第258羽♡ 気ままな天使
――7月31日、午後4時12分。
保健室のベッドに横たわるリナは、制服のままだった。
着替えさせる余裕もなく、そのまま運び込んだからだ。
まるで時間だけが止まったように、天使は静かに眠っていた。
窓から差し込む陽光が、白いカーテンを透かして揺れている。
雨はすでに止み、蝉の声が時を惜しむように遠くで鳴いていた。
リナが小さく身じろぎし、かすかにうめくような声を漏らす。
そして、ゆっくりとまぶたを開けた。
「リナ、大丈夫か?」
……声をかけても、返事はすぐには返ってこない。
寝ぼけているのか、視線もまだ定まっていない。
それでも、俺は構わず言葉を重ねた。
「よかった……ほんと、よかった」
「何かあったら……俺は……俺は……」
もう、あんな思いはしたくない。
何度、7月31日の呪ったかわからない……
「……お兄ちゃん。どこか痛いの?」
「いたいのは嫌だね……でもね、大丈夫だよ」
リナは身体を起こし、俺の頭をそっと撫でた。
「いたいのいたいの……飛んでけ」
無邪気なその声は、まるで子どもの頃のままだった。
「リナ……!」
思わず強く抱きしめた。
大切な妹であり、そして――大事な女の子。
「……お兄ちゃん、泣いてるの?」
「ごめん、ちょっと目にゴミが入って」
「……わたし、お兄ちゃんのこと大好きだよ」
「俺もだ、リナ」
「だから……これからも、守ってあげるね」
そして、天使はにっこりと笑顔を浮かべる。
高校生にもなって部屋は散らかし放題、家事もろくにできないくせに――
でも、まあ……いい。
妹だし……それに……
「あぁ、頼む」
「あと……」
「ん? 何だ?」
「誰もいない保健室で義妹と抱き合うなんて、インモラルすぎない? このまま大人の階段、三段跳びしちゃう感じ?」
「お前、何を言って――」
言い終わる前に、リナに押し倒された。
──ああ、これは。
寝起き3分限定の天使タイムだった。
普段は悪魔みたいなリナが、目覚めた直後だけ見せる、奇跡のような無垢な時間。 ……が、今、終わったってことか。
「まあ、わたしとしては全然OKだけどね」
「い、いや、俺は全然OKじゃないです」
目の前にいるのは、いつものリナ。
俺の理性を試してくる、悪魔そのものだった。
「ところで、なんで保健室にいるのだ?」
「お前、やっぱり何も覚えてないのか」
「兄ちゃんが五股かけようとして玉砕したところまでは……」
「あの後、日射病で倒れたんだ」
「それ違うな。暑さごときでわたしが倒れるわけない。最近兄ちゃんからのプリンお布施が少ないから原因は糖分不足なのだ!」
「――んなわけあるか!」
「今すぐ糖分補給する。兄ちゃんがプリンね、ではいただきます。ぐへへへっ」
「あ、あの高山さん? その笑い方は女子高生としてどうかと思うよ? とりあえず落ち着こう、ね?」
「黙れプリン! 大人しく食べさせろ! では、いただきまんぐーす♡」
「やめて――!」
リナの顔が、ぐっと近づく。
このままじゃ、まずい。
限界突破して――大人の階段を登ってしまう。
――その時だった。
保健室のドアがバーンと開き、さくらが鬼の形相で飛び込んできた。
そして俺とリナを、容赦なく引きはがす。
「カスミ君、なんで学校でサカってるの? やっぱり駄犬には調教が必要ね」
「サカってるの俺じゃなくて、リナだから!」
「黙りなさい!」
「は、はいぃぃ」
「さくら、兄ちゃんがせっかく覚悟決めたんだから邪魔しないで! あっち行け、しっしっ!」
「リナ、あなたも黙りなさい」
「うぬの戯言など聞けぬわぁあ! はっ……さてはお主、保健室での3人同時プレイをご所望か……さすがお嬢様、考えることがセレブ、げにえげつなき」
3人同時プレイのどこがセレブなんだ……とは言えない。
だって、さくらたんが怖い。
どう見ても、怒りゲージが上がり続けている。
「さっき黙れって言ったわ……逆らったからお仕置きよ」
「へっ?」
リナの間の抜けた声が響いた、その直後――
ガチン――。
という鈍い音が保健室に響いた。
次の瞬間、むきゅうっと声を上げて、リナがベッドに倒れ込む。
セレブの頭突きだった。
去年の全国大会で決勝点を決めた、伝説のダイビングヘッド。
どうやら、サッカーボールだけでなく人間にも有効らしい。
「……カスミ君にも必要かしら?」
「け、結構です」
「リナに変なことしてないわよね?」
「もちろんです」
「じゃあ、さっさと病院に連れてくわよ。出所がわからない薬を飲んだ以上、ちゃんと調べてもらった方がいいわ」
「……そうだけど」
(なんで薬のこと知ってるんだ?)
「じゃあ、準備して早く」
「はい」
「リナも、いい加減に起きなさい!」
「はぃいいい!」
リナが飛び起きた。
どうやら、やられたふりをしていたらしい。
「あ、あのわたし、今は調子いいから、病院は大丈夫かなって……」
「お黙り!」
「ひぃいい」
「じゃあ行くわよ」
「「はいっ」」
俺とリナの返事が、ぴたりと重なった。
ブチ切れたさくらに連れられ、俺たち三人は病院へ向かった。
リナは一通り検査を受けたが、異常は見つからなかった
けれど、医師の判断で念のため、翌朝まで入院することになった。
俺は、それとなく話を振ってみた。
非公式生徒会のこと、堕天使遊戯のこと──
だが、リナは首をかしげるばかりだった。
……記憶を消す薬は本物だったらしい。
リナにもらった薬を俺も飲まないとダメだろうか。
このままだといずれ……
午後8時、面会時間の終了とともに、さくらと一緒に帰宅した。
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