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第3回 マリー、忍耐する

 スープが煮える間にシュミーズとコルセット、簡素な衣装を纏い、壁にチョークで日付を入れる。毎朝の儀式だ。

「今日は1773年3月8日。師匠の従者を名乗って6年とちょうど100日。主よ、今日も太陽の下を堂々と歩きますわ、どうぞ御高覧あれ」

 形だけの十字を切った直後、この島の弟子の声がした。

「おはようございます、コメルソン先生、コシニュです。いい知らせですよ。ジャンヌさん、先生の具合はどうですか」


 マリーはジャンヌの顔を作った。頬と眉を引締め、下唇を押し上げ、やや不愛想に見せる。これからフィリベール・コメルソンの30歳過ぎの従者を完璧に演じるのだ。


 彼女が重い扉を開けると、コシニュ青年は部屋に飛び込み、危うく木箱の群れにぶつかるところだった。40個以上の箱が占領する部屋の隅でコメルソンは目覚めていた。

 彼は弟子を叱った。

「私のコレクションを傷つけないでくれ給え!」

 コメルソンは激しく咳いた。肺炎と胸膜炎を併発して半月になる。マリーは師匠の鎖骨の下をゆっくり撫でた。


 コシニュは肩掛け鞄から書類をだした。

 マリーは炊事場に引っ込んで、男たちの声に耳を澄ませた。


「先生のコレクションをパリの王立植物園に送る手配が済みました。東インド会社の船に載せる契約書です。ご覧になりますか」

「ああ。やってくれたか。費用はどうだ」

「荷物を送るには充分ですが、先生の女助手を乗せる余裕はありませんね」

 コメルソンは何の感情もない声で言った。

「ジャンヌ・バレは放っておいていい。この家を買った度胸だ。多少の金が残れば自分で何とかするだろう」


 マリーの眼に憤怒の稲妻が走った。

「何とかするだろうですって!」

 師匠の小鍋を蹴飛ばそうと、両手がスカートを掴んで持ち上げた。


 が、唇を引き締め、窓にもたれてひたすら潮騒を聴いた。

「マリー・エティエンヌ、駄目よ、怒りで我を忘れちゃ駄目。

 コメルソンはああいう人よ。彼は自分勝手な偏執狂。植物採集と分類しか愛せない男! 私を含め、自分の体すら省みない狂人よ。

 でも、どうしよう。フランスで本物のジャンヌ・バレが目覚めて私の助けが要るなら……」

ジャンヌの顔のまま、マリーは海を見据えた。

「いえ、大丈夫。彼女はまだ眠っているわ」


 コメルソンは契約書を確認した。

「コシニュ、前知事のピエール・ポワブルから手紙が来てないか」

「いえ。代わりに前知事の甥が私と共に先生の荷物の管理者として船に乗ります。現知事デュ・スメルの妨害をすり抜けて契約できたのも、彼の働きです。きっとポワブル殿が奥の手を授けたに違いないですよ。また来ます、先生」

 弟子は島の反対側のポート・ルイ教区にある王立植物園に帰った。


 マリーが小鍋にレモングラスの一片を放り込んだところで、コメルソンが呼びつけた。

「ジャンヌ、今日は潮騒が静かだ、窓を開けてくれ。蒸暑くてかなわん!」

「師匠、風に当たってはいけません」

「部屋が暗いのは嫌なのだ」


 マリーは窓を開けた。思い通りにしなければ気が済まない師匠の気性は身に沁みていた。クッションをコメルソンの背に当てて彼を助け起こした。

 手際よく師匠の寝間着を換えていると、師匠が彼女の腕を掴んだ。

「私を立たせてくれ。もう一度だけ、標本箱に触れたい」

「動くと胸の痛みが出ます」

「標本箱に触れたいと言っているのだ!」


 彼女は彼の腋下に入り、体全体で主人を支えた。慣れたものだった。

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