魔物学者は、対処法を考える。
ルアドは間一髪、転移魔法で難を逃れていた。
「……副団長……」
残念ながら、彼まで連れて逃げる余裕はなく、眼前の闇に呑み込まれてしまっていた。
アスランは二度命を拾い、三度目はなかったようだ。
その事実に世の無常を感じるが、そこに意識を向け続けるわけにもいかない。
「君は、運が良いね」
ルアドは、足元に向かって声をかける。
紫のスライムは、結界の中にいたため、転移で一緒に連れてくることが出来たのだ。
すぐ眼前でわだかまる闇は、自身に周りのものを取り込むように凄まじい風を巻き起こしており、若木などが地面から引き剥がされて、バキバキと中に取り込まれていく。
ルアド自身の黒い白衣も、裾を闇のほうに向けてはためいており、気を抜けば体ごと持っていかれそうだったので、とりあえず防御結界を張って影響を遮断した。
「どうしようかな……」
ルアドはそう呟きながら、目の前のモノの正体に思い至っていた。
ーーー【大禍】。
それは、五行気の内、陰気が極端に偏った時に起こる最悪の災害。
水の陰気によって引き起こされるそれは、正確には『辰星大禍』と言い、全てを呑む水の災害である。
だが、自然に起こるには稀な災害であり、記録に残る限り数度しか起こっていない。
その内の半数以上は、魔族や人の手によるものだった。
それほどに稀な事象であり、ルアド自身も、目にするのは二度目だった。
「……放置していたら、【魔の領域】がもう一つ生まれてしまうかもしれないね……」
ルアドは、一度アスランのことを頭から追い出し、目の前の災害をどうにかする方法を考える。
目にした一度目は、【魔の領域】の最奥。
冒険者団で赴いた先に、今、目の前に在るのと同じだが、さらに巨大なものがあった。
そして、あの凄まじい瘴気がなぜ湧き出し続けているのか、というのは、ルアドが手にしているものに、それを知った先達の記述がある。
ーーー【賢者の記録書】。
この呪具は、魔法を扱うためのものであると思われているが、実は違う。
その名の通り、記録書なのだ。
記録の中に、数多の魔法陣とその描き方、構築理論などまでもが記されている、というだけである。
ルアドは、その記録を引き出すことで呪具として行使しているだけであり、記録書の中には本来、記した存在の見聞きした、様々な知識や物事が納められていた。
おそらくは【大禍】の発生だろう、と思われる記述であり、かつてこの地には、巨大な帝国があったとされている。
竜魔大戦、と言われる戦争の最終期に。
ーーー魔に類する存在が、それを引き起こしたのだと。
そして記録書には『しかし触れてはならない。瘴気の渦を祓えば、魔が蘇る』という警告と共に、その事実は記されていた。
「魔、か」
あの冒険者の奇妙な様子は、何らかの外的要因によって引き起こされたものなのだろう。
人が、何もなく【大禍】を引き起こすような状態にはずがない。
ーーー原因を与えた何かがあるはずだ。
魔物と雨。
あるいは、人為的な何か。
そこまで、思いついたところで。
「実験は、成功したようじゃの」
背後から聞こえた声に、ルアドが振り向くと……そこに、白い外套を着込んだ老人が立っていた。
フードを目深に被っているが、見覚えのあるその姿は。
「師父。……いつの間に白魔道士教会に?」
「ほほ。お主もそうした皮肉を口に出来るようになったのかの」
ルアドの問いかけに、師父はおかしげに笑った。
「少なくとも、そちらの方が可能性が高いかと思ったのですが。……あなたの性格上、神への信仰に傾くよりも、学者として生きることの方が想像がつきますから」
久しぶりに会った彼は記憶にあるよりも老いていたが、それでもすぐに彼だと分かった。
だからこそ、異端粛清官の格好をしていることに疑問を抱いたのだ。
「世の理は、尋常ならざる者の手によって編み上げられ、緻密に破綻なく存在するとしか思えぬ。ゆえにこそ、人は神なる存在を思い描き、信心を捧げている……とは思わぬか?」
「理屈は分かるつもりですが、あなたがそうなる、ということが想像出来ませんから」
「儂とても、何かにすがりたくなる時はある。お主ほどの頭脳があればまた、別かも知れぬがの」
「ボクは神の存在を疑ってはいませんよ」
「だが、世界がその手になるものと信じてはおらぬじゃろう?」
そう言って片目を閉じる師父に、ルアドは肩をすくめた。
内心では、少し嬉しい。
こちらの意図を理解して、適切な返答をしてくれる存在はほとんどいない。
師父は、ルアドにとってはそうした意味で稀有な存在だった。
「神も理の内に在る存在である、とする論理を口にしていますからね。だから協会側からは嫌われてるんじゃないかな」
「さもあらん」
「では、そろそろこれの話をしましょう。実験、というのは?」
ルアドが問いかけると、師父は【大禍】に目を向けた。
顔を上げたことで覗いた瞳は、どこか暗い色を宿しているように見える。
「儂はの、ルアド」
「はい」
「お主に挑んでみたかったのじゃよ」
「……ボクに?」
ルアドは首を傾げた。
「どういう事です?」
「そのままの意味じゃよ。ゆえにスライムを繁殖させ、教会を唆して冒険者に塩を撒かせた。そしてお主らに【魔の領域】に向かうのを示唆する依頼を出したのじゃ」
「そこまで織り込み済みで?」
「ずいぶんと上手くはいったの。【魔の領域】を滅するための実験と称して協力を取り付けた。あの冒険者は捨て石……この状況を、儂が作り出すための最後の贄じゃ」
ルアドは、師父の理由がイマイチ理解出来なかった。
しかし理由よりも気になることが、一つ。
「【大禍】を人為的に引き起こした、という話のように聞こえますが。どのような方法で?」
「雨と、太陰紋と呼ばれるモノによる作用じゃの。水は元来、陰気の極みを内包せしもの。最も引き起こしやすき【大禍】じゃ。洪水が、地を揺らし山を燃やすより容易く起こるようにの」
ーーーなるほど。
ルアドは、師父の言葉を今度は正確に理解した。
軽くモノクルに触れて押し上げると、小さく息を吐く。
「午後に、水と陰気が盛える時。その陰気を取り込む紋を使うことで、あの冒険者の陰陽のバランスを崩したことでこれを引き起こした、ということですか」
「しかり、しかり。雨季に増幅した水の気を取り込むは容易く、信仰、愛憎、一念……種々の狂気に染む者は、そもそも陰に傾いておる。そして我が研究の成果をもってして、これを成した」
「なるほど……」
「この状況、お主は治めることが出来るかの?」
それが、ルアドに対する挑戦、ということなのだろう。
「もし、治められなければ」
「【魔の領域】がもう一つ生まれるかも知れぬの。……が、核となる存在が小物ゆえ、自然と治まるかもしれぬ。しかし治めねば村は呑まれるじゃろう」
師父の言葉は、おそらくは事実。
未だ雨は止む気配がなく、【大禍】が徐々に巨大化している状況から、何かの要素が欠けるまでは拡大し続けるだろう。
もしルアドが、これを治められなければ。
「自然たらざる方法によって、世の理が乱れる、ということですね」
「左様。お主が最も嫌うものであろう?」
「ええ……既に乱れていることに目をつぶっても、なお許容し難い話です」
アスランは、これがなければ死ななかっただろう。
またもし、師父による策略がなければ、あの冒険者も人として死ねただろう。
冷たく目を細めたルアドは、【大禍】を滅する方策を考えながら、トントン、とこめかみを叩く。
「最後に一つ。……なぜ、そうまでしてボクに挑もうと?」
「先ほど告げたがの」
「ボクが問うているのは、あなたの気持ちです。師父」
『お主は魔物じゃ』。
そう、ルアドに対して口にした張本人は。
少し黙り込んだ後に、ぽつりと呟いた。
「ーーー儂が、お主に妬ましいという気持ちを抱いてしまったからじゃ」




