人生、十回目突入 1
例えるなら、真っ暗な水の中を漂っていた体が、ふたつの温かい大きな手ですくい上げられ、真っ白で柔らかな小羽を敷き詰めた籠の中へと移し替えられたような……。
ロザンナは柔らかなベッドの中で、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。ぼやけた世界が徐々にはっきりと形をなしていく。
「……様。……ロザンナ様っ!」
間近で呼びかけられ、ハッと目を見開いた。今にも泣き出しそうな顔で自分を見下ろしているのは侍女のトゥーリ。パーティーに付き添い人は不可なため顔を見るのは数時間ぶりだが、ロザンナにはなんだかとっても懐かしく思えた。
「ロザンナお嬢様。お気づきになられて本当に良かった」
トゥーリはベッドの傍に膝をついてロザンナの右手を両手で包み込む。目を涙でいっぱいにして震える声で囁きかけてくる。「大丈夫よ」と言いかけて、ロザンナは湧き上がった違和感に眉根を寄せる。
眼球だけをキョロキョロ動かした後、力尽きるように目を閉じる。そのままロザンナは、不貞寝でもするかのように左手で引きあげたブランケットに潜り込む。
「ロザンナお嬢様、どうかしましたか? どこか具合が悪いのですか? お嬢様! あぁ、どうしましょう。誰か! 誰かいませんか!」
すぐにドアの開閉音と駆け寄ってくる足音を聞きながら、ロザンナはブランケットをぎゅっと握りしめる。
「何かあったのか?」
「ロザンナお嬢様が、先ほどお気づきになられたのですが」
「そうか良かった。……もしかしたら、頭を打ったから記憶が混濁して動揺しているのかもしれない。ひとまず父さんか母さんにロザンナが目覚めたと報告してきてくれないか」
「わかりました!」
ぎゅっと掴まれていた右手から温かな手が離れていく。慌ただしい足音が部屋を出て行きトゥーリの気配が消えると、残った彼がベッドに腰かけてブランケットの上からロザンナの肩に触れる。
「大丈夫か?」
気遣う声音に、ロザンナは小さく息を吐く。そして現実と向き合うべく勢いよくブランケットを払い除けた。
「……ロ、ロザンナ?」
見下ろすようにベッドに座っているのは間違いなく兄である。……それも十三歳の。
ロザンナはゆらりと上半身を起こし、「ふっ、ふふっ」と短い笑い声を発する。妹に対して困惑の表情を浮かべた兄へと顔を向け、「ダンお兄様」と虚に話しかける。
「私、この人生飽きましたわ」
ロザンナからうんざりと放たれたひと言に兄のダンは目をむき、すぐさまドアに向かって大声を出す。
「父さん、母さん、早く来て! ロザンナの馬鹿が悪化した!」
「……ばっ、馬鹿ですって? 聞き捨てなりませんわ!」
ロザンナはダンを掴みかかろうと、小さな手を伸ばす。正確に言うと、十六歳の手と比べたら小さい九歳の手。
「なんだよ、まだ子供のくせに人生飽きたって。突然変なこと言い出すから、頭の打ちどころが悪かったのかもって思うだろ。……って、階段から落ちたことはちゃんと覚えているか?」
ダンはロザンナの手を難なく避けつつ苦笑いを浮かべていたが、徐々に真剣な面持ちへと変化させた。
もちろん覚えている。マリンと揉み合いになって階段から転げ落ち、ぶつかった台座に乗っていた胸像が落下し、押しつぶされた。
でもそれは十六歳の出来事。ロザンナはやや間を置いてから、ダンに頷きかける。
「ダンお兄様にお渡ししたい物があったから、はしゃいで階段を降りて行く途中で、足を踏み外して、華麗に転げ落ちました」
この場では、九歳の出来事であるこれが正解だ。
「あぁ、確かに落ちっぷりは見事だった」と言われ、ロザンナは膨れっ面でダンを睨みつける。するとダンは笑みを浮かべながらロザンナを軽く抱き締め、ホッとした声で続ける。
「クッキー、ありがとう。とっても美味しかった」
感謝の言葉にロザンナは表情を和らげた。この感謝の言葉は十回目だけれど、何度聞いても心が温かくなる。
「籠ごと放り投げてばら撒いてしまったのに、お食べになったのですね」
「俺の誕生日の贈り物として作ったんだって料理長に教えてもらったから、つい。全部ロザンナひとりで作ってくれたんだってな」
「はい。心を込めて作りました。だから早く渡したくて、つい。ダンお兄様、十三歳のお誕生日おめでとうございます」
ロザンナはダンの言い方を真似して小さな笑い声を挟んだ後、お祝いの言葉を口にする。体を離して笑いかけると、ダンも「ありがとう」と照れ臭そうに微笑み返した。
階段から落ちた後、母ミリアとトゥーリは顔面を蒼白にし、父スコットは必死に声をかけ続けたのだと、どれだけ大変だったかを滲ませながらとダンが話し出す。
確かお兄様は「ロザンナ死ぬな」と泣きじゃくっていらっしゃったのよねと、鼻水や涙の跡を完全に消し去り何もなかったような顔をしているダンへ、ロザンナはにやり笑いかけた。
しかし、そんな表情はすぐに引っ込めて、「心配をかけてしまってごめんなさい」とロザンナが謝罪の言葉を口にしていると、勢いよく扉が開き、両親が部屋になだれ込んで来た。
「ロザンナ! 大丈夫か!?」
スコットがベッドの傍らで片膝をつき、ロザンナと視線の高さを同じにする。ミリアも中腰でスコットの横に並び、「大丈夫?」と心配そうにロザンナを見つめる。
「お父様。お母様」
目も前までやってきた両親の姿に、胸が熱くなる。自然とロザンナの目から涙がこぼれ落ちていった。
ミリアが慌てて「どこか痛いの?」と問いかけながら、ロザンナの濡れた頬に触れる。
その瞬間、ロザンナは両手を目いっぱい伸ばしてふたりにしがみつき、「平気よ」と声を震わせながらしばらく涙を流し続けたのだった。
その夜は、小さな体が階段を転げ落ちて受けた痛みと、十六歳の最期の瞬間の記憶に苦しめられてあまり眠ることができなかった。気持ちまで弱りそうで、ロザンナは朝食を終えると同時に庭へと散歩に出た。
エストリーナ邸は王都の南地区にある。塀で囲まれた敷地の中に、二階建ての屋敷と手入れの行き届いた広い庭。庭には小さいながら噴水もあり、その傍にはガゼボが建っている。内部には丸テーブルに猫足チェアがふたつ置かれていて、その片方へとロザンナは腰掛けた。
するとすぐに庭師のトムがやってきて、体調を聞くと同時にテーブルに花瓶を置いていった。花瓶に飾られているのは花弁の大きな赤い花。ロザンナは花へと顔を近づけて、漂ってくる甘い香りで胸を満たすように息を吸い込んだ。
「やっぱりここは落ち着くわ」
テーブルに頬杖をついて、たくさんの花が咲き乱れる庭を目で楽しみながら、ロザンナはうっとりと呟いた。
しばらく庭を眺めていると心も落ち着きを取り戻す。ロザンナは次なる課題に取り組むかのような気持ちで、背筋を伸ばし腕を組んだ。
十回目の人生をどんな風に生きていこうか。
そう考えて真っ先に決まるのは両親のこと。繰り返しの始まりは、いつもダンの十三歳の誕生日から。そして毎回、両親の姿を目にするたび、ロザンナは涙が止まらなくなる。
生きているふたりに再び会えたことへの喜びと、五年後にやってくる避けられない別れに胸が締め付けられるのだ。
自分から両親を奪う事故が憎くて仕方がない。どうにかして回避できないかといつも考えるのに結局は何もできず、ロザンナは自分の無力さに打ちひしがれることとなる。
両親の死に関しては抗う術のない大きな力が働いているようにしか思えないが、それでもやっぱり諦めきれない。事故を避けられるように今回も力を尽くそう。
そして、まるで神の力が及んでいるのではと毎回感じるのは、アルベルトに関してもである。
ロザンナがアルベルトと出会うのは、約一年後に行われる彼の誕生日パーティー。その時彼と親しくなったことで、ロザンナは恋に落ちる。友人として良い関係が続き、両親が亡くなった後は心の支えにもなってくれた彼に依存していくのだが、アカデミーへの入学を境に純粋だった恋心に陰りが生まれる。アルベルトとマリンの親しげな様子に嫉妬を覚え、そして彼が彼女を花嫁として選んだことに絶望し、……自ら命を経ってしまう。それがロザンナの一度目の人生だった。
二度目三度目は好きになってもらいたくて必死に頑張るもやっぱり彼の想いは得られないという似たり寄ったりの人生を送る。四度目は常に諦めとと共に日々を送り、食べ物を喉に詰まらせて苦しみながら最期に思ったのは「アルベルト様に恋をするのはもう止めよう」だった。
五度目から人生が少しずつ変化する。なんとか花嫁候補に選ばれるのを回避し、アカデミーに行くのを免れた。当然、最期の舞台となるパーティーにも参加しないため、ロザンナは初めて人生をまっとうすることができたのだ。
だが、これまで知らなかった結婚式やご懐妊など、理想の夫婦と称されるアルベルトとマリンのその後を目の当たりにしたことで気持ちが沈みがちになり、なんとも暗い人生となってしまった。
自分が幸せじゃないから人生を繰り返すなどという不思議な現象が起きているのではと考え、六度目は自分も誰かと恋をし結婚するという目標を立てた。……立てたものの、前回の人生で誰と誰が結婚するかを知っているが故に遠慮が先に立ち、そして花嫁候補として目にする機会が多いアルベルトが美男子すぎて、周りがどうしても物足りなく思えた。
他国に移住して、何もわからない場所で生きていくしかないと決意を新たにアカデミーを卒業し、門から出た瞬間、馬に蹴飛ばされ、それが致命傷に。




