魔物学者は【大禍】に出会う。
ルアドは、アスランが飛び退る間に、ジッと逃げた男を観察していた。
どうにも気配がおかしい気がしたからだ。
彼の周りだけ、どこか歪みを感じる。
気脈が乱れ、水の気配が集まって増大していくのだ。
ーーー何だろう?
ルアドは、男の様子に興味を惹かれた。
薄暗い中でもさらにどす黒く闇がわだかまっている風に、ルアドの目には映っており、それは陰の水気……底無し沼や人を呑んだ溜池にも似た、どこか不気味な気配である。
あるいは、他に似ているものといえば【魔の領域】に差し掛かる時に感じる瘴気などにも、通じていた。
ーーーあれ、まずいんじゃないかなぁ?
初めて見るが、降り注ぐ雨の陰気を、もし彼が無限に吸い込んでいっているのだとすれば、確かに力は増すが、同時に許容量を超えて飽和するのではないだろうか。
「君さ、それ、どうやってるのか知らないけどやめた方がいいよー? 正気を失うよ?」
この世界において、陰気がそのまま毒、というわけではない。
陰に属する夜が狩場の生き物や、瘴気無しでは生きられない魔獣などが存在するように、あるいは雨ばかりでは作物は腐るが晴ればかりでは枯れるように、陰陽はどちらも必要で、均衡が重要なのだ。
バランスが崩れるのは、世界から生き物まで、全ての存在にとって良いことではない。
あまり極端に崩れてしまうと、精神に異常をきたしたり、病にかかったり、自然の中でそれが起これば災害となるのだ。
ルアドから見て、男は今、そういう状態だった。
極端に陰陽のバランスが崩れ、その分力が増大しているのだ。
だが。
「ヒッ、ヒャ、ヒヒャッ……!!」
「聞こえてなさそうだねー」
男には、もう声が届いていなかった。
今の間にも、どんどん男を包む陰気が暗くなってゆき、まるで人の形をした闇が目だけを爛々(らんらん)と輝かせているようにしか見えなくなっていく。
「呑気なこと言ってる場合か! あれ、どうなってんだ!?」
「ボクに聞かれても、分かんないなー。でもまぁ、ああなっちゃうと殺すしかなさそうな気もするけど。……団長に怒られるかなぁ?」
言いながら、ルアドは【賢者の記録書】に手をかざす。
「ゲ、ヒャァァアアアッッ!!」
完全に正気を失っているのだろう、全く考えも何もなさそうな動きで男が突っ込んでくるのを、ルアドは、自分の周りに展開した防御結界で防いだ。
どれだけ力が強まろうと、一介の冒険者程度が団長より強くなる、などということはあり得ない。
この結界を突破したことがあるのは、せいぜい団長とその側近、あるいはよほどの力を持つ魔獣くらいのものだ。
一応、連れて帰る約束をしているみたいなので、出来れば生きたまま拘束したい。
が、大雨によって水の領域と化しているこの場所で、〝水生木の相生〟や〝土克水の相克〟を試してみたところで、どれほど効果があるかは分からなかった。
あるいは、瘴気に似ているという自分の推察が正しければ、聖属性による浄化が有効になるかもしれないが……。
「いやダメだろ! それやっちまうと、報酬どころか下手すると罰金だぞ!?」
アスランがこちらに走って来ながら、それを口にするのに。
「まぁそれは仕方なくない? これを放棄する方が多分」
害がある、とルアドが言い返したところで。
ーーー男の体が、突然どろりと崩れ落ちた。
「あ」
呑まれた。
ルアドは、直感的にそう感じて、早口に告げる。
「副団長、来るな!」
「あぁ!?」
しかし、聞こえた言葉を彼が理解するよりも先に。
崩れおちた男の体が爆発的に肥大化して、周りの全てを……アスランとルアドすらも一瞬で呑み込んで、辺りを包み込んだ。




