没落した貴族の軌跡(10)
カトレアはフリールを連れて、故郷である食恵の国へと帰って来ていた。彼女は一度は本当の父親であるウドロークを頼ろうと考えたけれど、それはしなかった。
理由は簡単だ。ウドロークとはあの日の一夜だけの関係。カトレアは彼に迷惑はかけたくないと考え、二人でそう約束して別れたからだ。それに、カトレアはウドロークに対して何故か良い印象を持っていなかった。何故そうなのかは分からないけれど、時間が経つにつれて、あの日の夜の過ちが妙に怖くて堪らなかった。だから、フリールを連れて帰って来た故郷で、ひっそりと暮らそうと思ったのだ。
最初は母親のヒノが自分が嫁いでから暮らしていた家に行こうと思ったけど、そこはケレムに調べられると考えて思い止まった。だから、今暮らしているのは全く関係無い場所で、始めて来る田舎村の外れにある森の中だ。ここなら追手は来ないだろうと考えて、ここで住む事にした。
森の中にあった小屋は、元々は昔に変わり者が住んでいた小屋で、村の人に誰も使っていないから自由にして良いと言われて借りる事にした小屋だ。小屋は今まで住んでいたどの家よりも小さいけれど、それでもフリールと二人だけで過ごす時間は幸せで、カトレアは日々を楽しく生きていた。
「ただいまあ」
「あら。お帰りなさい。フリール。今日は早かったわね」
「お母さん。ユチク小母さんがたまには顔を見せに来いって言ってたわよ」
「先月に行ったばかりじゃない。まだ薬もあるし、全く問題無いのに心配性ねえ」
「何言ってるのよ。全然行ったばかりとか言う日数じゃないわよ」
呆れた顔を母親のカトレアに向け、フリールはため息を吐き出した。
カトレアがフリールを連れて逃げ出してから既に数年が経ち、フリールは九歳になっている。身長も大分伸びていて、今では一人で村まで行ける年齢だ。それから昔と違って、カトレアの事を“ママ”とは呼ばず“お母さん”と呼ぶようになっていた。
そんなフリールが話したユチク小母さんと言うのは、村にいる医者の事である。カトレアはここ数年で体に異常が見つかり、病院に通っているのだ。と言っても、カトレアはあまり乗り気が無いようで、こうして娘のフリールを心配させているようだけども。まあ、それでも一応寝たきりになっているとか、そう言う状態では無いので、フリールもあまり強くは言わないようだ。
「あ。そうだ。お母さんにも伝えた方が良いってユチク小母さんに言われたんだけど」
「何かしら? もしかして、ユチクさんの息子さんが遂に結婚したのかしら?」
「違うわよ。それにお兄さんは未だに婚約者どころか気になる人もいないんだから、まず先に相手を見つけないとでしょ」
「それもそうね」
「と言うか、あの男……絶対お母さんを狙ってるわよ。今日もフリールのお母様は来てないのか? って態々料理教室に顔を見せに来たのよ」
「まあ。あの子ってまだ十五でしょう? うふふ。私みたいな小母さんでも良いのかしら」
「お母さんは顔だけは良いんだから、どうせ外見が目当てよ。私は絶対に反対。許さないんだからね」
「うふふ。大丈夫よ。私はフリールさえ側いれば、他の誰もいらないもの」
「それなら良いけど」
少し拗ねた顔をしたフリールの頭をカトレアが撫で、ふと思い出す。
「それで、伝えた方が良い事って何だったのかしら?」
「あ。忘れる所だった。もうっ。お母さんが変な事を言うからよ」
「ふふふ。ごめんなさいね」
カトレアが謝罪し乍ら笑みを見せると、フリールは口をへの字にしてジト目を向け、直ぐに仕方が無いなあと口を開いた。
「最近村に騎士王国の騎士が何人か出入りしてるんだって。誰かを捜しているみたいで、ほら。最近村で変質者が出たでしょ。だから、その変質者を捜してるんじゃないかって皆が言ってたよ。ユチク小母さんにもその事を聞いたら、お母さんと私は落ち着くまでは家から出ないようにして、暫らく村に近づかない方が良いかもって……って、お母さん? ねえ? 聞いてる?」
フリールが聞いた話を説明している途中だった。カトレアの表情が変わり、体が震えだす。フリールはその様子に気がついてカトレアを呼んだけれど、カトレアの震えは止まらず、フリールの声が聞こえていないのか反応を示さなかった。
「え? どうしたの? もしかして何処か痛いの? ねえ? お母さん? どうしよう。私、ユチク小母さんを呼んで来――」
フリールは段々と焦って叫び、家を飛び出そうとした。しかし、それをカトレアがフリールの腕を掴んで止めた。フリールはその事に驚き、更にはカトレアが自分の腕を掴む力の強さに驚いた。
今までされた事の無い強い力。それがその腕に向けられていたからだ。
「お母……さん…………?」
「……駄目。駄目よ! 行っては駄目! フリール! 行っては駄目なの! 逃げなきゃ! 逃げなきゃ殺されてしまうわ! 私も! 貴女も!」
「お母さん…………?」
「ごめんなさい! ごめんなさいフリール! 私のせいで! 貴女は何も悪くないのに!」
「どうしたの? お母さん? 分からないよ」
カトレアの顔は、恐怖で酷く歪んでいた。そしてその日の夜、まだ陽が沈んで間もない少し明るみのある時間に、二人の親子の逃亡生活が始まった。




