キュートアグレッション
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ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります。
「駿くん。もう遅いし、帰ろうか」
そう呼びかけたが返事がない。久しぶりの遊園地で絶叫マシンに何度も乗り、さんざんはしゃいで遊んだ後の、夜になりかけの時間。割高の自販機で買った缶コーヒーを片手に、もう人もまばらになった園内のベンチで休憩していた時だった。返事がないことを不思議に思い、夏輝は隣に座る駿介を見た。
「あ、寝てる」
駿介は座った状態で、首を少しだけ横に傾けてうたた寝をしていた。
「疲れてるんだなあ」
夏輝は呟き、駿介を起こそうと身を乗り出す。首が痛くなりそうな体勢だ。
「相変わらず、きれいな顔」
思わず夏輝は呟く。その端整な顔も、目の下の隈や乾燥した口もとなど、明らかな疲れが見て取れる。夏輝は、物心ついたころから、駿介のこの顔がたまらなく好きだった。どんな女の人よりもきれいだと思っていた。なので、幼い頃はいつも、駿くん駿くん、と駿介の後ばかり追いかけていたような気がする。お互い大人になり、そこまでべったりではなくなった現在でも、駿介は今日みたいに夏輝と遊ぼうとするので、夏輝はそれがうれしい。
「息抜きがしたい。どっか連れてって」
駿介がそんな気まぐれな女子大生みたいなことを言い出したのは、今朝のことだ。スマートフォンにかかってきた電話に出ると、重たく沈んだ声で駿介はそう言ったのだ。
「なっちゃん、今日は店休みだったよな?」
「そうだけど、急に言われても困るよ」
不満そうに答えつつ、夏輝はすでに出かける準備を始めようとしていた。駿介に頼まれると、嫌とは言えない身体になってしまっているのだ。嫌とは言えない、というよりも、全く嫌じゃない。むしろうれしい。
店というのは、夏輝の実家が経営している酒屋のことだ。夏輝はその酒屋を継ぐことを決め、十八歳の時から店で働いている。駿介のほうは、大学を卒業しても就職はせず、大学院へ進むことを決めたらしい。その入試や論文の準備に追われているのだと、夏輝は今日、初めて聞かされた。今日は、その息抜きということだったようだ。
「大学へ四年も行って、まだ勉強すんの? 駿くん、学校嫌いだったじゃん」
夏輝がそう言うと、
「いつの話してんだよ」
駿介は困ったように笑っていた。
「なっちゃんは、ちゃんと働いててえらいよな。俺は、就職すんのが怖いもん。社会でやっていける気がしない。だから、院に逃げるんだ」
駿介は自虐するようにそう言い、まあ院でやりたいことも一応はあるんだけどさ、と付け加えた。
疲れているのなら、ちゃんと家に帰って自分のベッドで眠ったほうがいい。だいぶ暖かくなってきたとはいえ、こんなところでうたた寝なんて風邪をひいてしまう。夏輝は、だらりと力の抜けた駿介の手から地面に落ちそうになっているコーヒーの空き缶を取り、ベンチから立ち上がって、すぐそこのゴミ箱に捨てると、再びベンチに戻る。
「駿くん」
腰を折り、目線の高さを合わせ、顔の正面から声をかけると、駿介の眉間に、きゅっとしわが寄る。そのしわを見ていると、なんとも言えない気分になった。もっと、くつろいだ表情をしてほしいのだ。眠っている時くらい。自分といる時くらい。そんなことを思いながら、夏輝は自分の中に発生した甘やかな感情を押し殺すようにして、わき上がった唾液を飲み下す。二つ年上の幼なじみに対して、そんな感情を抱くようになったのは、いつのころからだろう。考えてもはっきりとは思い出せない。
「駿くん」
もう一度、名前を呼んでみる。
「ん……」
少し渇いた唇から、微かに漏れた声。その声を聞くだけで、その瞳に自分が映るだけで、夏輝の心はころころと転がるようにして坂道を転がり落ち、さらにはその下の水飴のような甘ったるい沼に沈んでいく。
きっと甘い。駿介の唇を見つめながら、夏輝は思う。思ってしまったら、もう理性が言うことを聞かなくなった。夏輝は駿介の唇に、音もしないような、ただ自分の唇を押しつけるだけのキスをした。目の前に、閉じられたまぶたが見える。微かにコーヒーの香りがした。駿介の長いまつ毛がふるふると震え、ふっとまぶたが持ち上がる。駿介の充血して潤んだ目と、至近距離で視線がかち合った。まあ、さすがに起きるよね。そう思いながら、夏輝はそっと唇を離す。
「なっちゃん?」
ビー玉みたいに光を反射した目で自分を見つめる駿介の感情を、夏輝は読み取ることはできない。ただ、その目に自分が確かに映っていることに、ひどく感動してしまう。駿介の美しい眼差しの中には、確かに小さな自分がいる。その眼差しに捉えられると、もしかすると駿介には、自分の中身が底のほうまでまる見えなのかもしれない、などと夏輝は錯覚しそうになる。そう錯覚してしまったらもう、どんな言葉も意味をなさない。
「あ、ええと」
こういう時に言うべき言葉を探してみたが結局見つからず、夏輝はただ、「ごめん」と謝った。駿介はなにも言わずに夏輝を見ている。
「ごめんなさい」
夏輝は、もう一度謝る。自分は、こんなことをするべきではないのに。してはいけなかった。今も、これからも、してはいけないことだった。
「ああ」
駿介はかすれた声で呟いて、「うん」と小さく頷いた。怒ってはいないようだった。いつものマシンガンみたいな文句が聞こえない。駿介は今、一体なにを思っているのだろう。
「もう、帰ろう」
何事もなかったかのように腰をぐっと伸ばしながら言うと、駿介も黙って立ち上がる。そのまま無言でゲートまで歩く。夏輝は時々振り返り、駿介がついて来ていることを確認した。
駅に着き、改札を入ってホームに立ったところで、駿介が夏輝の隣に並んだ。
「なっちゃん」
駿介が、小さく夏輝を呼んだ。
「はい」
びくりと肩を揺らし、夏輝はなぜか改まった返事をしてしまう。隣にいる駿介を見ると、駿介も夏輝をじっと見つめていた。視線が合う。
「ん」
駿介は、さっきよりもさらに小さく頷いて、それ以上はもう、なにも言わなかった。ビー玉みたいな目が、灯りを反射させて、きらきらと光る。きれいだな、と夏輝は思う。
「駿くん」
なにを言おうとしたのか、自分でもわからない。ただ、思わず呼んでしまった。
「なに」
駿介が返事をしたその瞬間、電車が到着した。
「あ……」
夏輝の答えを聞く前にさっさと乗り込んだ駿介の背中を見ながら、夏輝の口からはため息みたいな声が漏れた。夏輝も慌てて乗り込む。うやむやな空気のまま、吊り革を掴んで立ち、夏輝は駿介を見る。同時に駿介も夏輝を見た。じわっと胸の底が甘く痺れる。口の中で唾液がわき上がる。飲み込んでも飲みこんでも、わき上がってくる。水飴の底に沈んだ自分を、どうすれば引き上げることができるのだろう。駿介に対して抱くこの甘い感情を、どうすれば消すことができるのだろう。だが、夏輝を身動きできなくするのは、いつだって駿介なのだ。一生この人のそばにいる、と、とっくの昔に勝手に誓った自分は、そんな甘い感情を抱いてはいけないはずなのだ。そんな気持ちで、この人の横に立ってはいけない。唾を飲み込みながら、夏輝は駿介から視線を外し、窓の外の流れる景色を見つめる。言葉なんて出てこない。
*
出先でうっかりうたた寝をしてしまったところ、年下の幼なじみにキスをされた。しかも同性の。そんな場合、どのような反応を示せばよかったのだろう。なにをするんだこの野郎などと騒ぎ立てるべきなのか、単なる悪戯として、やんわりとたしなめるべきなのか。このようなケースは初めてで、驚いて、戸惑って、駿介の頭は凍結してしまったみたいに動かなくなった。思考停止。完全にエラーだ。
「ごめんなさい」
そう二度、夏輝は言った。夏輝は、キスをしたことを心から申し訳ないと思っているようだった。事実、怒られることを覚悟した上で泣くまいと我慢している子どものような表情をしていた。夏輝は、つるっとした素朴でシンプルな顔立ちをしているので、実年齢よりも幼く見える。だから、そんな表情をしていると余計に子どもっぽく見えてしまうのだ。しかし、二度も謝られるほどに嫌な出来事でもなかったため、駿介は、「ああ、うん」と頷いただけだった。なんとも中途半端な反応をしてしまった。駿介は思う。夏輝のほうから弁明なりなんなりがあれば、この件に関しての理解の糸口が、多少なりとも掴めたのだろうがそれもなく、駿介と夏輝はそのまま電車に乗り、それぞれの家に帰った。それぞれの家といっても隣同士ではあるのだが。
その後も、結局あれはなんだったのか答えを導き出そうと試みたのだが、この件に関しては完全にエラーしてしまっている脳みそでは、検索してもそれらしい言葉がヒットせず、曖昧なままぐずぐずと数日が経ってしまい、今日に至る。
今日、駿介はつまり、その答えを直接、夏輝本人に聞くために、商店街にある夏輝の店の前でひっそりと夏輝が出てくるのを待っていた。夕方、五時を過ぎたら夏輝は店の車で配達に出るはずだ。
昔、わざわざ受験して入った私立の中学校に馴染めず不登校になり、部屋に引きこもってしまった時、夏輝だけが毎日、駿介を尋ねてやって来た。ランドセルを家に置くこともせず、夏輝は小学校から帰ると自宅ではなく駿介宅を訪れた。他の誰にも会いたくはなかった駿介だが、夏輝にだけは部屋に入ることを許していた。それは、駿介が中学生で、夏輝が小学生という、ちょうどそのタイミングだったからかもしれない。単純な話だが、無邪気に訪ねてくる小学生の夏輝を、無下に追い返すような気にはなれなかったのだ。夏輝は昔からよく泣く子どもだった。夏輝の訪問を駿介が拒否すれば、夏輝はきっと泣いてしまう。夏輝のことを泣かせてしまうのは忍びない。駿介はそんなふうに思っていた。その後、公立の中学校へ転校し、駿介は再び学校へ通うようになったのだが、それは夏輝のおかげだったと言っても過言ではない。夏輝が何気なく言った、「おれの行く中学に、駿くんがいたらいいのに」という言葉で、駿介は公立中学への転校を両親に願い出たのだ。そうは言っても、同じ中学で過ごすことができたのは、駿介が中学三年生、夏輝が中学一年生の一年間だけだった。不登校だった頃の駿介はほとんど思考停止状態で、部屋に来てくれた夏輝のことを、ぬいぐるみを抱きしめるみたいによく抱きしめていた。あたたかい夏輝を抱きしめていると、安心したのだ。夏輝も嫌がることはなく、そういうじゃれ合いをよろこんでいたように思う。学校に行けなくなった情けない自分でも、「おれ、ずっと駿くんのそばにいるからね。絶対離れないからね」などと言って慕ってくれる弟のような夏輝が、駿介はかわいくて仕方がなかった。しかし、それだけではなく、無条件に自分を慕ってくれ、受け入れてくれる小さな存在に、精神的に縋っていたというのが本当のところなのかもしれない。とはいえ、あの日のキスは、そんな幼いころのじゃれ合いとはやはり違うものだろう。そういえば、なっちゃんはもう二十歳なんだよな、と駿介は思う。ずっと、子どものままのように感じていた。そんなことあるはずがないのに。
飲食店への配達に出かける夏輝が店のワゴン車に乗り込もうとした時、駿介は無理矢理に助手席に乗り込んだ。夏輝は驚いた様子だったが降りろとは言わず、駿介を助手席に乗せたまま車を発進させ、得意先へ配達をして回った。それが全て終わり、
「駿くん、どうすんの? 家まで送って行こうか?」
再び車を発進させた夏輝が、
「それだったら、おれも直帰しようかな」
そう言ったところを見計らって、
「なっちゃんは欲求不満なの?」
駿介は切り出したのだ。
「へっ?」
駿介の問いに、夏輝は目をぱちぱちと瞬かせ、間抜けな声を上げた。
「な、なに、急に」
夏輝の声と表情はあきらかに動揺の色を見せている。
「この間の、あれのことだけど」
核心に迫ろうと駿介は口を開いたのだが、妙に曖昧な物言いになってしまった。しかし、夏輝は観念したように、「ああ、あれですか」と、なぜか敬語で頷く。
「それ、いま蒸し返す?」
「蒸し返すためにここにいんだよ」
あれとかそれとか、面倒くさい会話だな。そんなことを思っていると、
「欲求不満かって言われたら、それはきっと、そうなんだよ」
意外にも夏輝はあっさりと認め、ハンドルを握る手にぎゅっと力を入れた。そして、
「おれにも、いろいろある。言わないだけで」
真っ直ぐに前を見たままそう言い、さらには、「あのことは、忘れてほしい」と、シンプルな顔を歪ませるのだ。
「忘れてほしい?」
駿介は思わず低く問い返す。
「俺を欲望の捌け口に利用した挙げ句、それを忘れろって言うんですか。自分勝手にもほどがあると思います」
学級会の口調で訴えると、
「わかってるよ!」
夏輝は声を荒げた。
「自分勝手なのは重々承知なの! でも、忘れたほうがいいんだって!」
かと思うと、急にしおしおと勢いをなくし、「あの、怒ってる?」と弱々しく言う。感情が安定していないようだ。
「いや」
駿介は、ため息混じりに答えた。
「別に、怒っているわけじゃない。怒るようなことでもないし」
「でも駿くん、ああいうこと嫌かなって」
「嫌じゃないよ、別に」
おどおどと申し訳なさそうに言う夏輝の言葉を遮るように、駿介は言う。
「嫌じゃなかったよ」
夏輝に納得してもらうために、二回言う。夏輝は、ちらりと一瞬だけ駿介を横目で見て、ひぐっと喉を鳴らし、歯を食いしばった。それから、ずっ、と軽く洟をすすると、
「おれが、駿くんのそばにいるためには、ああいうことはしちゃいけないと思ってて。それが、最低限の礼儀かなって」
夏輝は言った。駿介の知らない、自分ルールがあったらしい。
「おれは、なにがあっても駿くんのそばにいようって、ずっと決めてて。絶対離れたりしないって」
幼いころの口約束を、夏輝はそのまま口にした。今でも、夏輝がそんなふうに思ってくれていることに驚き、駿介の胸はよろこびで甘くとろけた。
「だから、ああいうことは本当はしちゃいけないんだ。したら、結局そばにいられなくなるでしょ。だけど……」
その瞬間、夏輝の左目から、ぽろっと涙がこぼれた。
「あ。おい、なっちゃん、大丈夫か」
駿介は驚き、思わず声をかけた。それには答えず、
「だけど時々、ああいうことをしたくなるんだよ。苦しくて苦しくて、もう、自分でもどうしようもないんだ」
ごしごしとパーカーの袖で目と口もとをこすると、涙声を隠そうともせずに夏輝は言った。つまり夏輝は、夏輝の主観で「駿介にするべきではない」ことを、どうしようもなくしたくなる、と言っているらしい。
「身体が正常に機能している人間なら、誰にでも性欲はあると思うし、仕方ないよ」
慰めるつもりで言ってみたが、仕方がないということもないな、と思い直す。実際に欲望を行動に移すか否か、そこには大きな違いがある。だから、
「ただ、ああいうことは誰にでもしていいことじゃない。相手が俺じゃなかったら犯罪だからな」
駿介は、そう釘を刺した。
「ああいうことをしたくなるのは、駿くんにだけだよ」
夏輝は、相変わらずぐずぐずの声で言った。
「駿くんにしか、したいと思わないもん」
二回言った。直球。ストレートに駿介の中心に納まった重量のある言葉は、駿介にひとつの覚悟を決めさせた。夏輝の、したいようにさせてやろう。
「本当に、嫌じゃないの?」
視線を前方に向けたまま、夏輝は問う。
「うん」
駿介は、しっかりと頷く。
「本当に?」
「ああ」
「おれに、気とか遣ってない?」
「ないって。気遣いなんかするわけないだろ、今さら。俺が、なっちゃんに。さっきから、嫌じゃないって言ってんじゃん。くどいな」
「だって」
ぽつりと言って夏輝は、ずずずっ、と洟をすすった。
「おれ、ぎりぎりなんだよ。ぎりぎりのところで繋ぎ止めてる理性を、必死に保とうとしてるんだよ。まあ結局、保ててないけどさ」
かすれた声で、
「今だって」
夏輝は言い、素早くハンドルを切ったかと思うと道路脇の駐車スペースに停車した。いつもの運転みたいに緩やかなブレーキではなく、急ブレーキに近い乱暴な停め方だった。前にガクンとつんのめった駿介の身体を、シートベルトが押し戻す。
「今だって、今この瞬間だって、おれは駿くんに触りたい。全身、べたべたに触りつくして、この前のあんなのじゃなくて、もっとぐっちゃぐちゃにねちっこいキスをして、もっともっとやらしいことだってしたい。それでも、ねえ、駿くん。それでも」
夏輝はぐずぐずと湿った涙声で、ごしごしと目をこすりながら訴えかけるように言う。
「それでも、駿くん、嫌じゃないの? 仕方がないって、おれのこと受け入れて、そばに置いてくれるの?」
駿介の目をのぞきこむように見つめてくる夏輝の目は、真っ赤に濡れていて、涙といっしょにどろりと溶けて落ちてしまいそうな感覚にとらわれる。
「知ってると思うけどさ。俺は、昔からなっちゃんがいないと駄目なんだよ」
脳みその普段使わない部分をフル活動させて、必死に考えながら、駿介はなるべく素直な気持ちを伝えようと努力する。
「なっちゃんが俺のそばにいてくれるなら、別になにされたっていい。なっちゃんは、いつでもこんな俺のことを受け入れてくれてたじゃん。俺も、なっちゃんを受け入れることくらい、できるよ」
言い切ったところで、本当にできるかどうか一瞬不安になり、「たぶん」と付け加える。駿介がその言葉を言い終わった瞬間、シートベルトを外した夏輝が助手席に身を乗り出してきた。そして、夏輝の唇が、駿介のそれにぎゅっと強く押しつけられた。むにっとやわらかい感触のあと、下唇をぺろりと舐められる。
「大丈夫? 嫌じゃない?」
至近距離で、とろけそうな目で、余裕のない声で問われ、駿介はこくこくと首を縦に振る。ふたたび唇を押しつけられ、舌でそこをこじ開けられた。
「ふ」
合わさった隙間から息がもれる。舌先をつつかれて、下唇を甘噛みされる。
「ねえ、本当に、無理しなくてもいいんだよ、駿くん」
全く余裕のない表情と声で、なにを言う。そんな状態でもなお自分のことを気遣う夏輝に、呆れと同時に駿介は、妙に乱暴な気持ちを抱いた。夏輝をぐちゃぐちゃにしたい。夏輝に、ぐちゃぐちゃにされたい。変な気持ちだ、と駿介は思う。
「無理なんてしてない」
それが本当だと伝えるために、駿介は自ら、夏輝の唇を舐めてみた。さっき夏輝が自分にしたことを単純に模倣してみたのだ。その途端、夏輝が駿介の両肩を強くつかんだ。すごい勢いで夏輝の顔がずいっと駿介の真ん前に迫る。おいこら、ちゃんと距離とスピードを計算しろ。そう思ったが、遅い。がちがちっとお互いの歯が勢いよくぶつかった。ほら見ろ。痛いと思う間もなく、急いたように舌を乱暴に突っ込まれ、荒々しいキスをされる。
「もう、戻れないんだからね」
夏輝は言う。キスをしながらしゃべるな、と思うが、口を塞がれているのだから反論もできない。気持ちのいい粘膜接触に、駿介の脳天がびりびりとしびれる。くちくちと音を立てながら、夏輝の舌は、駿介の口内を丹念に味わいつくすようにねちっこくうごめいている。喰われる、と思った。喰われてもいい、と思った。喰われることが、こんなに気持ちがいいのなら。
この感情はなんだろう、と、ぼんやりとした頭で駿介は思う。夏輝になら、なにをされてもいい。なにをされても、きっと許せる。そばにいてくれさえすれば。そんな、ほの暗くもあたたかな感情は。信頼だろうか。いや、違う。そんなに美しいものではないだろう。ただの依存性の高い執着だ。だが、それでもいい。理由なんて、なんだっていい。決して、放してなどやるものか。駿介は、自分とのキスに夢中になっている夏輝の首の後ろへ腕をまわして抱き寄せ、そのまま、後頭部を撫でてみる。夏輝の腰が、この先への期待でおもしろいほどにびくびくと震えた。駿介はそんな夏輝を、単純にかわいいと思うのだ。そういう感情を世間では、愛とか恋とかそんなわかりやすい言葉に当てはめているのかもしれない。
*
目が覚めて、上半身を起こし、まず自分が全裸だということを不思議に思う。続いて、隣に駿介が眠っていることに驚愕し、夏輝は反射的に周りを見渡した。ここがベッドの上で、さらには駿介の部屋だと気づいて、一気に昨夜のことを思い出す。カッと顔が熱くなった。
「うわ」
ささやくように後悔の声を上げ、両手で自分の顔を覆う。
「うわうわうわうわ、うそ……」
夏輝の心臓は、ばっくんばっくんと暴れ始めた。昨夜、駿介を送って行く途中、話の流れで車を道路沿いのスペースに停め、駿介が嫌がらないのをいいことに、そのまま車内でねちっこいキスをしてしまった。なけなしの理性が、ついにぶっ飛んでしまったのだ。店の営業車でなにやってんだ。今になってそう思うが、その時は夢中だった。目の前の、自分のキスに応えてくれる駿介に夢中だったのだ。下半身の甘い疼きに逆らうこともせず、駿介のシャツのボタンに手をかけ、ひとつふたつと外したところで、
「やだ」
駿介が小さく拒否の言葉を口にした。
「あ……ごめ、ごめん」
さすがに調子に乗ってしまった。拒否されたことにより幾分か落ち着いた頭で思い、謝ると、
「違うって。ここじゃやだって言ってんの。帰る」
荒く浅い呼吸で駿介は言ったのだ。とろんとした眼差しで見つめられ、夏輝の視界が真っ赤に染まった。全身の血液が沸騰したみたいに、身体が熱かった。夏輝はもう一度素早く駿介にキスをすると、焦る気持ちを抑えながら、シートベルトをして車を発進させた。ちらりと横目で見た駿介は、顔を真っ赤にして、シャツのボタンをとめ直していた。
「俺んち行こ。誰もいないから」
その言葉を聞いて、口の中にあふれてきた唾液を、夏輝は喉に力を入れて飲み込んだ。一旦ドラッグストアに寄って必要なものを買い、事に至ったのは駿介の部屋に着いてからだ。
羞恥心、罪悪感、そして否定しきれない幸福感。それらを深呼吸と共に無理矢理に霧散させ、夏輝はとりあえずパンツを探して穿き、脱ぎ捨ててあった店のエプロンのポケットからスマホを取り出す。時間を確認すると、午前三時すぎだった。電気をつけっぱなしで眠ってしまったようだ。思った瞬間、また思い出した。
「おい、なっちゃん、電気消せって」
ベッドに組み敷かれながらも必死に訴える駿介に、「消しちゃったら、駿くんが見えないじゃん!」と、ぐずぐず泣きながら訴えたところ、
「そうやって、また泣く! 泣くのは卑怯だ!」
駿介は、顔を真っ赤に染め、自分も泣きそうになりながらも、灯りをつけたまますることをしぶしぶ許してくれた。
「なっちゃんのドスケベ!」「くそ、最悪だ!」などと、何度も悪態をつかれたが、そんな雰囲気の中でも、駿介のことをたくさん触ることができたし、なんだかんだ言われながらも駿介にもたくさん触ってもらえたので、夏輝は昨夜、かなり幸せな気分だった。その幸福感の中、沈み込むように眠ってしまったのだろう。水飴に沈むように、溺れるように。
脱ぎ散らかしたままの駿介のシャツを畳み、灯りを小さくし、夏輝はベッドに戻る。駿介の隣にもぐり込むと、駿介が寝返りをうち、その腕が夏輝の胴に絡みついてきた。起こしてしまったのかと思ったが、駿介は眠っているようだった。眉間にしわも寄っていない。その穏やかな表情を見て、夏輝は満たされた気持ちになる。
夏輝に抱きついた駿介の腕に力が込められた。ぎゅっと抱きつかれて身体を寄せられると、なんだかそわそわしてしまう。薄々気付いていたことだが、駿介には抱きつき癖がある。幼いころは、もっとずっと抱きつかれることが多かったし、夏輝はそれがうれしかった。駿介が自分のことを特別扱いしてくれているように感じたのだ。夏輝に抱きついてくる時の駿介は、どこか寂しげで頼りなくて、生まれたばかりの小動物のようだった。自分がそばにいなくちゃだめだ、と夏輝は思ってしまったのだ。だから、夏輝は決めたのに。駿介のそばにいる。なにがあっても離れない。駿介が自分より大事な人を見つけたとしても、自分はその大事な人ごと、駿介を受け入れよう、と。
体温の高い駿介の身体をじとっと抱き返しながら、やっぱりあんなことをするべきではなかった、などと反省してみても、もう遅い。夏輝がいないと駄目だ、と駿介は言った。そう言ってくれた。それなのに、自分は、その弱味につけこんで、駿介に向けて浅ましくも欲を吐き出してしまったにすぎない。それは、決して駿介に向けていいものではなかったはずだ。だが、こんなに甘く煮えたぎるような欲望は、駿介にしか抱かないのだから、それを吐き出す先は、やはり駿介以外にはいないのだ。どうしようもない。どうしようもなかった。大事に守ってきたつもりの関係を、とうとう自分で壊してしまった。
駿介が自分を受け入れてくれたのは、きっと他に方法を知らないからだ。夏輝は思う。中学の時に不登校になってから、駿介はあまり他人と深く関わろうとすることがなかったように思う。夏輝の知る限り、高校、大学と進学しても親友や恋人がいたという感じもない。駿介はきれいな顔をしているので、きっとモテただろうと思うのだが、駿介の周囲には自分以外に親しい人間がいた様子はない。
昔から、駿介は他人との距離の取り方を知らないのではないかと思うことがよくあった。夏輝に接する時の距離が、昔から妙に近かったのだ。同じように、夏輝がいくら距離を詰めても駿介は逃げない。昔から知っている、気を許した幼なじみだからだろうと思っていたが、単純にそういう距離しか知らなかったのかもしれない。
リセットしないと。そう思った。駿くんをリセットしないと。自分に汚されてしまう前に戻さないと。そんなことができるはずのないことは、わかっていた。もう戻れないんだからね。昨日、自分が言った言葉だ。しかし、夏輝はリセットを望まずにはいられなかった。自分は、ここにいちゃいけない。帰ろう。そして、なかったことにしよう。駿介は、きっとまた怒るだろう。身勝手だと、自分のことをなじるだろう。それでも、この出来事は、リセットするべきだ。夏輝は、駿介の腕を解き、ベッドを抜け出した。すると、駿介の手が、なにかを探すようにゆるゆると動く。思わず、その手を指でちょんとつつくと、駿介の手は夏輝の指を、赤ん坊がよくそうするように、きゅっと握った。
これはだめだ。夏輝は思う。視界がぼやけて、駿介の寝顔が揺れる。泣きたいくらいに、かわいい。駿くんのこと、くしゃくしゃにまるめて握りつぶしてしまいたい。かわいいかわいいかわいい。かわいすぎて息が苦しい。なんだかよくわからないけど、身体のどこかが破れて血が噴き出しそう。だめだ、そばにいるとか離れないとか、そんなんじゃない。離れられないんだ。もう絶対に。自分だって、駿介がいないと駄目なのに。駿介が自分に抱いている感情が、愛とか恋とかそういうものではないとしても、たとえ刷り込みに酷似した、感情とは別のなにかだったとしても、こんなにかわいい存在を、もう手放すことなんてできない。ひとりで社会に放り出すなんて、もっての外だ。駿介とこういうことをするのは、他の誰でもなく自分でなければ我慢できない。
あふれてきた涙を肩でぬぐい、夏輝は狭いベッドに戻ろうとした。その時、夏輝の指を握っていた駿介の手が、ゆるっと開き、夏輝の二の腕あたりをつかんだ。そのまま夏輝をベッドに引きずり込んで、駿介は言う。
「なんだよ、なっちゃん。さっきからなにごそごそやってんの。じっとしてろって」
それから夏輝の顔を見て、眠たそうに目を細めながら言うのだ。
「なっちゃんは、昔からよく泣くよな。今度はなんで泣いてんの」
「あのね、駿くん。おれ、駿くんが好き。大好き。すごくすごくすごく好き。だから、ずっと駿くんのそばにいたくて、でも駿くんのこと壊したいって思うことが時々あって、だけどそれはやっちゃいけないって思ってて、だから、よくわかんないけどしんどくて……」
嗚咽混じりの夏輝の支離滅裂な言葉を、
「要するに、俺のことが好きだから泣いてんの?」
駿介はそう簡単すぎるくらい簡単にまとめた。
「う、うん」
間違ってはいないので、夏輝は頷く。
「なっちゃんは、俺のことが好きなんだな?」
再度、確認するように駿介が言い、夏輝はまた頷く。
「最初っから、そうやってわかりやすく言ってくれてたら簡単だったのに」
駿介は呆れたように言って、あくびをすると目を閉じた。夏輝は、すとん、と肩の力が抜けたように感じる。
「駿くん、好き」
一言、声に出して言ってみる。なんだか今さらのようにどきどきした。
「うん、そっちのがわかりやすい」
駿介は目を閉じたまま、
「俺も、なっちゃんが好きだよ」
まるで寝言のようにそう言った。
了
ありがとうございました。




