後悔
「蒼蓮様は、相変わらずですか?」
「相変わらず、とは?」
「日々どのようにお過ごしか、右丞相殿や柳秀英殿から聞いてはおりませんか?」
一体何と答えればいいのだろう?
普通に考えれば、一介の女官がそんなことを知っているはずがない。たとえ私が柳家の娘であっても。
「後宮女官になってからは、父や兄とはあまり話す機会もありません。それ以前から、蒼蓮様については何も……。お役に立てずすみません」
そう言って謝る私を見て、太皇太后様は「いいの」と言って首を振った。
「よいのです。あなたは何も言わぬのでしょう、それくらいわかります」
五大家の娘で、陛下付きの女官がそんなに口が軽いと困るという意味も含まれているだろうか?
それは当たっていて、たとえ何か知っていたとしても私に話せることは何一つなかった。
再び文に視線を落とした太皇太后様は、そっと指でそれをなぞる。
「紫釉様と蒼蓮様と食事など、私がそのような幸せをいただいてもよいのでしょうか?」
「どういう意味です……?」
「私はここから逃げ出しました。すべてを蒼蓮様に押し付けて」
その言葉は、懺悔のように聞こえた。
息子を亡くして心と体に不調をきたし、療養することは逃げたと批難されるようなことなの?
私にはそう思えなかったけれど、太皇太后様は深い後悔を抱いていた。
「私は太皇太后でありながら、強くあり続けられませんでした。きっと蒼蓮《あの子》もつらかったでしょうに」
「太皇太后様……」
「私はずっと、正しくあらねばと思うてきました。なれど、それは間違いだったのです」
皇后として常に正しくあろうと思っていた太皇太后様は、増え続ける皇妃や愛妾たちに対しても平等に接してきたつもりだったそうだ。けれど、蒼蓮様のお母上である詩詩妃が後宮入りしたことで均衡が崩れ、妃たちの諍いは激化したという。
「蒼蓮から、詩詩妃について聞いておりますか?」
「……いえ、特には」
「詩詩妃はその美貌で瞬く間に陛下のお心を掴みました。彼女をひと目で気に入った陛下は、ほかの妃よりも詩詩妃を特別に扱うようになっていったのです」
まるで皇后のように振る舞う姿は多くの妃から恨みを買い、太皇太后様も何度か諫めることがあったとか。
「私は耐えました。陛下の寵愛が長く続かぬことは、私が誰より知っていましたから」
予想通り、詩詩妃が子を身ごもったことで陛下は彼女のことを話題にも上げなくなったそうだ。
「詩詩妃は次第に心を病み、その憎しみは燈雲へ向かいました。燈雲がいなければ、蒼蓮が皇帝になれると本気で思っていたのでしょう。蒼蓮をかわいがることもないのに『皇帝になれ』だなど……。私はあらゆる手を使い、二人を守りました。ただ、詩詩妃のことは……」
自由奔放に振る舞っていた頃の詩詩妃に「つまらない女」と言われたことがあったそうだ。太皇太后様は正しくあろうとしてきた自分の誇りを傷つけられた気がして、ずっと許せずにいたと話す。
「私は病んでいく彼女を、おらぬ者として扱いました。見て見ぬふりをしたのです。でも、燈雲が皇帝となり、蒼蓮が官吏としてその治世を支えると決まった日……。詩詩妃は塔にのぼり、なぜ我が子が皇帝になれぬのだと叫びながら身を投げました」
元より苛烈な性格だった詩詩妃。蒼蓮様が母をどのように思っていたかはわからないが、彼の口から母君の話が出てくることはなく、私も深く聞いたことはなかった。
聞かぬ方がよいこともある、そんな気がしていたから。
「ずっと悔いていました。詩詩妃ともっと話をしていればあのようなことにはならなかったのでは、と。私は、燈雲のために蒼蓮を生かそうとしました。二人が決して敵対せぬよう、蒼蓮にこちらの正しさを説き、いかに詩詩妃が間違っているかを教え、兄を支えるよう言い含めたのです。なれど、そのせいで蒼蓮は母の死を聞いても涙すら流しませんでした。あの子の中では、とうに母などいなかった。奪ったのは私なのだと気づかされました」
苦悶の表情を浮かべながら、太皇太后様は私を見つめる。
「あの子から母を奪った私が、今さら紫釉様と三人で家族の真似事などできるわけがありません……。蒼蓮が私を避けるのも当然です。すべてを蒼蓮に押し付けてここから逃げておきながら、気まぐれに戻ってくるなど……」
まるで悲鳴のように聞こえる言葉が痛々しくて、私は思わず太皇太后様の傍らに膝をつき、その背を撫でる。
長い間、ずっと後悔に苛まれてきたのだと思うとあまりにお可哀そうで涙が滲んだ。
後宮という狭い世界で、皇帝陛下の愛に翻弄される暮らしは苦しすぎる。
正しくあろうとしたのは、そうでなければ正気を保っていられぬような苦境にあったからなのかもしれない。
「紫釉様が望むのなら、家族としての時間を持って差し上げたい。なれど、蒼蓮は……」
この生誕節にも、本来なら出席しないつもりだったという。けれど、体調が回復してきたことで欲が出たのだと太皇太后様はおっしゃった。
「会いたかったのです、たった一人の孫に。会いたかったのです……蒼蓮に」
涙ながらに吐露するお姿には、初めて会ったときの凛とした強さは見る影もなく、とても弱弱しい方に思えた。
その手を握ると、折れそうなほどに細い。けれど、ぬくもりは確かに伝わってきて、柳家の母を思い出した。
「太皇太后様、どうか泣かないでください」
この方は、燈雲様のために蒼蓮様を生かそうとしたとおっしゃったけれど、間違いなく蒼蓮様のことも我が子のように愛しておられる。
傷つき、悔い悩むほどに想っておられる。
私はそれが嬉しかった。
「太皇太后様。蒼蓮様は、強いお方にございます。この国を、紫釉様を導いてくださるとてもご立派で頼もしい方にございます」
他人にもご自分にも厳しい方だけれど、優しいところもある。愛情表現が不器用なところもあって、風変わり人ではあるものの、それでも蒼蓮様は尊敬できる方だと思う。
そんな蒼蓮様に育てたのは、太皇太后様と燈雲様なのだ。
「私は蒼蓮様を尊敬しておりますし、人として好きでございます。今の蒼蓮様でいてくださって、ありがたいと思うております」
太皇太后様が、ご自分のせいだと責めるようなことは何もない。蒼蓮様ご自身が過去に折り合いをつけ、前を見据えて生きておられるのだから……。
「蒼蓮様は、ときおり燈雲様のことを私に話してくださいます。今でも、兄君のことが大好きなんだと思います」
「……あの子が?」
先帝様のことを語る蒼蓮様のお顔は穏やかで、そこにあるのは悲しみだけではない。兄君からどれほど愛されて育ったのか、私に伝わるくらいに兄弟仲はよいものだったのだろう。
「蒼蓮様は、誰のことも恨んでなどおりませぬ。太皇太后様のことも……」
紫釉様と距離を置いていた頃のように、接し方がわからぬだけなのでは。
「あの方は光燕を愛しておられます。紫釉様を守ろうとしておいでです。それは、あの方のご意志にございます」
「意志……?」
「はい。蒼蓮様は仕方なくここにいるのではなく、ちゃんとご自身の意志でそうなさっているのだと思いますよ」
寝る間も惜しんで国のために尽くすのは、義務感だけではないと思う。
きっかけは何であれ、蒼蓮様が執政宮にいるのはご自身の選択なのではないだろうか?
あのお美しいお顔を歪めながら私の父と討論するのも、近ごろでは楽しんでいるのでは……とすら思っていた。
「蒼蓮様は、今の蒼蓮様でよいのです。きっとあの方もそうおっしゃると思います」
できることなら、お二人がきちんとお話しする時間を取ってもらいたい。相手を想うあまり、本当のことが伝わっていないのではと思うから。
「お二人ともこうして生きておられるのです。顔が見られるうちに、お心を伝えてみませんか?」
太皇太后様は、私の問いかけに対し明言はしなかった。
ただずっと、紫釉様の書いた文を見つめていた。




