魔物学者は、仲間と共に【大禍】に立ち向かう。
ルアドが発動した魔法は、大地を輝かせた。
青い輝きに包まれたぬかみどころか水に覆われた地面から、若芽が芽吹き始め、徐々に成長していく。
しかしそれらの大部分は、根を張る前に【大禍】に引き剥がされて吸い込まれてしまう。
「ダメだ……!」
ルアドは、その状況に歯噛みする。
木気が満ちるためには、木々の成長が必要なのだ。
そうでないと、水気を吸い取っていく力が増していかないのである。
多少は補助になる程度で、【大禍】が消滅するほどではない。
「……せめて、陽気が増せば」
【大禍】が陰の極みである以上、陽気が増せば相克するはずなのである。
このままでは、スライムたちが突撃してしまう。
「陽気が必要なのか?」
「なんだ、その軟弱な土魔法は。豊富な土壌を上手く利用したらどうだ?」
ルアドが小さく唇を噛んだところで、不意に背後から声が聞こえた。
振り向くと、大剣を担いだ団長と、喧嘩煙管を手にしたニーズが立っている。
白衣の魔獣研究者は、水を吸って重くなっている白衣を煩わしそうに手で振り、不機嫌そうに言葉を重ねた。
「せっかく卵のところに戻ろうかと思ったら、何でいきなり【大禍】が発生している? 一体どういう状況だ?」
「説明は、後でいくらでもしてあげるけど。来たなら手伝ってくれない?」
「有益な研究材料のようだが、消滅させるのか?」
「【魔の領域】がもう一個生まれてもいいなら、放っておけばいいと思うけど」
「それも一興だな」
「たわけたことを抜かすな」
皮肉そうに口の端を上げながら軽口を叩くニーズに、団長が表情を動かさないまま、一歩前に出た。
「陽気が、必要なのか?」
「うん。陰陽五行の均衡を、元に戻すのが一番だと思う。早くしないと、スライムたちが死んでしまう」
「なるほど。お前らしい理由だ」
団長が担いだ大剣をゆっくりと正眼に構え直すと、ニーズが後ろを振り向いた。
巨大なスライムたちが、もうかなりこちらに近づいて来ている。
「君も、手伝ってくれるのかい? ニーズ。ボク、土魔法はさほど得意じゃないんだよね」
「ふん、良いだろう。さっさと片付けて卵のところへ戻るぞ」
言いながら、ニーズは喧嘩煙管で、軽くトントン、と自分の太ももを叩く。
すると、ルアドの張った魔法陣の形に沿って、その部分の地面がズン、と音を立てて沈み込んだ。
同時に、いきなり土結界から感じる力が増して、さらに【大禍】の影響が緩む。
木生の陣術も、持っていかれる若芽が減って、残った草原の草木も成長を始めたことで力を増す。
「土の魔法を使うときは、魔法陣は大地に深く刻め。その手にした便利な呪具に頼りきり故に、そんな基本的なことが疎かになるのじゃ」
「ああ、そっか」
言われて、ルアドは自分が思った以上に動転していたことに気づく。
「俺は、天地の気を自在には操れんが。陽気であればどんな気でもいいのか?」
「ああ、うん。陽気の勢いが増せばそれでいいよ」
五行星配の偏りに関しては、ルアドの結界をニーズが補強してくれたことによって、ある程度是正されている。
陰陽の偏りを正す方向に力を貸してくれるのなら、そちらの方がありがたかった。
団長にそう伝えると、彼は軽くうなずいて意識を集中し始める。
ボウ、とまず大剣が微かに輝き、徐々に輝きを増しながら彼の体が五色の光に包まれていく。
「ぬぅううう……!!」
団長は、魔法を扱うことは出来ないが、最強クラスの剣士である。
その理由は、精霊に愛されているとすら言えるほどに巨大な『器』を持っているからだった。
天地の気を取り込み、それを己の力に変えることに関して、彼の右に出る者はいない。
ーーー団長の力は、それこそ【大禍】に似ていた。
陰陽を問わず、天地の気を底無しに吸い込み陽気に変えることで、彼は人よりも頑健な肉体や強大な膂力を得ている。
おそらく彼は、稀に世界に現れる『勇者』と呼ばれる者に近しい力を持っているのだと、ルアドは推測していた。
大地が、微かに鳴動する。
団長と【大禍】が天地の気を奪い合うことで、世界が軋んでいるようにも感じられた。
それでも。
「まだ足りない……」
【大禍】は、このまま続ければおそらく消滅する。
ルアドは、それでも【大禍】が治まるよりもスライムが到達する方が早い、と感じていた。
だが、二つの術式を発動しているルアドに、あの巨大なスライムの進路を阻む結界を張るのは不可能だ。
ーーー後一押し。
後一押しなのだ。
【大禍】は、衰退を始めている。
後一つ、何かがあれば、即座に消滅するはずだと、直観していた。
しかし、その要素が見つからない。
ーーー考えろ、考えろ、何か……!
もう一個、何か。
と、思った時に、視界の端に煌めく何かがあった。
ーーー……?
顔を上げると、暗雲の立ち込める空に、赤い輝きがポツンと浮かんでいる。
「鳥? ……いや、人……?」
「何だと?」
ルアドの言葉に、ニーズも翼を広げて空を舞うそれを見上げた。
スライムたちの上空を抜けて、一直線に【大禍】の上にたどり着くと、火の粉のような燐光を振り撒き始める。
「何だアレは。見たことがないぞ」
その鳥は、炎を纏った魔物……のように見えたが、それにしてはどこか神秘的な気配を纏っていた。
炎で出来た体の中に、人に似た影のような姿がちらついている。
翼を生やした人間なのか、それとも鳥なのか。
よく分からない、輪郭も曖昧なそれの鱗粉が【大禍】に到達すると、目に見えて闇の渦が勢いを緩めて縮小し始める。
陰の水気が弱まるのに合わせて、【大禍】の上空で暗雲にぽつりと穴が空き、青い空が覗いた。
芽吹き、育ってゆく草木が、露に濡れた葉に一筋覗いた陽光を照り返し、次々と花を開く。
雨と、舞い散る花びらと、空を舞う赤い翼。
一枚の絵画のような景色の中で。
ーーー極小にまで小さくなった【大禍】の闇が、パッと弾けた。




