魔物学者は、変異スライムに懐かれる。
ルアドが起きると、翌日は凄まじい雨が降っていた。
「良いんだか悪いんだか、よく分からないタイミングだねー」
小屋の壁や屋根を叩く音で、声が聞こえなくなるくらい凄まじい雨量が降り注いでおり、村の地面が、一面ぬかるみどころか水に沈みかけている。
ルアドは【賢者の記録書】を開き、自分の周りに水を弾く結界を張って、小屋の外でそれを眺めていた。
「雨季に入るとたまにあるのよねー。こういう雨が降るの」
「この辺りの天候は、かなり安定しているはずだがな」
同じ結界の中に入って、様子を見ていたエンリィとニーズの言葉に、ルアドはモノクルを押し上げながら、昼間なのに真っ黒な空を見上げる。
「【魔の領域】に近いからね。折に触れて気脈の乱れが発生するんじゃないかなー」
雨が降ることそのものは、ルアドも待っていたのである。
ただ、団長たちが、冒険者を移送するのに足止めを食らうことになってしまうのが、良いか悪いかは判断できない点だった。
「まぁ、おあつらえ向きにこの辺りだけの雨ではあるから、こっちはさっさと終わらせちゃおう」
ルアドの目には【魔の領域】の方角にある遠い空が、薄く光っているのが見えていた。
つまりこれは局地的な豪雨であり、あの辺りに向かったら晴れているだろう。
しかしルアドの呟きに、エンリィが首を傾げる。
「何がおあつらえ向きなの?」
「ん? マタンゴ域の結界を解くのに、だよ?」
雨季が来たら、元々開放するつもりだった。
この雨がどのくらい続くのかは分からないが、もし雨量が足りなければ、こっそりルアドが長引かせてもいい。
水の結界を張るよりは手間がかかるが、確実にこの辺りからマタンゴを散らさないと周りに別の害が出てしまう。
そもそもの目的は、塩によって死んだ土地を蘇らせることだったのだから。
「マタンゴは雨を嫌う。水の結界を解けば、一部が寄生したトノオイ飛蝗の体を使って、勝手に【魔の領域】の方に逃げていくはずだからねー」
一応、結界を全て解くのではなく、そちらの方向にしか向かえないようにはするつもりだった。
「残ったマタンゴは?」
「この雨で死滅すると思うよ。川で胞子を洗い流したのと同じくらいの水量に晒されるだろうしねー」
「……やっぱりルアドってよく分からないわね」
「何が?」
「魔物を大切に思うわりに、マタンゴを死滅させることには何も思わないのかなって」
どこか不満そうなエンリィに、アハハ、とルアドは笑った。
「これがマタンゴを絶滅させる行為なら、ボクはやらないだろうけどねー。このままマタンゴを繁殖させてたら、今度は村の土地として利用出来なくなるよ? そっちの方がいい?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
「でしょ? 世の中は、全部が全部円満に収まる、なんてことは少ないんだよー。誰かが得をすれば誰かが損をするし、全員が何かを選ばなければいけない、そういう風に出来てるんだ」
それをルアドは自然の掟だと思い、団長は女神による運命だと思っている。
「マタンゴの一部は逃げる。トノオイ飛蝗とスライムは天敵がいなくなって元に戻る。そして土地は蘇る。少なくとも、選べる中では一番良いと思う状況を、ボクは選んでるつもりだけどねー」
「貴様がそもそもマタンゴ実験などしなければ、そんな選択をする必要もなかったのだがな」
「混ぜっ返すなよー」
ルアドはムゥ、と口を尖らせた。
「状況自体は、興味深かったでしょ?」
「新たな魔獣を作り出そうとすることの、何が興味深いだ。この狂学者めが」
「君も頑固だよねぇ……」
別に、魔物の亜種は産まれたが、新たな魔獣など生まれていないというのに。
そんな風に思いながら、三人でゾロゾロと水の結界に向かい、天蓋とその一部を解いた。
すると、いきなり強烈な雨に降られた寄生されたトノオイ飛蝗たちが慌てふためきながら、動き始める。
寄生されてないモノたちや、スライムは特に変わった様子もなく、草を食んだり思い思いに過ごしていた。
だが、門の辺りに着いたところで、こちらの姿に反応した一匹のスライムが目に入る。
なぜかルアドに懐いているらしい、赤みがかって紫に見える変異スライムは、少しだけ大きくなっていたが、他のスライムたちに比べて生育が遅い。
そしていつも、ルアドが門のところに来るのを待っていた。
「あ、あの子……」
エンリィが何かを感じたらしく、ルアドは問いかける。
「どうしたの?」
「あの不思議な子の意思が、強くなってるような……?」
「へぇ」
変異スライムに目を向けると、それはプルプルと体を震わせる。
そして周りを見回すような仕草を見せた後、マタンゴ飛蝗の動きを察したのか、結界の外に向けて動き始めた。
「どこに行くのかなー?」
逃げるのだろうか、とどことなく可愛いそれを見守っていると、結界が解けたところから門の外側に抜けた変異スライムは、門の前に来て動きを止めた。
「開けて、って言ってるみたい」
「そんなことまで分かるんだ! 凄いね!!」
「いやちょっと待て、ルアド」
その言葉に従って門を開けに向かおうとすると、ニーズにガシッと腕を掴まれる。
「何?」
「貴様、アレを中に入れるつもりか?」
「そうだけど。なんか懐いてるみたいだし、意思のあるスライムなんて凄く興味深くない?」
「危険な存在かもしれんだろうが! 何を軽率に……」
「エンリィ。あの子、危険そう?」
ルアドがそう問いかけると、エンリィは首を横に振る。
「ううん。あの子から感じる気配は、クーちゃんっぽいかな?」
『わう!』
進化したクイグルミであるクーちゃんの返答に、ニーズが渋面になって何かを言おうとするが。
「魔物使いの感覚は、信じていいと思うよー?」
先にルアドがそう口にすると、彼女は舌打ちして手を離した。
「貴様らといると、調子が狂うわ!」
「それは大変だねー」
言いながら、ルアドがわずかに門を開けると、その隙間からするりと変異スライムが入り込んでくる。
そしてこちらに体を擦り付けてきた。
溶かされる様子はないので、軽く手で触れてみると、まるで喜んでいるように体を震わせる。
「可愛いねー。スライムに懐いてもらえるなんて、ちょっと幸せだな〜」
この子にも名前をつけてあげなきゃねー、と思いながら、ルアドは思わず頬を緩ませていた。




