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7 穏やかな日常と、不穏な夜 ①

 

 

 妻を娶るということは。


 不自由になることだ、と言った男がいた。

 自由気ままに狩りにでることができなくなり、行動を制限され、それに甘んじねばならないのだと。


 命を背負うことだと言った男もいる。

 背負ったその命を惜しむがゆえに、己の望むがままに生きることが、己の思うがままに死ぬことができなくなることだと。


 新たな生を生きることだと言ったのは、マグリスだ。

 人格も何もかも崩壊して、新たな人間として生まれ変わったのだと豪語し、その責任を取れとシディアに迫り、追いかけ追い詰める姿は、本当に全くの別人だった。


 恐ろしいまでの執着を見せたマグリスが、シディアを追って『獣の巣穴』(フィグルイーグ)をためらいなく出ていった時は驚くよりも納得したが、『獣の巣穴』(フィグルイーグ)の長たちが『四獣』(カルテフィグル)であるマグリスの突然の出奔を見逃しただけでなく、俺たちが二人の後を追い、手を貸すことさえ見て見ぬふりをしたのには、驚いた。

 

 正式な依頼はない。

 依頼がなければ、『獣の巣穴』(フィグルイーグ)は動かない。

 だが『(俺達)』が勝手に動く分には預かり知らぬ、と。

 

 すべてが終わった後に、なぜ行かせたのかと長たちの一人に問えば、彼は喉を鳴らして笑った。


『獣』(フィグル)から唯一を奪えば、ただの(フィグル)に成り下がる。あの『狂獣』(リスフィグル)を総出で狩るよりは、餌を与えて微睡ませた方がよかろうよ」


 確かに、シディアを追うマグリスとはやりあいたくはない。シディアを手に入れた今では首輪も足枷も全く気にせず、満腹で微睡んでいる状態だが。


 妻とは、枷であり、餌でもあるもの。

 そういうものか、と思ったのだが。


 手入れをしていた道具からゆっくりと顔をあげると、視線の先には、気の抜けるような足音を立てながら動きまわる小さな黒髪の娘・・・妻、がいる。


 茶を淹れ、暖炉の前に広げて乾かしていた洗濯物をたたみ、物置部屋から裁縫道具を持ってきてほつれを直す。

 たったそれだけの動作のはずなのだが、火に近付き過ぎて服の裾を焦がしそうになって慌てたり、洗濯物を一枚一枚畳みながら、温められた布を頬に当てて微笑んでみたり。服のほつれを直していたはずが、いつの間にか全く別のものを作り始めている。


 見ていると、面白い。

 特に縫い物をしている時は、何を考えているのか、妙に真面目な表情だったり、口元に笑みを浮かべていたりと、くるくると表情が動く。


 それを見ながら頭の中でもう一度、長の言葉を思い浮かべて首をひねった。


 ・・・枷?

 ・・・餌?


 しばらく縫い物に熱中する妻を眺めていたが、手を止めて立ち上がる。台所の棚からヴォルフの妻が作ったという甘露を溶かして固めた飴を一粒持ってきて、妻を呼ぶ。

 反射的に顔をあげ、返事をしようと小さく開いた口の中にその飴を入れると、驚いたように大きな目をさらに大きくしてから、甘味に気づくと、すぐに礼を言って笑みを浮かべた。


 気に入ったらしい。


 何か問いたげにこちらを見ているが、気づかぬふりをして道具の手入れを始めれば、妻もそのまま縫い物に戻っていく。

 時々膨らむ頬と嬉しそうに目を細めるのを視界の隅で確認し、やはり、と思う。


 妻が餌、ではなく。

 妻に餌、だ。


 しっくり来る言葉に納得して一人頷く。


 ・・・明日は、菓子の詰め合わせでも買ってこよう。





 妻という存在がどういうものであるにせよ、婚姻が成立した日から、彼女は俺の妻になり、俺は彼女の夫という立場を正式に手に入れた。


 だが、純血主義者の動きはむしろ活発になってきている。


 狩りの許可が出てからのグレインは、見せしめの域を超えるほど派手に、嬉々として襲撃者たちを徹底的に叩いているが、それでも一向に襲撃や仕掛けが皆無にならないのは、末端の根同士の横の繋がりがないためなのだろう。

 複雑に絡み合う無数の根が根本を隠し、今だ実態がつかめていない状態だ。


 婚姻を結んでもすぐには手出しがなくならないことはレインの例で分かっていたが、俺たちの家の敷地内に見知らぬ足跡を見つけるのは、ひどく不快だった。


 ・・・『家』。


 これまで、寝るのと武器食料を補充するためだけに存在するただの『拠点』だったはずのこの場所が、いつの間にか、力を抜いて休むことができる『家』と呼べるものに変わっていた。

 少しずつ妻が暮らしやすいように改造していった拠点は、一日のほとんどをここで過ごす妻によって磨き上げられ、小さな飾りや小物が増え、過ごしやすいように整えられてきている。

 なにより。

 妻の存在自体が、ただの『拠点』を『家』に変えていた。


 守りを強化する為に、やむなく連れてきた気性の荒いボウドゥですら、すぐに妻になつき、名付け親の一人として認めるという珍事も起きた。

 ウーマと名付けたボウドゥは、気性が荒く攻撃的な野生ボウドゥの中でも飛び切り荒っぽい性格だったはずだが、今は妻が持つ『家』の雰囲気に酔い、微睡んでいるようにさえ見える。


 ・・・慣れない『家』の雰囲気に酔っているのは、俺も同じか。


 扉を開けると、笑顔で出迎える妻。

 その声を、気配をどこかくすぐったく感じながらも心地よい響きに酔いしれて、『家』の中では余計な力が抜けていく。

 そう言う意味では、妻とは確かに餌なのだろう。


 ・・・力を抜くどころか、気も抜きすぎて、寝起きに寝ぼけて危うく妻を絞め殺しかけてしまったこともあったが。


 慣れてきた頃が一番危険だというが、まさに妻の存在にようやく慣れ始めて来た時の、有り得ない失態。

 身の危険どころか命の危険に晒された妻は、寝室を別にすべく半日もかけずに物置部屋を片付けてしまったが、外から仕掛けを施すことで、なんとか別室になるのは阻止した。


 たまたまその夜がこの季節特有の大雨だったから良かったものの。

 そうでなければ、多少強引な手を打たねばならなかっただろう。


 その反省から、妻が起きる時には俺に声をかけるようになったが、念には念を入れて妻が身動きすれば、必ず俺を起こさなければならないように棚と寝床の位置を調整し、床板も緩めておいた。

 こうしておけば、壁側で寝かせている妻が起きれば、大きな動きで気がつくし、床に降りたときには音も鳴る。

 最初の内は、俺が壁側で休むこともあったが、寝床を転がって行ってぎりぎり落ちそうで落ない、何とも微妙な気分にさせられる曲芸のような妻の寝相を知ってからは、壁側を定位置にさせている。


 起きて動いていても面白ければ、寝ていても面白い。


 どんな夢を見ているのか、幸せそうに口を動かしていたり、物凄く困ったような顔をしていたり。かと思えば、知らない言葉で真剣に何かをつぶやいたり。

 寝顔を眺めているだけでも、湯に浸かっているように余計な力が抜けてくる。


 本当に、見ていて飽きない。


 深い眠りに落ちた妻の、ほんのり赤く色付く頬にそっと指を這わせる。

 その肌の柔らかな感触と温かさを心地良く感じながら、なぜか僅かに胸が騒ぐ気がした。

 名残惜しいのを耐えて、そっと指を離す。


 ・・・ゆっくり、眠れ。


 音を立てないように寝床から出て、妻をしっかりと毛布で包み直す。

 手早く身支度を整え、外に出た。



 星明かりの下。

 二頭のエウレカを連れたグレインが厩舎の前で佇んでいる。

 その青い瞳を鋭く輝かせながら、冷めた顔で嗤う。


「死者だ」


 厩舎からウーマが出てくる。


「訪れし者が一人・・・ふざけた真似をしてくれる」


 隠そうともしないグレインの憤怒に、ウーマが同意を示して大きく蹄を鳴らす。エウレカたちは怯えて鳴き声も出せずに震えている。

 グレインはレインに手出しした者は徹底的に潰してきた。マグリスから苦情が出るほど、徹底的に、だ。

 それほど派手な見せしめが効果無いというならば、見せしめ自体に意味がない。

 ならば。


「動く手足がなくなれば、どう出る?」


 手を出して来るのを待つ必要はない。


「確かめよう」


 にやり、と暗く嗤うグレイン。

 その頭の中では、もうすでにいくつもの策が構築されているのだろう。


 同じ笑みを浮かべてエウレカに騎乗すると、ウーマがすかさず家の前に立つ。

 常なら俺が他の生き物に騎乗するのを全力で阻止してくるウーマが威嚇すらせずに、見張りの体勢をとる。


 『家』を護るために。


 さっさと行って、さっさと帰って来い、と言いたげな黒い目に頷いて、エウレカを走らせる。


 言われずとも。


 ・・・俺が帰るのは、この『家』だ。



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