6 婚姻成立
さて、どうしたものか。
付け替えたばかりの扉の前には、引きつった微笑みを浮かべたまま、神官服姿の男が青ざめた顔で立っている。
深い緑の瞳に、茶色の髪。あらかじめフローインに確認していた特徴と一致する。
見た目は聞いていた年齢よりも若く見えるが、少なくとも一目で逃げ出さず、引きつりつつも微笑みを浮かべていられるのは、それなりに年齢と経験を積んでいるからだろう。
それに、首から下げられた証飾は、白い花をかたどった白曜石と公正と審判を示す双葉の緑曜石。
実物を見るのは初めてだが、主神殿の星妻から認められた諮問神官だけが所持することができるという貴石だ。濡れたような艶やかさが特徴の石だが、下賜された本人以外が身に付けると途端にその艶やかさを失うのだと聞く。
この意匠に星神フィリーを示す金輝石と星妻を示す銀輝石を加えたものが、神官長の証飾になる。
目の前の男が身につけた証飾は、確かな艶やかさで、間違いなく諮問神官本人であることを証しているのだが。
かろうじて微笑みを浮かべているとはいえ、昨日の挨拶周りを彷彿させるような、顔面蒼白で震えているこんな状態では、まともに会話ができるとも思えない。
視線をあちこちに彷徨わせ、決して合わせようとしないが、卒倒されていないだけまだマシか。
知らず、ため息がこぼれる。
こんなことなら、前もって顔合わせをしておくべきだった。
扉の前で固まってしまっているこの諮問神官をどうしようか、と後悔とともに考えていると、何を感じたのか、こちらの方を見る視線に明らかな怯えが浮かぶ。
ああ、これは逃げられるな、と確信したとき。
「お客さまですか?」
後ろから、娘が声を掛けてきた。
朝食の片付けをしていたのか、布巾で手を拭いながらこちらを伺っている娘に答えるよりも早く、諮問神官が息を飲む気配がした。
俺と娘の間を緑の瞳が忙しなく往復し、やがて、驚愕と憐憫、反省がよぎり、そして燃え上がるような強烈な決意がその目に浮かんだ。
「・・・星神フィリーの加護を。はじめまして、イフェと申します」
顔色さえも変えて、まっすぐに視線を合わせてくる諮問神官に、思わず、眉間に力が込もる。
これは、まずい。
イフェと名乗った諮問神官の目に浮かんでいるのは、強烈なまでの正義感と使命感と、なんとしてでも娘を守ろうという意志。
何から守ろうとしているのかは、聞かなくても分かる。
・・・俺から、だ。
「初めまして。神官さま、ですか?」
「え、ええ。フローイン教師と同じ神殿で働かせていただいています」
僅かに怯えるような素振りを見せたイフェ諮問神官だったが、それでも俺の影から挨拶を返す娘を見て踏みとどまり、使命感に燃えた目で俺を睨み、それから安心させるような微笑みを娘に向けた。
「貴女にお話があって参りました。中に入れていただいても?」
どこか戸惑った様子の娘が、確認するように俺の方を見る。
頷いて扉の前から体をずらすと、諮問神官を招き入れ、茶の用意をするためにぱたぱたと足音をたてて調理場の奥へ入っていった。
その姿を見送ったイフェ諮問神官は、さて、と俺に向き直る。
「私は、ルーグリア・イフェ。『瞬星落街』の諮問神官として、この婚姻の確認に参りました。申請人は貴方ですね?」
頷いて申請証を渡す。
「確かに。それでは相手の方の意思確認を行いますから、申請人は、私が呼ぶまで少し席を外してください」
一通り申請証の中身を確認すると、イフェ諮問神官が退室を促してくる。元々、個別に婚姻の意思確認を行うことは神殿の手続きの際にも聞いていた。
そのことに異存はないが、釘は刺しておく。
「扉は、全て開けておく」
「・・・構いませんが、何か心配なことでも?」
「念のためだ」
明らかに不審そうな声で問い掛けて来た諮問神官にそう言いおいて、娘に声を掛けてから外に出た。
そのまま、調理場の窓の方へと回り込むと窓がほぼ全開になっていて、耳をそばだてるまでもなく、中の声が聞こえてくる。
そう、念のためだ。
ルーグリア・イフェが諮問神官であることは、証飾が証となるが、どんな人物であるかまでは分からない。
娘と二人きりにさせる状況が決まっているならば、尚の事。
何かあれば外からすぐに作動させられる仕掛けは、昨夜のうちに用意してある。
二人は、世間話や共通の知人であるフローインのことなどを話しているらしい。
だが、どことなく娘の声がいつもよりも固い。
うまく言えないが、まるで、嫌いな物について話しているような、眉をひそめそうになるのを堪えているようなそんな表情が浮かんでくる声だ。
イフェ諮問神官の方も娘の様子に気づいているのか、巧みに話題を変えながら質問し、意見し、少しずつ娘からこの婚姻に関係する情報を引き出している。
なるほど、この手の会話には、確かに慣れているらしい。
「では、貴女と彼が初めて会ったのは、最近のことなのですね?」
「はい。私はこちらの街へ来て、まだ日が浅いので」
最近も最近、つい二日前に初めて顔を合わせたのだと知ったら、間違いなく承認はもらえまい。
フローインがどの程度この諮問神官に話をしているのかはわからないが、下手をすれば保護の名目で神殿に連れて行かれてしまう可能性すらある。
「そして、ご領主殿の紹介で初めて会った、と」
「はい、そうです」
「彼のことを、どう思っていますか?」
イフェ諮問神官が静かな声でついに核心に触れて、一瞬、身体が強ばった。
・・・彼女は、どう答えるのだろうか。
怯えられてはいない。嫌われているということもないだろう。
おそらく、何がなんだか分からないうちに強引に話を進められてしまって戸惑っている、というのが娘の状況だ。
そんな不測の状況下で、俺をどう捉えているのか。
彼女の、答えは。
耳に、意識が集中する。
「私は貴女を守り、保護する者です。なにも恐れることはありません。ですから、正直に答えてください。貴女は夫になる方をどう思っていますか?」
「どうって・・・」
熱心に、安心させるように娘に言葉を紡ぐイフェ諮問神官を、なぜか殴りつけたい衝動に駆られながら、それでも娘の気配と声だけを追う。
娘は、戸惑うように言葉を濁し、少し考えるような間を開けた。
ひどく息苦しいような、不可解な緊張感に、息を潜めて娘の答えを待ち、そして。
「・・・クマさんのぬいぐるみみたいだなぁ、と」
「・・・はいっ!?」
ぽろっ、と思わずこぼれてしまったような娘の言葉に、イフェ諮問神官と俺の内心の声が被った。
娘は、イフェ諮問神官のその勢いに我に返ったらしい。
「あ、いえっ、あの、髪もおひげもふさふさのふわふわで、ぬいぐるみみたいというか。どっしりしていて、安心感があるところも似てますよね!?」
慌てて弁解するように言葉を重ねているが、結局、熊のぬいぐるみに似ているということを強調されただけだった。
・・・そうか、クマか。クマのぬいぐるみか。
獣だ、狂獣だ、と他人から言われたことはあったが、それは全て実物の凶暴な生き物のことであって、間違っても、ぬいぐるみではない。・・・ぬいぐるみ、か。
「・・・そ、そうですか。ぬいぐるみ、ですか。・・・他には?」
予想外すぎる答えに、思わず遠い目になっていると、それ以上の困惑と混乱を含んだイフェ諮問神官の声が聞こえてくる。
「えっと・・・。言葉数は少ないですけど、必要なことはちゃんと教えてくれますし、私が作った御飯をとても美味しそうに食べてくれる方です。それに、私が過ごしやすいようにさりげなく気遣ってくれる、とても優しい方なんですよ。・・・あとは、これからゆっくり知って行けたらいいな、と」
柔らかな声。どことなく嬉しそうな、恥ずかしそうな、しかしそれをごまかすように最後の方は早口で。
いったい、娘はどんな顔で、仕草で、この声を紡いでいるのだろうか。
「・・・良い夫婦になれそうですか?」
「・・・先のことは、私にはわかりません。でも、私は私のやるべきことをした上で、そうなれるように努力します」
したい、ではなく、する、という意思が込められた声。
まっすぐに射抜く強い瞳が脳裏に浮かぶ。
「いつか、本当の良い夫婦になれたら、素敵ですよね」
少し照れたような笑い混じりの声に、それまでの緊張を解くようにイフェ諮問神官が深く息を付いた。
「貴女がその気持ちを忘れなければ、きっとなれますとも。ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに礼を言う彼女は、気づいていないのだろう。
イフェ諮問神官のこの祝福の言葉によって、この結婚が正式に成立したことを。
中でイフェ諮問神官の気配が動くのを感じて、出入り口へ戻ると、少し遅れて中に呼ばれた。
「お二人に、星神と星妻のご加護を。ご成婚、おめでとうございます」
顔を合わせるなり、何処かの連中を彷彿させるような生暖かい視線で、微笑まれる。
ついさっきまで青ざめて怯え、仇のような敵意を向けられていたとは思えないほど慈愛に満ちた声で祝福され、イフェ諮問神官の署名が入った申請証を手渡された。
これで、この婚姻は正式なものとなり、神殿内にも記録が残る。
純血主義の連中が、これを知ってどう動くか。どう連中を引きずりだすか。
考えなければならないことは山ほどある。
・・・ある、のだが。今は思考が纏まらない。
「旦那さま?」
イフェ諮問神官を見送りに出てきた娘が、不思議そうに声をかけてくる。
・・・いや。
どくり、と心臓が大きく音をたてた。
娘、ではない。
彼女は、妻になった。
・・・俺の、妻に。




