第8話 「私は……」
車のエンジンがかかる音で目が覚めた永琉は、明るい部屋の中をぼんやりと見つめた。寝不足と夫婦の営みで疲れていたため頭が働かず、なんで自分がこんなに眠いのかも分からず永琉はまた目を閉じた。
次の目を覚ましたのはスマホのアラームだった。
ベッドマットを叩いてスマホを探し、サイドテーブルの上にあることに気づいて『なんでここに?』と思いながら手を伸ばす。そして画面を見て固まった。
「……え?」
目覚ましではなかった。いまは10時。朝といえる時間でもなかった。
【11:00 婦人会打ち合わせ】と並んだ文字に、嘘だと言ってと永琉は頭を抱えて気づく。どんな顔をして十和たちに会えばいいのか。なんでこんな時間まで寝ていたのかは永琉にも分かっているし、そういう日の翌朝はいつも寝坊するので十和たちも分かっている。
(何でもない振りをして朝食を食べる? いいえ、無理!)
出かけてしまおうと、それが逃げだと分かっていたけれど、永琉は起きてシャワーを浴びてダッシュで家を出ることに決めた。約束まで時間がないという言い訳もある。
脱衣所に入り、パジャマを脱いだ永琉は唖然とした。体中がうっ血痕だらけ。昨夜決めた服装の変更が必要なほどの状況に永琉は開いた口が塞がらなかった。
「愛琉……一体どれだけ元気なの?」
こんな一真の相手をして他にも数人の男性と関係をもっていたなど倫理的にも思うところはあるが、薄々どころか確実に嘘だと分かっていたけれど、どこが体が弱いんだと永琉は呆れた。
(詐欺といえば高松さんもよね……性行為には興味がありませんって顔をしているのに、こんなに――)
―― 他の人のことなんて知らない。俺は永琉が好きだからしたい。
「うひっ」
思い出した一真の声とその言葉に永琉は驚き、取りかけていたシャンプーのボトルを落とした。「あ……」と声をあげたときにはもう遅い。慌てた拍子にシャワーヘッドに手があたってシャワーが落ち、顔に湯がかかって反射的に顔を覆うと棚に肘があたりシャンプーやコンディショナーのボトルが一斉に落ちた。
「永琉さんっ⁉」
その音を聞いて駆けてきてくれたのか、脱衣所から聞こえた十和の声に永琉の挙動が一層おかしくなり……。
「大丈夫です。シャワーが11時までに出かけないといけなくって、シャンプーが慌てただけです」
「……あ、うん……分かったわ……」
(……落ち着いていないことが分かってしまった)
「婦人会には私だけでいくから、永琉さんはゆっくり休んで頂戴」
「……お願いします」
散らかったバスルームをみた永琉は素直に十和の言葉に甘えることにした。
着替えて一階に行くと、十和はもう出かけていて家政婦の美優紀は【永琉さんへ 買い物にいってきます】という手紙を置いて出かけていた。
(この家で一人なのは初めてだわ……)
結婚前はお客様だったし、結婚してからも美優紀がいたので一人でこの家にいるということはなかった。だからだろう、空腹を感じて台所にいくとき思わず忍び足で進んでしまった。
「……アンパン」
いつも朝食のパンが入っている籠にはいつも通りアンパンが入っていて、【永琉さんへ 今日は……市で人気のパン屋のアンパンです】と伸二の字で書かれたメッセージカードが添えられていた。
(お義父様、今日もたくさん歩かれたのね)
永琉は指でメッセージカードに書かれた自分の名前を撫でた。無意識だったので、なぜ自分がそんなことをしたのか、どうして自分の口元が緩んでいるのか気づかなかった。
アンパンを食べ終えたとき、美優紀が帰ってきた。思ったより早い帰宅に永琉が驚くと、近所の無人販売でいい野菜がたくさん手に入ったから置きにきたとのこと。
「このカボチャを今夜は煮つけましょうか。魚も脂がのってきているので、今夜のメインは焼き魚にしましょうか」
そう言った美優紀が突然笑うから、永琉は首を傾げた。
「いえね、先日一真さんが悔しそうに自分の焼き魚の食べたあとを見ていたのを思い出して」
「ああ……一真さん、魚を食べるのがちょっと苦手っぽいですよね」
「自分を見つめてくる魚の目が苦手だそうです。それで永琉さんの食べたお皿を見て『永琉みたいに骨まで食えばいいのかな。骨食っているから歯もきれいなんだよな』と言っていたんですよ」
反射的に永琉は自分の口を手で覆った。そんなところを見られていたと思うと、「きれい」だと褒められたことよりも恥ずかしさが勝った。
「いや、でも、愛琉は魚が苦手だし……」
なんでこんなことを言ったのか。永琉が気づいて別のことを言う前に、美優紀が楽しそうに笑った。
「愛琉さんは関係ありませんよ。永琉さんがお魚が好きで、きれいに食べて、歯もきれい。それでよろしいではありませんか。私も旦那様も永琉さんと同じく魚好きで、奥様と一真さんは肉好き。奥様も魚の目が苦手だそうです。父子で好みが違って、母子そろって同じことを言ってます」
美優紀の言葉に永琉が何も返せないでいると電話が鳴った。「はいはい、いま出ますよ」と電話に向かって答えている美優紀に永琉の口元が緩む。自分もあれをやるな、と思ったから。
―― なんで機械に向かって喋るの? 馬鹿みたい。
愛琉の嘲笑が籠った言葉を永琉は思い出す。
(忙しいから、ちょっと待ってって焦るのよ。愛琉はいつも暇で手がどちらも空いているから分からないのよ)
「セールスでしたわ。オレオレ詐欺だったらと期待したのですけれど……あら、永琉さん。何か楽しいことでも?」
「いえ……ちょっと愛琉に言われたことを思い出して」
「あらあら。人に言われたことって、その人とは違うところだそうですよ。つまりはその人の個性ということです。笑っていらっしゃるから、永琉さんにとって良い個性なのですね」
機械の音に応えるのがよい個性かは分からなかったが、同じ癖を持つ美優紀に言えないのはやはり『同じ』で、それを笑った愛琉とは『違う』のだと永琉は思った。
◇
「ただいま。永琉、これポストに届いてた」
帰ってきた一真を出迎えると、一真が永琉に封筒を渡した。高松家のポストに自分宛の手紙が届いたことに、ちょっと不思議な感じがした。
「……梅宮でも届くのね」
「名前は大したことないってことだろう」
(大したことない……)
「この前、俺に届いた手紙なんて高松一二三様だぞ。それ誰だって感じだよな。うち、数字の名前が多いけどさ。中身を見たら俺宛だって分かったからいいんだけど……昔だったら、俺絶対に『名前を間違えるなんて』って怒ったと思うけど、間違いは誰にでもあるって思えるんだから俺も大人になったよな」
「それ、自分で言ったらだめなやつ」
「大丈夫、永琉しか聞いていないし」
(確かに……確かに?)
部屋に向かう一真を見送ると、永琉の中で違和感が消えるのを感じた。何だったのだろうかと思いながら、永琉は封筒を見る。
【梅宮永琉】
手紙はこれから行われる検定の案内。資格取得は永琉の趣味。講座の内容をざっと確認して、いまいち興味が惹かれるものがないので永琉は案内をごみ箱に捨てたが封筒は捨てるのに迷い、案内をごみ箱から拾い上げてまた封筒に入れた。
(なんでこんなことをしているんだろう)
紙ごみは捨てないとひたすら溜まるのに、と思うけれど永琉は封筒を捨てられなかった。




