幕間6♡ 誰もいないはずのピアノ室
――7月31日、午後3時47分。
雨はもう、名残惜しそうに窓を叩くだけになっていた。
まもなく雲が割れ、夏の陽がまた顔を出すだろう。
緒方霞と風見刹那が去ったはずの第二ピアノ室に、ふたつの影が残っていた。
ひとりは、風見刹那。
もうひとりは――赤城さくら。
「おー、赤城さん、ピアノ上手いね。何年やってるの?」
「物心ついた頃からかしら。嗜みの一つよ」
ベートーヴェンの『悲愴』が、静かに部屋を満たしていた。
その旋律は、さくらの胸のざわめきを映しているようにも聞こえた。
「でもさ、ちょっとは手加減してよ。“能ある鷹は爪を隠す”って言うじゃん?」
「何が言いたいのかしら?」
「ハーフ美人の前園さんに、財閥令嬢の赤城さんまでピアノが上手いとなるとさ、このピアノ室で音を奏でるミステリアス少女を演じるボクの立場がないんだけど」
「あら、あなたには元女優っていう、素敵な経歴があるじゃない」
「それはそうだけどさぁ……もうちょっとボクに花を持たせてよ」
「嫌よ。面倒だもの」
さくらの冷たい視線を、刹那は涼しい顔で受け流す。
むしろ、口元には余裕の笑みすら浮かんでいた。
「ひどいなぁ……それより、さっきの話どうする? 緒方君と高山さんの会話、ちょっとだけ盗み聞きするつもりが――地球がひっくり返るレベルだったね」
「……ちょっと待って。今、頭の中で整理してるところ」
「赤城さんって、どこまで知ってたの?」
「カスミ君の話の3割くらいかしら。風見さんは?」
「ボク? さっぱり。何も知らないよ」
「嘘ね。あなた、いつも先回りしてるじゃない」
「買いかぶりすぎだよ」
「あなた、やっぱり非公式生徒会なんじゃなくて?」
「……だったら?」
「生け捕りにして、うちの地下書庫にでも幽閉しようかしら」
「やめてよ、か弱い女の子にそんな仕打ち……」
「冗談よ。捕まえるより、泳がせておいた方が有意義だわ」
「こわっ……それ、冗談に聞こえないんだけど」
「親友の高山さんのこと、ショックだった?」
「……平気って言ったら嘘になる。でも、前から不審なところはあった」
「ふーん」
「でもリナより、わたしは彼女の方があやしいと思ってた、今でも」
「確かにね……やっぱり変というか不自然だよね」
「でも、リナがクロで一旦は決着がついた。ついてしまった」
「でも終わりじゃないって、高山さん言ってたよ」
「そう。これは四分休符みたいなもの。曲を彩るための、静かな間。わたしたち五人とカスミ君は、まだその中にいる」
「赤城さん、詩人だよねぇ……でも一旦危機は切り抜けた。おめでとう、君たち天使は、8月1日を迎えられる」
「ええ。カスミ君のおかげで。でも、次はどうなるかわからない」
「だよねぇ……ボク、やっぱり天使同盟に選ばれなくてよかったよ。くわばらくわばら」
「選ばれてないだけよ。関係ないふりしても、あなたはしっかり巻き込まれてる」
「えぇ!? うそぉーー」
刹那は両手を広げ、あり得ないと言わんばかりに大げさなリアクションをとった。 その動きは、まるで舞台の上で観客の笑いを誘うような、計算された芝居だった。
「……しばらく芝居してないうちに、大根になった?」
「赤城さん、それは酷い……女優が一番傷つく悪口だから、やめて」
「あなたはそんな柔じゃないわ」
「それでも優しくしてよ。というか、さっき緒方君に会った時、こっそり盗聴器しかけるって、どんな神経してるの?」
「別に。フィアンセなんだから問題ないわ。わたしとカスミ君の間では、隠し事はなし」
「あるよ! プライバシーの問題だから!」
「……ところで、風見さんは本当にカスミ君のこと狙ってないの?」
「うん、パス。だって、君たち天使同盟五翼の他にも、ディ・ドリームの子やら、地元の幼なじみやら……今さらボクが参戦したって、勝ち目ないでしょ」
「そうかしら。わたしの知っている女優遠野奏多は、少しでも可能性があれば決して諦めないわ」
「ひょっとして、ボクをけしかけてる? 本気になっても知らないよ?」
「構わないわ。むしろ、裏でコソコソされるより正々堂々としてほしい」
「赤城さんはほんと気高いね。……わかった、考えとく。ちょうど、ネコミミローンの返済で緒方君に会う用事もあるし」
「でも、変なことはしないでね」
「変なことって? ……さて、今度こそバイト面接に行くよ」
「あの話、本当だったの?」
「もちろん。生活費を稼がないと」
「一体、何のバイトするの? 顔出しできないんでしょ?」
「前園さんの代わりに、時任蓮司のお母さんの漫画家アシスタント」
「あなた、絵も描けるの?」
「うん、小学校の頃、都の絵画コンクールで佳作もらったことあるよ」
「漫画描いたことは?」
「一週間前からMeatTubeで講座見始めたから、ばっちり!」
「……やめておきなさい。そんなんで描けるわけないでしょ!」
「いやいや、人生何事も挑戦あるのみ。やってみないとわからないよ。じゃあ、またね赤城さん」
「ちょっと待ちなさい……」
さくらの制止を振り切り、刹那は白花学園を去った。
残されたさくらは、ふぅっと、ひとつ息をついた。
湿った空気の中、ピアノの余韻が微かに漂っていた。
「そろそろリナが目覚める頃かしら。わたしも行かなきゃ」
さくらが去ると、古びたグランドピアノだけが静かに残った。
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