第10話 毒まみれの楽園
コメルソンは耳を疑った。
「お、お前は私の患者を殺したのか」
「彼は私を手籠めにしようと何度も船倉に引きずり込んだのです。最初は数人がかりでね。
師匠、よもや私に奴らの言いなりになれと仰いませんよね、どうなんです。あなたの従者で博物学の助手でも女なら仕方ないと仰いますか?」
「どうやって殺したんだ……」
女吸血鬼は唇を舐めた。
「彼が私を船倉に引っぱるたびに血を抜いてやりました。私は指先だけで人を気絶させられると言ったでしょう。彼の肝臓は弱ってて、急激に体調が悪化し、あなたは診断にかなり苦労していましたね。
彼はタヒチで性病に感染していましたわ。
ああ、おぞましい。あの島に先にイギリス人が持ち込んだのです。彼の首に触れた時、彼の記憶が見えました。タヒチ女との楽園の戯れ、毒まみれの楽園の記憶ですわ!」
コメルソンは震え声で訊いた。
「お前の慎みは……破られなかったのか」
「もちろんです。あんな奴ら、血を吸い尽くして海へ投げたかったですわ!
でも、ルイ15世陛下の水夫ですからね。下手に殺すと王への不敬になります。
奴らは朦朧とさせてから暗示をかけました。コメルソンの助手に近寄ると勃たなくなるとか、海蛇に喰いちぎられるとか。ただ、彼だけは執拗だったので許せませんでしたね。
あら、師匠。そんなに十字を切って、どうなさったの」
「ジャンヌが……ジャンヌがお前の一族に加わらなくて安心している。平気で人を殺す不死人の仲間になれば、きっと苦しむに違いない」
コメルソンは喘いでいた。
「神よ、御国にてジャンヌの魂に会えるなら、どうかマリーを忘れていてほしい。こんな恐ろしい女だったとは……」
「師匠、死んだ後のことが分かれば苦労はしませんわ」
「化け物め……あ、灯りをくれ、暗いのはイヤだ……灯りを……」
マリーの声が低くなった。
「暗闇の中で死にたくなければ、化け物呼ばわりはお止めください」
女の双眸が暮れゆく部屋の中で青く光っていた。コメルソンは分かったというふうに、僅かに首を動かした。
夜のとばりが降りた。風はずっと凪いでいた。潮騒は静かだった。
船で使われる灯火が吊られ、コメルソンはほっとしていた。
「お前は人の血を吸うさいに、記憶も吸うのか?」
「勝手に入ってくるのです。おそらく生命の危機に凄まじい精神エネルギーが湧いているのでしょう。私はそれをコントロールできません。人間の不思議な力とも言えますわ」
「勝手に入ってくる……か。糧を得る代償だ……随分と不快だろう、マリー・エティエンヌ、痛み止めを頼む。強いのを」
「死にますよ」
「私はもう死ぬ。胸の奥で鉛の塊が転がるように痛い……。頼む、吸血鬼のマリー、お前はジャンヌと同じように良い従者だ」
マリーの頬が緩んだ。人間に認められ、頼られるのは意外だった。彼女はコメルソンの望み通りにした。
彼はさらに訊いた。
「お前はいつから吸血鬼なのだ。ジャンヌの教師だった時からそうだったのか」
「ええ。ジャンヌの両親は敬虔なプロテスタントで、教育熱心でした。
師匠はジャンヌの父親を文盲だと誤解していますわ。彼がカトリック教会の文書に署名しなかった為とお考えでしょうけど、あれはプロテスタントの意地ですの。私もプロテスタントでしたから、カトリック教会が契約事や土地売買のさいに介入してくると、たいへん不愉快ですわ
「マリー、いつから吸血鬼なのかと聞いているんだ……」
「あら失礼。18歳だったと思いますわ。ラ・ロシェルがルイ13世陛下の軍隊に包囲された時、私はラ・ロシェル市民でしたの」
コメルソンの眉間に再び深い皺が寄った。
「ま、待て。ラ・ロシェル包囲戦は150年も前の……」




