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元亀五年(1577年) 三月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 真田 恭
「恭、有難う。そなたには本当に感謝しています」
松姫様が頭を下げられると菊姫様も頭を下げられた。お二人とも以前に比べれば御顔の色は良い。
「いいえ、とんでも有りませぬ。武田家から受けた御恩に比べれば何程の事でも……」
笑いながら首を横に振った。このお二人に負担をかけるのは本意ではない。
「ですが武田はそなた達を……」
松姫様、菊姫様が項垂れた。
「乱世なれば仕方が無い事でございます、その事を恨んではおりませぬ」
「……」
「真田の家は一度零落しました。それを拾って下されたのが亡き信玄公。その後、武田家を離れ朽木家に仕えましたが武田家に仕えたという事は何の障りにもなりませんでした。むしろ朽木の御屋形様は高く評価してくだされたのです。亡き御屋形様にも今の御屋形様にも感謝しております。真田は良い主君に恵まれました」
お二人が静かに頷かれた。
「感謝しますよ、恭。父もあの世で喜んでおりましょう。……一つ聞いても良いですか?」
「はい、松姫様」
「何故朽木家に仕えたのです。甲斐では皆が言っていました、何故北条家を頼らなかったのかと。北条家ならばともに上杉と戦えたのにと」
「……」
お二人がこちらを見ている。
「責めているのではありませぬ。今となって見れば正しかったのだと思います。でも何故なのかと思うのです」
「……武田家を離れる前の事ですが夫が室賀甚七郎様、芦田四郎左衛門様と話しているのを聞いた事が有ります。家を興すには勢いが要る。今の北条家にそれだけの勢いが有ろうかと」
「……」
「北条家は上杉を防ぐので精一杯、とてもその勢いは無い。となれば自分達がそこに行っても家を興すのは難しいであろうと」
あの時、三人は酷く寂しそうな表情をしていた。武田も北条も頼りにならない、領地を取り戻すのは無理だろうと。
「それで朽木家へ」
「はい、今川は嘗ての勢威無く織田は美濃攻めに手古摺っておりました。六角は観音寺崩れでもう当てにならず……。勢いが有ったのは朽木家、北近江を制し越前に攻め込んでおりました。自分達がそこに加わり越前攻めの中で御取立て頂ければ、そう思ったのでございましょう」
「羨ましい事です」
松姫様がポツンと呟かれた。
「真田家はこの乱世を逞しく生きています。武田にはその逞しさが有りませんでした。兄上は名門武田の当主として逃げる事は出来ぬと。最後は僅かな兵を率いて生きる事よりも死を選びました。兄上は弱かったのです。泥を啜ってでも再起を図る事が出来なかった。死に逃げたのだと思います」
「真田家と武田家では立場が違いましょう。真田には背負う物は有りませぬ。ですが武田家は……」
武田は新羅三郎義光以来の源氏の名門。そう簡単に全てを捨てる事は出来まい。それを逃げたと非難するのは……。少しの間誰も口を開かなかった。松姫様、菊姫様は俯いている。兄君を口では非難はしても本心では悼んでいるのだろう。名門の重みに圧し潰された兄君に……。
「……甲斐を離れる事に抵抗は有りませんでしたか?」
菊姫様の問いに自然に笑い声が出た。
「それはもう、甲斐を離れるとなれば信濃にも戻れませぬ。話を聞いた時はこれは一体如何した事かと驚きました。ですがこのまま埋もれたくないと言われれば……。甲斐から駿河へ、駿府から船を使って尾張へ。そして美濃、近江。真田、室賀、芦田、女子供も入れれば二百人は居りました。道々咎めを受けぬように幾つかに分かれて近江を目指したのです」
「苦労したのですね」
「苦労はしましたがそれは松姫様、菊姫様も同じでありましょう」
松姫様、菊姫様が首を横に振った。
「私達にはそなた達が居ました。とにかく伊勢に行けば何とかなるという希望が有ったのです。でもそなた達は違う、頭が下がります」
お二人が頭を下げようとしたので慌てて止めた。
「お止め下さい、そのような。苦労したのは近江に着くまででその後はトントン拍子でございました。仕官したいと申し出たその日に直ぐに会う、城に参れと命じられて慌てて夫に着替えをと思ったのですがその必要は無い、直ぐに城に上がれとの御命令で呆然と夫達を見送りました。あのように薄汚れた格好で御目にかかって良いのかと」
「まあ」
初めてお二人が面白そうな表情をした。
「如何なる事かと思いましたが無事に仕官が叶ってその日の夜は御祝いでした。夫、室賀様、芦田様。三人が三人とも上機嫌に酒を酌み交わしながら朽木の御屋形様の事を変わった御方だ、動きが早い、多少せっかちな所が有ると何度も言っておりました。早く慣れなければならぬと。良く覚えております」
「風変わりな御方だという噂は甲斐にも届いております」
「気性の激しい御方だという事も」
はてさて、如何いうわけか他国では御屋形様を気性の激しい御方と言う。
「朽木の御屋形様は気性の激しい御方では有りませぬ。多少誤解を与える事も有りますが本当は心優しい御方でございます。私も夫を失った後、何度か御屋形様から私を気遣う文を頂きました。姫様方も余り構えずに御屋形様を御頼りになられた方が宜しゅうございます」
「そうですね、私達には他に頼る方が無いのですから」
そういうわけでは無いのだが……。
「姉上からも朽木の御屋形様を頼る様にと言われております」
姉?
「北条左京大夫様に嫁いだ姉です」
私の疑問に気付いたのだろう、菊姫様が教えてくれた。しかし梅姫様が御屋形様を頼れと?
「最初、私達は小田原の北条氏の力を借りようと思ったのです。いくら織田でも小田原城を落とす事は出来ぬ筈、そう思ったのですが……」
松姫様が首を横に振られた。
「北条はもう頼りにならぬと姉上が……。今では小田原城を守るにも人が足りない程なのだそうです。到底織田の攻撃を撥ね返し甲斐を取り返すなど出来そうにないと」
そのような事が……、それで朽木を頼れと……。
「いずれは北条家からも人が来るかもしれませぬ」
「梅姫様がそのように申されたのですか、松姫様」
松姫様が頷いた。
「そのためにも私達に朽木家への道を開いて欲しいと」
「姉上は北条家の命運も長くは無いと御考えのようです」
「……なんと」
なるほど、そういう事であったか……。梅姫様は小田原北条家が長くは無いと見ておられる。余程に状況は逼迫しているのであろう。だから松姫様、菊姫様を小田原に留めなかった。道連れにしないために。武田家は信濃衆を通して朽木家と繋がりが有る。それを頼って松姫様、菊姫様を朽木家へと落とされた。
いずれは北条家も最期を迎える。その時に北条家の人間を朽木に落とす。今度は松姫様、菊姫様が受け入れ口になると言う事であろう。武田の血を残し北条の血を残すため……。或いは北条左京大夫様も同意の上での事か。大事の上の大事、御屋形様にお知らせしなければ……。
元亀五年(1577年) 三月下旬 出羽国置賜郡米沢村 米沢城 鬼庭良直
「如何かな?」
主、伊達左京大夫輝宗様が皿を差し出してきた。皿にはミョウガタケと味噌が乗せられている。遠藤不入斎基信殿が小首を傾げた。話をしたいと呼ばれたのだが……。
「遠慮は要らぬ、儂が食べたいのだ。小腹が空いた。食べながら話そうではないか」
なるほど、そういう事か。では遠慮なく、一つとって味噌を付けて口に運んだ。歯触りが良い。殿も不入斎殿も口に運んでいる。しゃきしゃきという音が響いた。
「不入斎、上杉は弾正少弼が上洛するそうだな」
「そのようで」
「上杉は揺れぬか?」
不入斎殿が首を横に振った。
「揺れそうにありませぬな。上杉、朽木の絆は強うございまする。揺れそうな杉の木を朽ち木が支える。枯れ木にも拘らず随分と強力で」
不入斎殿の言葉に殿が不満そうな表情を見せた。
「詰まらぬな」
「はて、不入斎殿の冗談は面白う有りませぬか?」
「詰まらぬ。揺れれば面白かったのだが」
「なるほど、そちらで。当てが外れましたかな?」
「そういう事だな、左月斎」
皮肉を言っても少しも動じぬ、こちらの方が詰まらぬ。殿がニヤリと笑みを浮かべた。こちらの考えなど御見通しか、やはり詰まらぬ。もう一つミョウガタケを取った。たっぷりと味噌を付けて口に運んだ。うむ、旨い。
「儂も当てが外れたが止々斎殿も当てが外れて面白くは思っておるまい」
止々斎様、会津の蘆名盛氏様か。北条の勢力が弱まり上杉の力が強まった。そして上杉と結んだ北関東の諸大名の勢力が安定した。北条と結ぶ事で北関東の諸大名を牽制し出羽に力を延ばそうとしていた蘆名氏は苦しい立場に追いやられている。
当然だが蘆名氏は伊達家との協力関係を重視した。伊達家にとっては悪くなかった。殿は蘆名氏と結ぶ事で伊達家内部での統制力の強化を図る事が出来た。中野父子の追放、小梁川、白石、宮内への叱責。それらを通して殿の力は強まった。今では伊達家中に殿を軽んずる者はいない。
「良い頃合いでは有ったのだがな」
殿の言葉に頷いた。確かに外へと積極的に出る頃合いでは有った。謙信公が病に倒れた事で状況は変わった。上杉が揺れる、そうなれば北関東の諸大名も揺れると見た、上野は難しいだろうが下野、常陸……。その二つが揺れれば蘆名と組んで陸奥で勢力拡大を図る。先ずは田村、そして相馬。越後に内乱が起きるなら越後に攻め込む……。
残念だが上杉の影響力が弱まったのは確かだが揺れているとは言い難い。むしろ弾正少弼は着実に上杉を掌握しつつある。このままいけば下野、常陸の諸大名はまた上杉の統制下に戻るだろう。
「今では上杉だけでなく織田も関東に食指を動かしつつあります」
「厄介な事よ」
不入斎殿の言葉に殿がぼやく様に頷いた。
謙信公が倒れた事で武蔵南部、相模東部、下総、上総が動揺している。本来なら北条が勢力回復に動いても良い。しかし織田が駿河にまで来た事で北条は動けずにいる。織田の次の狙いは伊豆かそれとも相模か。上杉は北条が動けない事を見越して内部を固める事を優先している。朽木、上杉、織田の連携は堅い。
「田村だけでも攻めると言う手が有ると思いまするが?」
儂が問うと殿と不入斎殿が首を横に振った。
「佐竹が如何出るかな、必ず蘆名の背後を突こう。小田を喰って力を付けている。蘆名も簡単には動けまい。となると当家だけで事を起こす事になる」
「あまり好ましくありませぬなあ、相馬の事も有ります。それに上杉よりも蘆名の方がどうもがたついておりますようで。一つ間違えると援軍を出せと言われかねませぬな」
不入斎殿が微かに笑った。どうやら蘆名も当てにはならぬか。
「蘆名はいかぬか?」
「いけませぬなあ。今は止々斎様が居られますが最近では御身体の具合も宜しくないとか。もう五十を越え六十に近くなりましたからな」
蘆名は止々斎様の嫡男修理大夫盛興様が亡くなられ左京亮盛隆様を御養子に迎えた。だが元々左京亮様は二階堂家からの人質。必ずしも蘆名家中での支持は得ていない。蘆名家の実権は止々斎様が握っておられる。それ故家臣達の左京亮様への不満は表に出ていない。しかし止々斎様が亡くなられれば……。
「そろそろ潮時かな」
殿がぼそりと呟くとミョウガタケを口に運んだ。シャリシャリと音を立てて口を動かす。
「不入斎、近江に行ってくれぬか」
「朽木に誼を通じるのですな?」
「それも有るが上方の状況をそなたの目で見て来てほしい」
「承知しました」
不入斎殿が頭を下げた。
潮時か、さて如何なさるおつもりか。朽木と結ぶ、つまり上杉と結ぶと言う事。となると殿の狙いは蘆名かもしれぬ。蘆名の混乱を見越して今から手を打とうという事のようだが、さて如何なるか……。
元亀五年(1577年) 四月上旬 安芸国高田郡吉田村 吉田郡山城 小早川隆景
「ほほほほほほ、ほほほほほほ」
耳障りな上機嫌な高笑いが聞こえる。
「流石よのう、左衛門佐。朽木に先んじて石山城を押さえたか」
「畏れ入りまする」
頭を下げるとまた“ほほほほほほ”と義昭公が笑い声を上げた。
「朽木め、すごすごと兵を退いたそうじゃの。四万以上の兵を持ちながら意気地のない事よ」
「真、公方様の申される通りにございます。それに比べて左衛門佐殿の御働きは実に御見事。兵力で劣るにも拘わらず見事に機先を制された。真、兵は拙速を尊ぶですな」
「そうよのう、中務少輔の申す通りじゃ。京へ戻る日も近かろう。頼むぞ、左衛門佐」
義昭公と幕臣達は上機嫌に好きな事を言って鞆へ帰って行った。後に残ったのは私、兄吉川駿河守元春、安国寺恵瓊の三人。
兄が大きく息を吐いた。
「勝手な事ばかり言いおる。そんな簡単な相手では無いわ。左衛門佐、御苦労であったな」
「畏れ入りまする」
「向こうは良いのか?」
「石山城には四郎が居ります。それに朽木も一旦兵を退きました」
兄が頷いた。
「備前は如何するのだ?」
恵瓊へ視線を送る。恵瓊が口を開いた。
「表立っては宇喜多家の者を立てて治める所存」
「しかし宇喜多家の者は皆死んでおろう」
「和泉守の孫が宇喜多家中に居ります。その者を跡目に。但し和泉守殿のようなふざけた真似はさせませぬ、石山城の四郎様の監督下に置きます」
江原又四郎親次、和泉守の娘婿。その男子に宇喜多の家を継がせる。もっとも形だけでは有る。宇喜多はもう一人では立ち行かぬ。ふざけた真似をするような余裕はない。毛利の支配下で存続させる。
「石山城を押さえた事、良くやってくれた。これで毛利は宇喜多の庇護者、朽木は侵略者となった。多少は宇喜多家の者を使い易かろう」
思わず首を横に振っていた。兄が眉を寄せた。
「嵌められたのやもしれませぬぞ、兄上」
「嵌められた?」
兄が訝しげな表情を見せた。
「備前、備中、美作でどんな噂が流れているか御存じでは有りますまい。今回の一件、裏で糸を引いたのは毛利だと言われております。石山城を朽木に先んじて押さえたのもそれが理由だと」
「まさか……」
兄が呆然としている。
「宇喜多を使って三村を潰し備中、美作に兵を入れ今回はその宇喜多を用済みとばかりに潰したと」
「……」
「噂が広がるのが早過ぎます。おそらくは朽木の手の者が動いているのでしょう」
兄が唸り声を上げた。
「嵌められたとはそういう事か」
「はい、毛利は備前半国、備中、美作を得ましたが足元は弱い。いや朽木に弱められました。これから先、厄介な事になります」
「朽木お得意の手ですな」
恵瓊が笑みを浮かべている。兄が不機嫌そうに顔を歪めた。この二人、仲が悪い。今も私が居なければ兄は怒鳴り出しただろう。
「石山本願寺もそれでやられました。中を滅茶苦茶にされて何も出来ずに終わった。朽木は無理攻めはしませぬが調略に手を抜く事は無い。そしてその間に別な所を攻める。おそらくは但馬、因幡でございましょう」
「何か対応策は有るか?」
問い掛けると恵瓊が首を横に振った。笑みは浮かべたままだ。
「有りませぬな、石山城を取ってしまった以上有りませぬ。となれば後は力で押し切るしか有りませぬ。こちらから攻め込み備前を切り取る。朽木を追い払う」
「……」
恵瓊が笑みを消した。
「時が経てば経つほど朽木の毒は備前、備中、美作に回りますぞ。そうなれば動けなくなる。その前に動く、動ける間に動くしかありますまい」
兄が大きく息を吐いた。
「……左衛門佐、恵瓊の言う通りだ。やるしかあるまい。押し切れば備前、備中、美作は落ち着く。備前、備中、美作が落ち着かぬのは毛利が朽木に及ばぬと国人衆が見ているからだ。力を示せば落ち着く。山陰でも但馬、因幡に集中出来る。備前、備中、美作を失えば但馬、因幡はもとより伯耆も危ない。朽木は一気に出雲、石見に押し寄せよう。そうなれば尼子が動くぞ」
兄がじっとこちらを見ている。
「……腹を括れと?」
「そうだ」
今度は私が息を吐いた。腹を括ったつもりでも括れていなかったか。しかしこの状況で腹を括る事になるとは……。
「右馬頭様を説得しなければなりますまい」
「そうだな、恵瓊、手伝ってもらうぞ」
兄の言葉に恵瓊が頷いた。また一仕事だな。
前作での宇喜多直家の扱いで随分と感想欄が荒れているようです。
如何してあのような扱いになったか、ちょっと書きます。
まず主人公は我々と違ってその時代に生きているのです。我々は宇喜多直家の功罪を評価出来る。良いところもあるのだと褒める事も出来る。でも主人公は如何でしょう? 宇喜多直家をそのように評価出来るか? 同時代に生きて敵である存在、暗殺を繰り返すことで大きくなってきた存在、味方に付きたがっていたが何時裏切るか分からない存在。毛利は宇喜多を受け入れたばかりに三村を敵に回した。でも宇喜多は織田が来ると秀吉に寝返った。
普通に考えれば受け入れられません。傍に寄るなと言いたくなると思うのです。そういう部分を書いたつもりです。そして秀吉が宇喜多を受け入れたこと、その部分も普通なら出来ない、秀吉だから出来たと書きました。それだけの大きさが秀吉にはあり主人公には無かったと主人公自身の独白させました。
宇喜多の特異性、秀吉の特異性、主人公の平凡さ、そのあたりを書いたつもりです。




