魔物学者は、卵が孵化する予兆を感じる。
「エンリィ!! 朗報だよ!!」
「うきゃっ!? ちょっといきなり出てこないでよ!!」
クーちゃんの背中にある宝箱の中に戻ったルアドが顔を出すと、エンリィがパッと手にしていた服で体の前を覆った。
どうやら着替え中だったらしいが、正直そんなことは割とどうでもいい。
「ノーブル・ズゥの卵にヒビが入った!! そろそろ孵りそうだよ!!」
「いいからちょっと中に戻りなさいよ!!」
ちょっと興奮しながらルアドが言うと、顔を赤くした彼女に怒鳴られる。
「え? でもニーズにも知らせに行かないと!!」
「い・い・か・ら……戻りなさいよ!!!」
ぶん! とテーブルの上に置いてあった木のコップを投げられたので、軽く首を傾けて避ける。
「危ないなぁ。じゃ、とりあえず急いでねー」
なんだか怒っているようだったので、ルアドは一応頭を引っ込める。
着替え終わって声をかけられたので改めて出る。
「……せっかく戻ってきたのに、またこの雨の中歩くの……?」
「一人で呼んでくるよー。クーちゃんの中で待っててねー」
「え? ま、待ってる間に孵化したら……?」
「そんなに早くは出てこないよー。今夜一晩くらいかなぁ?」
ノーブル・ズゥの卵は、初級魔法程度なら受けてもビクともしない程度には頑丈なのだ。
「徹夜するの?」
「そりゃするよー。エンリィは興味ないの?」
瘴気の影響を受けていない魔獣の卵が孵化する、なんて、一生に一度立ち会えるかどうか、という魔物学者垂涎の瞬間だ。
ルアドの質問に、エンリィは目を泳がせながら指先で頬を撫でた。
様子を見る限り、不安と興味が半々、というところだろうか。
あるいは、睡眠を取りたい気持ちと、興味の間で揺れているのかもしれない。
「そりゃ……興味はあるけど」
「でしょ? 夜寝られないのが嫌なら、今お昼寝してたらいいんじゃない? どうせ洗濯物も干せないし」
それよりも、ルアドは早くニーズにこのことを伝えないといけない。
これを知らせなかった、なんてことになったら、全力で殺しに来てもおかしくないからだ。
「じゃ、行ってくるねー」
「な、なるべく早く帰ってきてね?」
「はいはい」
軽く答えながら、ルアドは豪雨の中、もう一度外に出た。
※※※
「……寒いのう」
白服集団と別れ、音もなく村に入り込んだ老人は、濡れそぼった外套のフードから滴る水で濡れた顔を拭った。
魔導布の効果で中まで水は染みていないが、顔を濡らす雨が体に滴るのは避けられない。
その冷たい感触は少々鬱陶しかった。
「老骨に、豪雨と長旅はなかなか厳しいものじゃ」
愚痴を言いつつも、牢の近くに着いた老人の動きは慎重で素早い。
「さて」
牢の裏手に回り込み、わずかに離れた位置から顔を覗かせると、牢の前には見張りの青年がいるようだった。
どうやら一人のようなので、少し離れた位置で袖から短い杖を取り出した老人は、ぬかるんだ地面に紋を描いた。
ブツブツと小さく呪文を唱えると、ゆらりと薄桃色の煙が湧き上がる。
その煙は意思を持つように、牢の前にある見張り用の庇の下で、椅子に腰掛けている青年に向かって漂っていった。
しばらく待つと煙を吸い込んだのか、雨音の向こうから、微かにいびきの音が聞こえ始めた。
人を眠らせる魔法であり、しばらく目は覚まさない。
堂々と牢の前に立った老人は、外から木製のかんぬきだけで閉じているのを確認して、中に目を向けた。
「のう」
「!」
声を掛けると、中にいた冒険者……囚われた間抜けの姿が見える。
しかし、そんなことは匂わせることなく、驚いて顔を上げた相手に老人は話し始めた。
「助けに来たぞ」
「おぉ……聖教会の……!!」
「そうじゃ」
老人は、表情を明るくした冒険者に対して笑みを浮かべてみせる。
「邪教の者たちに悟られぬよう、逃げねばならん。君を救い出した後に本隊が突入することになっている」
言いながらかんぬきを抜いた老人は、扉を開けて、冒険者を縛り付けていた縄を解いた。
「感謝いたします……!」
聖教会の白い外套は、特別なものだ。
身につけている者は高位の身分であることが保証されている……のだが、老人は別に聖教会の使徒ではない。
しかし冒険者に、それを伝えてやる義理はなかった。
「これを持ち、正面方向へ走るが良い。君が入り口から出れば、後は他の者がやってくれるじゃろう」
言いながら老人が手渡したのは、一本の剣と一つの球体だった。
真っ黒な水晶に似たそれは、指先でつまめる丸薬程度の大きさである。
「これは何でしょう?」
「君を救うものだ。邪教の者に追いつかれそうになったら呑むがいい。神のご加護がある」
「貴方様は、共に行かれないのですか?」
「儂にはまだ、村を滅ぼすための使命が残っておる。ゆけ」
「は……!」
頭を下げて、雨の中を剣を手に駆け出す冒険者を、冷徹な目で見つめた後、老人はその場を後にしようとして……ふと、体の大きな男が一人立っているのに気づいた。
虎の毛皮に似た外套を身につけたその大男の、ちらりと覗く顔には大きな傷がある。
「……来るだろう、と警戒していたら、案の定だったな」
「どなたか存じ上げぬが、なかなか鋭い嗅覚をしておる」
老人はまったく気配に気づかなかったその相手が、大剣を引き抜くのを見ながら笑みを深くした。
「どなたかな?」
「ソア・ヴリトラハン。あの罪人の身柄は、俺が預かっている。それを逃した以上は、敵と見なす」
「左様か」
老人が、チラリと脇にいる見張りの青年に目を向けたところで。
「人質に取ろうとしても、無駄だ。遅すぎる」
間近で声が聞こえ……目を戻す前に、首が飛んだ。
ーーーほう。
あまりにも鮮やかで躊躇いなく命を奪われたことに、老人は感心した。
『なるほど、別の者が向こうも追っておるか』
「ネズミが紛れ込むのを警戒しないほど、甘くはない。……分体か」
『左様。土を己に似せておるだけじゃよ』
首だけになって地面に落ちても話し続けてみせるが、大男は驚いた様子も見せなかった。
倒れて土に還る体と、地面になる横になった首は、切り離される時に感覚を遮断してあり、痛みはなかった。
『儂の役目は終わった。後は悠々と見学させてもらうとしようかの』
「何者だ、貴様は」
『ただの学者じゃよ。聖教会に義理もない。まぁ、儂の目的はどうでもよかろう。間もなく攻めてくる者たちに気を配ったほうが良いぞ』
そうして笑い声を残しながら、老人は遠くに残してある自分の体に意識を戻した。




