2-129:勝負の終わり
「――行くわよ、紗雪」
「ええ、いつでも」
囮代わりの前衛は終わりだと、紗雪は動きを止めたヌシから少し距離を取ると刀を一度鞘に収めた。そして足を大きく開き、居合いのように身を低くして構える。
その後ろでは、弥生がずっと小さな声で唱えていた大きな術が完成しようとしていた。弥生は練り上げた力を一つにまとめて呼び水とし、大幣を掲げて高らかに歌う。
『――ちはやふる、ここも高天原なれば、集まり給え、四方の神々!』
最後の一説を唱え終えた瞬間、ドン、という音と共に巨大な光の柱が立った。
「ひゃあっ!?」
それを見ていた空が思わず悲鳴を上げ、持っていた葡萄をポロリと落とした。空の食事はデザートに入りつつあった。
光の柱は弥生の体を完全に包み込み、その全てを白く輝かせる。それは神々しく、力強く、弥生という巫女の全てを込めたかのような輝きだった。
「……弥生ちゃんの神降ろしも、これで見納めかしら」
「そうだの。アオギリ様の嫁となれば、他の神を降ろすのも失礼かもしれんしの」
村人たちは皆、どこか優しい眼差しで弥生を見つめていた。
当の弥生は、ビリビリと痺れるような衝撃と、暴れだそうとする神気を気合いと根性でねじ伏せ押さえ込んでいた。
弥生は術の中でも式神などはあまり使わない。神に添うために修行してきた、神降ろしが得意な巫女なのだ。
他の術が上手くならないと落ち込む弥生を励まし、根気よく色々な練習に付き合ってくれた親友がいなかったら、きっともっと色々なことが苦手なままだっただろう。
魔力が少なく、長時間戦えないと悩んでいた親友の背は、今弥生の前にある。
『弥生……ヤエ。預かってたもの、やっと返せるね。遅くなってごめんね。あのね、アオギリ様の本当の名は――』
戦いが始まる前に、そう耳元で囁かれたあの時。
全てはちゃんと自分の側にあったのだ、弥栄が抱いた願いは叶っていたのだと、弥生はそう理解した。
弥栄の願いが叶ったのなら、今度は弥生の願いを叶える番だ。
弥生の願いは一つだけ。
愛した神と共に、この村を守り生きる。ただそれだけだ。
そのために、この神降ろしがこの村の巫女として最後の仕事になっても構わない。巫女ではない生き方も、新しい力も、これから探せば良いのだから。
大幣を左手に移し、懐から一枚の術符を出す。一際大きな紙で作ったそれは、この瞬間のためのとっておきの一枚だ。
「紗雪、耐えてね!」
「任せて!」
弥生は術符に力を込めると、目の前の背中に向けてそれを鋭く飛ばした。
術符は狙い通りぴったりと紗雪の背中に貼り付き、そして光を放った。その光は弥生を包む光の柱と太く繋がり、今度は紗雪の体を包み始める。
紗雪の魔力が少ないなら。大きな技が使えないなら。
ならば、弥生がそれを貸せば良いのだ。
「神より賜りし力よ、我が友へと宿れ! 我が輪廻の友よ、我が力は汝が力、汝が力は神が力なり!」
ドォン、とまた音がして、光の柱が今度は紗雪を中心にして立ち上った。弥生のものとは違い、天から下りてくるのではない、地面から吹き出た間欠泉のような光の柱だ。
その力を全身に受けた紗雪は歯を食いしばってそれを押さえ込む。自分の体の隅々までその力が浸透するのを束の間待ち、そして柄を強く握り、刀の鯉口を切って大きく息を吸った。
「セヤァァァァァァァアッ!!」
気合い一閃。
それは、まるで時間が止まったような瞬間だった。
紗雪の刀は誰の目にも留まらぬ速さで振り抜かれ、その刀に宿った真白い光だけが、剣筋を追うように人々の目に残った。
二人が強く強く抱いた願いは、一つの力となって真っ直ぐにヌシへと向かう。拘束されたヌシには向かってくるそれを防ぐことは出来なかった。
光の筋はスゥッと静かにヌシに当たり、何事もなかったかのように後ろまで通り抜け、そしてまた静かに消える。
その一撃で、弥生からも紗雪からも潮が引くように眩い光が失われる。
静まりかえった空気の中、パチン、と紗雪が刀を鞘に戻す小さな音が何故か妙にはっきりと聞こえた。
そしてその次の瞬間、ぐらり、とヌシの体が傾いた。
「ぴきゅるりぃぃ……」
可愛らしい断末魔を上げ、ヌシの体がずるずると根元から崩れ落ち、バラバラに四方八方に倒れてゆく。
紗雪が振るった渾身の一刀は、巻き紙草に捕らわれた残る茎全てを切り倒し、完全な勝利をもたらしたのだ。
ドォン、と太鼓が打ち鳴らされ、試合の終了が告げられる。
「まま、やったあぁぁぁ!」
「やったわ、紗雪、弥生ちゃん!」
「皆、すごいのだぞー!」
大きな声で空が喜ぶと、雪乃たちも観客たちも大歓声を上げ、弥生たちの勝利を喜んだ。
勝負が決まった瞬間、二枚の田んぼをそれぞれ包んでいた結界がパリンと軽い音を立てて消え失せた。
それを待っていたかのように、狐姫たちのいる田んぼに村人たちが次々飛び込む。
狐姫も狐月も既に満身創痍で、魔力切れも近く立っているのもやっとという有様だったのだ。
二人とも術符をほぼ使い果たし、残る式神はそれぞれ一体だけで、それも今にも消えそうだ。もはやどちらも意地だけで戦い続けていた。
「狐姫、下がれ!」
「え……あ、」
魔力が枯渇しかけている狐姫の意識が一瞬途切れ、そして狐月の声でハッと我に返る。しかしそれは既に遅く、ヌシの茎が自分に向けて振り下ろされようとしていたところだった。狐姫は思わず腕で頭を庇い、衝撃を覚悟し固く目を瞑った。
「かしこみ、もうす!」
バチン、と何かが叩かれるような強い音がしたが、狐姫が覚悟した衝撃はやってこない。
恐る恐る目を開ければ、目の前には術符が浮いていた。戦いを見守っていた大和が結界を張って、狐姫と彼女を庇おうとしていた狐月を救ったのだ。
結界に弾かれて横に逸れた茎は、飛び込んできた幸生の斧の一撃で切り倒された。
「おう、嬢ちゃんたち、もう勝負は終いだ! 下がんな!」
「結構怪我してんな。おい、誰か運んでやってくれ!」
狐姫たちの隣をすり抜けて和義も前に出ていき、善三が周りに指示を出す。
その指示に女性が二、三人駆けつけると、呆然としている狐姫を素早く持ち上げ、ひょいひょいと軽い荷物でも運ぶかのように田んぼの外に出してくれた。
「あ、あの、待って、待ってください、私、まだ戦えます! まだ……!」
息も絶え絶えといった様子で、しかし狐姫は必死で声を上げた。
そんな彼女に村の女性たちは首を横に振り、敷物の上にそっと下ろすと、ゆっくりと諭すように語りかける。
「駄目だよ。もう魔力もないし、ボロボロじゃないか」
「そうだよ、後は村のもんに任せな。あのヌシは、村でも挑む人間は限られてるんだよ?」
「ヌシ相手にここまでよく頑張ったよ。強かったよ、お嬢さんたち」
「そうそう、火を使ったのだけはちっといただけなかったけど、ま、すぐ止めたからね」
「あのくらいの火じゃ籾は燃えないんじゃないかね?」
「ダメだよ、もち米の味が変わっちゃうよ」
「まあ良いじゃないの、もう終わったんだから。お疲れさんだよ」
女性たちの会話はポンポンと続いて口を挟む隙間もない。彼女たちは楽しそうに口々に言い募ると、狐姫の健闘を労うようにその肩や腕を優しく叩いた。
そこにパタパタと雪乃が駆け寄ってきた。
「様子はどう? 怪我は?」
「あ、雪乃さん。この嬢ちゃんはあちこちの打撲、軽い切り傷、後は魔力枯渇ってとこだね」
怪我はないかと見に来た雪乃に、女性たちが狐姫の状態を説明する。
「骨も大丈夫。上手に避けて大きい怪我はしてないようだよ。さすがだね」
「それは良かったわ。どれ、ちょっと見せてね……うん、そうね、見立て通りみたい」
雪乃は手で触れて狐姫の状態を確かめると、魔法で傷を消毒し、跡が残ったりしないよう丁寧に癒やした。魔力も少し足して、動ける程度に調整する。
「私……負けたんですのね」
魔力を分けてもらい、少し意識がはっきりした狐姫が小さな声で呟く。
雪乃はそれを聞いて頷き、狐姫の顔や髪に付いた泥を魔法で取り去りながら、その頭を優しく撫でた。
「勝てるとは思っていなかったんでしょう?」
そう問われ、一瞬狐姫は唇を噛みしめたが、やがてこくりと素直に頷いた。
「……はい」
「でも挑んだのね。とても勇敢で、強かったわ」
雪乃はそう言うと後ろを振り向き、斧や鎌を振り回し嬉々としてヌシを切り倒している幸生たちを見た。その視線を追って、狐姫もそれを目撃する。
自分たちがあんなに苦戦したヌシを、村の人間たちはまるで草でも刈るかのように簡単に刈ってゆく。
ヌシが怒りにまかせてばら撒いている砲弾のような籾は、村の子供たちまでが楽しげに網で受け止めていた。
「え……こわ……」
まだ自分たちはヌシに全く本気を出させてもいなかったという事実に気がつき、狐姫の体がぷるぷると震える。何よりも、ヌシを前に全く恐れもしない村人たちが恐ろしい。
「この村の人たちはちょっとほら、アレだから……貴女はあんなのに逃げずに挑んだのよ。もっと誇っていいわ」
「うぅ……何か、色々すみませんでした……」
頷きながらも悄然と俯く狐姫の頭をもう一度撫で、雪乃はよいしょと立ち上がった。
「さ、もう大体の痛いところは治したわ。立ってみてちょうだい」
「え……あ、本当だ……」
言われるままに立ち上がれば、確かにもう痛いところはほとんどない。隣に運ばれていた狐月も、いつの間にか怪我を治してもらっていた。
「さぁさ、二人ともついてきてちょうだい。魔力枯渇は食事をとるのが一番いいわ。お弁当がまだ残っているはずなのよ。多分」
狐姫と狐月は困ったように顔を見合わせ、それでも雪乃に付いていった。




