か、恵瓊」

「策を用い不意を突き或る程度は押し返す事が出来申した。近江中将様に敗れたとは申せ手傷を与えておりまする。備前、備中、美作の国人衆は毛利は決して弱くない、脆くない、そう思った事でございましょう。簡単には朽木に靡きますまい、そこが肝要にございましょう。伊予の事は残念では有りますが全てを奪われたわけでは有りませぬ。未だ挽回の手は十分にございます」

恵瓊の言葉に右馬頭が大きく頷いた。なるほど、そういう見方も有るか。


「この後は如何する?」

右馬頭が身を乗り出す様にして恵瓊に尋ねた。

「毛利は武威を示したのでございます。次は引き締めでございましょう」

「引き締めか」

「はい、備前、備中、美作の支配を固めまする。国人衆の中で朽木に通じそうな者を排除する。そして万全の状態で朽木と戦い勝つ」

「うむ」

右馬頭が大きく頷いた。兄が面白くなさそうにしている。右馬頭が居なくなると直ぐに皮肉った。


「坊主は口が上手い」

恵瓊が軽く一礼した。

「不安を抱える者には不利な点を小さく話し有利な点を大きく話す。そうする事で安心させるのがコツでございまする。それに嘘は申しておりませぬ。勝ちはしませんでしたが武威は示した。今一度東備前を攻めても朽木は直ぐに後詰いたしましょう、効果は薄い。ならば引き締めを行うのが得策」


「恵瓊よ、本音は今ならば朽木は攻めて来ぬ、近江中将の怪我を利用しろ、そういう事であろう?」

問い掛けると“如何にも”と言って頷いた。

「坊主は喰えぬな、左衛門佐」

「そうですな。……世鬼を使いまする。二人、三人ほど、潰しましょう。それと伊予にも援助を」

私の言葉に二人が頷いた。




元亀五年(1577年)   七月上旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木小夜




竹若丸が傳役の竹中半兵衛殿、山口新太郎殿と共に御屋形様の部屋に現れた。私の姿を見て訝しげな表情をしたが言葉にする事無く座った。

「父上、お呼びと伺いましたが」

「うむ、そなたに縁談が来た」

竹若丸が“縁談”と呟いた。実感が湧かないらしい。


「相手は上杉弾正少弼殿の妹姫、奈津姫だ」

「奈津姫、……あの方と」

「受ける事にした、異存は無いな?」

「はっ」

竹若丸が一礼した。


「おめでとう、竹若丸」

「有難うございます、母上」

「竹若丸様、おめでとうございまする」

「真、よろしゅうございました」

半兵衛殿、新太郎殿が竹若丸に祝いの言葉をかけると初めて照れ臭そうな顔をした。


「奈津姫の姉、華姫は織田家の嫡男勘九郎信忠殿に嫁ぐ。竹若丸、どういう事か分かるな?」

「はっ、上杉家は朽木家、織田家との繋がりを強めたいと考えていると思いまする」

御屋形様が“うむ”と頷かれた。


「それも有るがもう一つ有ると父は思っている。上杉弾正少弼殿は上杉家の養子になられたが家督は継いでおられぬ。おそらく此度の上洛、そして妹姫達の婚儀、これを実績として関東管領職を継ぎ上杉家の家督を継ぐものと思われる。頭の中に入れておくが良い」

「はい」

竹若丸が唇を噛んだ。まだまだ足りない部分が有る、そう思ったのであろう。


「上杉家も二つ一緒に婚儀を行うのは容易では有るまい。年の順から言えば織田家との婚儀が先。それに関東で上杉、織田の間に問題が生じる前に織田との結び付きを強めたいとも思っていよう。その方と奈津姫の婚儀は上杉、織田の婚儀の後になる。確定は出来ぬが再来年頃になるだろうと父は思っている」

「はい」


「妻を娶る事が決まった以上、何時までもそのままにしてはおけぬ。来年、吉日を選んで元服させる」

「はい、有難うございまする」

竹若丸が目を輝かせて礼を述べると半兵衛殿、新太郎殿が竹若丸に祝いの言葉を述べた、竹若丸が嬉しそうに頷く。この子は元服するという事の意味を本当に分かっているのだろうか。そう思うと素直に祝う事が出来ない。自分は悪い母親なのだろうか……。


「父上、初陣は」

「いずれさせる、慌てる事は無い」

「はい」

竹若丸が幾分不満そうに頷いた。

「それよりも覚悟をしておけ。元服し妻を娶ればもう誰もその方を子供とは見做さぬ。それ相応の責任を果たす事を求められるという事をな」

「……」

「半兵衛、新太郎、竹若丸を頼むぞ」

「はっ」

半兵衛殿、新太郎殿が平伏した。


「小夜、竹若丸の元服を祝ってやれ」

「はい、竹若丸殿、良かったですね」

「有難うございます、母上」

「これからが大変ですよ、御励みなさい」

「はい」

竹若丸が頷いた。本当に励んでほしい。溜息が出そうになるのを慌てて堪えた。







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