2-103:アオギリ様の悩み
二人は背の高い木々の間をゆっくりと歩く。
アオギリ様は空の歩く速度に合わせて歩いてくれているので、空も安心して足を進める。
鎮守の杜は静かで、どこか遠くにいる蝉や鳥の声、風に揺れる葉ずれの音しか聞こえなかった。
夏の終わりとあって蝉も随分数を減らしているので、もううるさいというほどではないのだ。
アオギリ様は黙って歩きながら何か考えているようだったが、しばらくすると口を開き、静かな声で肩の猫に呼びかけた。
「のう、白妙や……そなたはその道を選ぶことに、迷いはないのか?」
聞こえてきた問いに空は思わず顔を上げた。隣を歩くアオギリ様の顔は遠く、表情はあまりよく見えない。けれど声と同じく、静かな表情をしているように見えた。
なう、と小さな声がアオギリ様の問いに答え、白い尻尾がパシリとその背中を軽く叩く。
「水を差すなと? だが、変じれば新しい生は永いものとなろう……そなたはそれが、恐ろしくないのか?」
アオギリ様の言葉を聞き、空の脳裏を弥生の姿が過る。
ニャーと白妙がまた鳴いたが、その声に込められた言葉は空には分からない。
けれどアオギリ様が、己の生の在り方を変えようとする者に何を問いたいのかは空にも何となく想像が付いた。
やがて木々の間を抜け、裏の池が見える。蓮の花の季節は終わり、今は葉だけが青々と茂って水面はあまり見えない池だ。
アオギリ様は池の手前の拓けた場所に向かうと、木陰になる場所にあった岩に腰を下ろし空を手招いた。
「空もここに座るが良い」
「うん!」
空は元気良く頷いてアオギリ様の隣の岩に腰を下ろし、風に揺れる蓮の葉をしばし眺める。
しばらく黙って考え、そしてやはり我慢出来なくなって、空は口を開いた。
「アオギリさま、なんだかげんきない? だいじょうぶ?」
空がそう問うと、アオギリ様は笑顔は見せたものの少しばかり眉を下げた。
「うむ……ちと悩み事があってのう。幼子に心配を掛けるなど、どうにも情けないことだな……」
「かみさまにもなやみごと、あるんだ……」
空が呟くと、アオギリ様の肩から下りて空との間に座り込んだ白妙がまた一声鳴いた。咎めるような視線を向けられ、アオギリ様はバツが悪そうに頭を掻く。
「そう言うてくれるな白妙。我とて出来るならそうしたいが、こういうのは相手あってのことであろうが」
アオギリ様はそう言うと深いため息を吐いた。その湿っぽさを咎めるように、猫の尻尾がパシリとその腿を叩く。
「ねこさん、なんていったの?」
「うむ……さっさと結婚しろと、まぁ、そんな感じのことだのう」
その返答に、空はなるほどと頷いた。アオギリ様の悩み事はやはり弥生とのことらしい。
空は少し考え、無邪気さを装って口を開いた。
「ねぇアオギリさま。アオギリさまは、なんでやよいちゃんにけっこんしてもらえないの?」
「うぐっ!?」
空は子供らしく遠慮を捨てて、以前から気になっていたことをいっそズバッと切り込んでみることにした。
するとアオギリ様は呻いて胸を抑え、白妙がニャフッとおかしな声を漏らす。空の質問があまりに直球過ぎて面白かったらしい。
「空……いきなり切り込みすぎではないかの? 今のは効いたぞ……」
「だって、ずっときになってたんだもん。たぶん、ままもきにしてたよ」
「紗雪が? そうか……」
空は座ったことで近くなったアオギリ様の横顔を見上げる。アオギリ様は遠くに視線を投げ、何と答えたら良いのか迷うような困った顔をしていた。
「アオギリさまって、やよいちゃんがだいじなんだよね?」
「うむ、とてもな。それは間違いないが……結婚してもらえぬ理由か。ハァ……それは我も知りたいところなのだよ」
アオギリ様はため息を吐いてまた黙り込む。白妙が一声鳴きながらその背を尻尾で叩くと、やれやれと呟いて空の顔を見下ろした。
「のう、空。空は、永く永く生きるということを、どう思う? 人の枠を外れ、我のような者と寿命を同じくし、時から取り残されるというのは……わかるだろうか?」
空はアオギリ様の顔を見て、それから隣に座る白妙を見た。永く生きる者と、その道へ踏み込もうとしている者を。
「んー……いみはわかる、とおもうけど……どうかは、まだわかんない、かな?」
アオギリ様の瞳を真っ直ぐ見上げれば、それはどこか戸惑うように揺れていた。永く生きても未だ迷う、そんな心を映しているように見える。
空はその瞳を見て、アオギリ様が言ったことを真剣に考えた。それを自分の身に置き換え、自分ならどう感じるかと思いを巡らせる。
「ぼくはまだちいさいし……これからどんどんおおきくなるよ。そんでおとなになって、いつかはじぃじみたいになる、とおもう」
「うむ、そうだな」
「ぼくはじぃじみたいになるの、いやじゃないよ。としをとって、じぃじやばぁばみたいな、かっこいいおとなになるの、いいとおもう」
空は自分の中に一生懸命言葉を探し、そう告げる。
大人になることも、年を取ることも、いつか死ぬことも、まだ空には遠い先の話だ。
けれど空には前世の記憶がある。細かいことは憶えていなくても、自分が確かに一度死に、そして生まれ変わったのだということを空はよく知っている。
「ぼくは……いつかしんじゃうのも、たぶんこわくない。だって、そこがおわりじゃないって、ぼく、しってるもん」
死んでからのお楽しみだ、と言ったご先祖様の言葉が思い出される。ご先祖様は楽しそうに笑っていた。
その先が本当にあるなら空は無闇に恐れず、いつかその日が来るまでただ懸命に、日々を楽しみ生きるだけだ。
「だからぼくがもし、ながくいきるっていうことをえらぶとしたら……それは、ねこさんみたいに、うんとだいじなひとができたとき、かもね」
空の言葉に白妙が尻尾を揺らし、ニャーと優しい声で同意するように鳴いた。
「大事な人か……」
「うん。そのひとがながくいきるなら、いっしょにいようっておもうかも。でも……そっちのほうが、たぶん、ちょっとこわいとおもう。それはまだしらないことだもん。おいていくのとか、おいていかれるのとか、どうなるのかしらないから……いろんなこと、きっといっぱいかんがえるとおもう」
空は弥生のことをよく知っている訳ではない。けれど初詣のときに弥生が、アオギリ様のことが嫌いなわけではないと語っていたことは憶えている。
「やよいちゃんはたぶん、アオギリさまのことすきだとおもうけど……でもいまのやよいちゃんだと、アオギリさまとけっこんしたら……んと、きえていなくなっちゃう? かもだからやだっていってた、かな?」
「我と夫婦になっても、弥生が消えることはないと思うのだがの。弥生は、自分には繋ぐ物が少ないと思うておるが……それはむしろ弥栄の方だったな」
アオギリ様が出した知らない名に、空は首を傾げた。
「やえって、だれかのなまえ?」
「うむ……弥栄はな、我をこの村の神にした娘の名なのだよ」
アオギリ様はそう言って、視線を池の方へと向けた。その眼差しは優しく、けれどどこか寂しそうに空には見えた。
「……もう随分と、昔の話だがな」
そう言ってアオギリ様は微かに笑う。微笑みというよりは、己の愚かさを嗤うような、そんな笑みで。




