94:空から来るもの
「鐘だと!?」
「えっ!?」
その鐘の音にヤナと圭人がハッと息を呑んで足を止める。
カーン、カーン、と鐘の音は更に続き、二人は辺りを見回した。
「何が来た?」
「まだ何も……」
ヤナと圭人のただならぬ様子に、空は不安を覚えて明良や武志の方を見た。武志も油断なく周囲を見回し、明良はぎゅっと空の手を強く握る。二人は困惑する空に、その音が何であるか教えてくれた。
「アレは、村に危険がきたっていう時に鳴るんだ」
「なったらすぐにげろって……」
「おうちにかえらなきゃ……」
「うちのとーちゃんもいるし、だいじょぶだよ……きっと」
皆で不安げに大人たちを見上げていると、鐘の音が更に激しく響いた。
カンカンカンカン、カカン、カンカンカン! と緩急を付けて響いた鐘に、ヤナが顔を上げる。
「あの合図は、虫か?」
「虫、多数、空から、ですが……あっ、あそこ!?」
「アレか!」
ヤナと圭人は上空を見上げ、北の方角にそれを見つけた。
遠く離れてもなお姿が見える、群れを成し飛んでくるものの姿を。
黒く細長い体に、長い四枚羽。日差しを受けた大きな目がキラリと輝く。
「あれは……黒槍鬼ヤンマです! 何でこんなとこまで!」
圭人がそれが何であるか見極め、焦った声を上げた。
黒槍鬼ヤンマは、肉食の大型のトンボだ。村人にとってはさほど脅威となる生物ではないのだが、凶暴で体が大きく、稀に小さな子供を攫う事がある。
一匹くらいだったら、武志ほどの大きさの子供なら上手くやれば倒せるかもしれない。しかし群れとなると厄介さはぐっと増してくる。
「群れか……多いか?」
「ぱっと見でもかなりの数が見えます。子供もいるし、すぐに避難しないと」
ヤナと圭人はさっと周囲に視線を走らせ、今いる場所を確かめ考えた。
今いるのはちょうど東地区と南地区からほぼ同じくらい離れた田んぼのただ中だ。
大人が増えたし、問題ないと思って安全地帯のある大きな通りから外れたのは失敗だったが、悔やんでいる暇はない。
今から神社の方に戻っても安全地帯までの距離は恐らく同じくらいだし、そちらから敵が来るなら戻るのは悪手だ。近くに隠れる場所もない。ヤナは素早く判断し、子供らを見た。
「武志、走れるか?」
「うん!」
「よし! フク、空を乗せよ!」
「ホピピッ!」
空のフードの中からフクちゃんがパッと飛び出し、地面に下りるなりムクムクと大きくなる。
道幅を考えたのか一メートル半ほどの大きさになったフクちゃんにヤナは頷き、空をさっと持ち上げてその背に乗せた。
もう少し大きくすれば他の子も乗せられるだろうが、空への魔力の負担がどのくらいかわからないので、とりあえず空だけにしておく。
「空、しっかりフクに掴まっておるのだぞ」
「う、うん!」
「沢田の、勇馬と明良を持てるか?」
「任せてください」
圭人はヤナに頷き、両手を伸ばして勇馬と明良を抱え上げた。
戦いに自信はなくても圭人も村の男だ。幼稚園児二人を抱えて走るくらいの力は十分に持っている。
ヤナは結衣を自分の背に乗せ、そして武志に頷いた。
「行くぞ!」
ヤナの号令で、全員が走り出す。
先頭はフクちゃんで、その後を武志とヤナ、圭人が続いた。
大きくなったフクちゃんの背で、空はその首筋にしっかりとしがみ付いて身を伏せた。フクちゃんの足は早く、そして意外にも揺れが少ない。
子供たちは皆しっかりと口を閉じて大人しい荷物に徹している。空もちらりとそれを確かめ、見習ってフクちゃんの羽毛に顔を埋めた。フクちゃんの羽毛はゆっくり楽しめないこんな時なのが惜しいくらいふわふわだった。
走る三人と一羽の足は速い。多分原付バイクくらいの速度は出ているだろう。けれど遮るもののない農道を走る姿はよく目立つ。ましてや空から見たならなおさらだ。
ヤナは走りながら後ろを確かめ、一瞬顔を曇らせた。
空を行くトンボたちは恐るべき速度で村の上空まで辿り着き、あちこちに散り始めているのが見えた。近くに来るのも間もなくだろう。
「早いな……沢田の、この先の安全地帯で、一番近いのは!?」
「この先だと、少し東に、地蔵堂が! そこなら!」
「よし! フク、道の終わりで左だぞ!」
「ホピッ!」
東の地内に入ればヤナももっと力が振るえる。そこまで行けば何とかなると、ヤナも圭人も武志も懸命に走った。
しかし、空から来る敵はあっという間に間近に迫ってきた。
ブゥン、という大きな羽音が上から響く。空は反射的にフクちゃんの羽毛からハッと顔を上げて、そして瞬時に後悔した。
(何あれ……デカい! カブトムシより長い!)
空たちを追い抜くように飛んでいったのは、真っ黒で恐ろしいほど大きなトンボだった。
体の長さだけなら、空を攫ったカブトムシよりも確実に大きいだろう。日を遮って落ちた影は、まるで小型の飛行機のようだ。
実際は飛行機ほどには大きくないのだが、体が長いため小さな空から見れば随分大きく感じた。
見た目は如何にもトンボらしい形なのだが、真っ黒な体が恐怖を煽る。黒槍と圭人は言っていたが、スッと伸びた尻尾がまさに槍のようだ。
肉食のトンボは小さな子供たちを獲物と見なしたらしい。通り過ぎたかと思うと大きく旋回し、こちらを目指して飛んでくる。
「チッ!」
結衣を背負ったヤナが舌打ちして右手を離し、指を二本立てて左から右へと滑らせ宙を薙いだ。
バチン! と大きな音がしてトンボがぐらりと揺れ、気絶したように地面に落ちた。
「急げ!」
その隙に一瞬足を緩めていた全員がまた必死で走り出した。
空はガクン、と体に衝撃を感じて慌ててフクちゃんにしがみ付く。同時に胸に下げたお守り袋が、じわりと熱を帯びた気がした。
「フクちゃんっ、はや……!」
トンボに危険を感じたフクちゃんが魔力を使ってスピードを上げたのだ。空を守らねばと必死で走り、ヤナらを置き去りにしてぐんぐんと進んで行く。
「みんなが……っ!」
「フクッ、止まるな! お堂までそのまま走れ!」
空は皆を置いて走るフクちゃんを止めようと一瞬考え、けれど聞こえたヤナの声にぐっと口をつぐんだ。
どう考えてもこの場で一番足手まといなのは空だからだ。空一人でも先に安全地帯に駆け込めれば、それだけ皆の負担が軽くなる。
フクちゃんの背に身を伏せ、空は必死でその走りを止めたい自分を宥めた。
「ホピピッ!」
空が皆を心配する気持ちを堪えている間に、フクちゃんはあっという間に東と南の境の辻へと辿り着き、一声鳴くとそこで突然急停止した。
ついに今季初暖房を入れてしまいました……。
気温が乱高下してますが、皆様も体調にはお気を付けてください!




