入学一ヶ月前
両親の死を回避してから、あっという間に一年と半年が過ぎた。
母ミリアは手芸など家の中で出来る新たな楽しみに目覚め、必要以上に外に出ることはなくなってしまったが、父スコットは以前通り臆することなく精力的に仕事に勤しみ続けている。
とは言え、スコットからあの夜の恐れが消えたわけではない。両親を助けるべく聖魔法を使うその姿はまさに女神だったと人々の間で話題になっている自慢の愛娘が、今度は標的にされるのではと日々不安を募らせている。
そんな父からの診療所通いも含めてしばらく外出を控えて欲しいという懇願を断れるはずもなく、ロザンナは魔法薬の書物を自宅で読みふける日々が続いた。
アカデミー入学まであと一ヶ月。準備に追われていたロザンナだったが、入学前に父の命を救ってくれた恩人へ挨拶だけでもしておきたいと、久しぶりに診療所を訪ねることにした。
「こんにちは」
戸口から中を覗き込み、眉根を寄せる。太陽が高いこの時間、普通なら大勢の患者で賑わっているはずなのに、待合室には誰の姿もない。どうしたのだろうかと立ち尽くしていると、診察室からゴルドンが姿を現した。
「あぁ、ロザンナ。久しぶりだね」
「ゴルドンさん、今日はお休みですか?」
問いかけると同時に、見知らぬ男性がゴルドンに続いて出てきた。戸惑いながらお辞儀をするロザンナに、男性は紳士的に挨拶を返し、そのまま診療所を出ていった。
「しばらくの間、さっきの彼にこの診療所を任せることになったんだ」
ゴルドンのひと言に、ロザンナは激しく動揺する。
「そうでしたのね。ゴルドン先生はこれからどうなさるの?」
「俺もロザンナたちと一緒にアカデミーへ。ただし学生ではなく講師としてだが」
「まあ! それでは入学後もゴルドンさんからたくさん教えてもらえますのね。とっても嬉しいです!」
途端、表情を輝かせたロザンナに、ゴルドンは苦笑いした。
「アルベルト様の言っていた通り、聖魔法を学ぶ気満々のようだな。妃教育だけでも大変だと聞いているが、大丈夫か?」
「少し不安でしたが、ゴルドンさんとのご縁が続くと聞いて、俄然やる気が出てきました。頑張ります。……どちらも」
力強い宣言は最後だけ小声になる。花嫁候補の辞退は、アルベルトに拒否され叶わなかった。後日、届いた入学手続きの書類を眺めながら、入学予定が一年早まっただけだと前向きに考えようとしたけれど、それもなかなか難しい。その頃には、診療所の手伝いができなかった分の埋め合わせとして、もう少しゴルドンの元でしっかり学びたかったと考えるようになっていたからだ。
しかし、ゴルドンの居場所がここからアカデミーに移るとなると、未練は綺麗さっぱり消えて無くなる。前向きにひたすら頑張るという目標だけがロザンナの心に残った。
ロザンナはちらりとゴルドンを見て、ぽつりと問いかける。
「アルベルト様といろいろお話されているようですね。……花嫁候補に関しての私の発言に関して、何か仰っていられましたか?」
ゴルドンは口元に微笑みを浮かべてから、ゆっくりと頷く。
「えぇ。つい先日、ちょうどその話を聞いたところです。アルベルト様は、あなたに嫌われているかもとひどく落ち込んでおられましたよ。ロザンナさんがそう言い出すのに心当たりがあったもので、自分なりの考えを述べさせていただきましたけど」
何を言ったのだろうか。ゴルドンの微笑みが何かを企んでいるように見えてきて、急に怖くなる。思わず身構えたロザンナへゴルドンはその内容を囁きかける。
「確かあの事件が起こる前、アルベルト様がアーヴィング伯爵の娘さんと仲良く街を歩いていた話をしていましたよね。それで、ロザンナさんは面白くなかったんだろうなと」
「そっ、そんなことを言ったのですか!」
表情を強張らせたロザンナと、ゴルドンは真剣な面持ちで向き合う。
「違いましたか? ……それとも本当にアルベルト様に好意を持てませんか? それなら力になりますよ。好きでもない相手の花嫁候補として一年もアカデミーに拘束されるのはお辛いでしょう?」
予期せぬ選択を迫られ、ロザンナは狼狽る。数分前なら確実に「よろしくお願いします」とゴルドンの手を取っていただろう。
しかし状況は変わった。自分が残ってもゴルドンはアカデミーに行ってしまう。一年後、合格しアカデミーに入学できたとして、アルベルトはまだ在学中だ。顔を合わせることもあるかもしれない。好きじゃないからと断ったら、その時非常に気まずい思いをするだろう。
ぐぬぬと思い悩んだ末、ロザンナは歯切れ悪く答えた。
「……じ、実はそうなんです。アルベルト様がマリンさんをお好きなら、私が妃教育を受ける必要などないんじゃないかと」
おほほと笑って見せると、ゴルドンの視線がすっとロザンナを通り越した。
「ほら。俺が言った通りでしょ? 女神だって嫉妬くらいしますよ」
まさかとロザンナは大きく後ろを振り返り、「ひっ」と声にならない悲鳴をあげる。いつの間にか戸口にアルベルトが立っていた。
「なんだそうか」とにっこり微笑みかけられ、ロザンナは「ふっ、ふふっ」と泣きそうな顔で笑い返す。
「それならそうと言ってくれたらよかったのに。久々の再会のところ悪いが、ロザンナは連れて行く」
アルベルトはロザンナの手を掴み、そのまま診療所の外へと連れ出した。
外に待たせていた艶やかで逞しい馬の背にアルベルトは跨がり、そのままロザンナも引き上げる。
「待ってください。まだゴルドンさんとお話が。」
「話ならこれからいくらでもできる。アカデミーで」
ロザンナは「でも」と食い下がろうとしたが、アルベルトの合図で馬が颯爽と走り出し、小さな悲鳴へと変わった。
疾走感への恐怖もさることながら、背後からアルベルトに包み込まれているような状態に、ロザンナは落ち着かない。
「な、何を考えていらっしゃるんですか?」
「お詫びの印に、ロザンナとデートをしようと思って」
「お詫びなんて必要ありません。アルベルト様がご自分の花嫁候補と共に過ごされただけなのですから」
言いながら、なぜか声音が暗くなる。繰り返し見続けてきた、アルベルトとマリンの親しげな姿を思い出しつい顔を俯かせると、アルベルトのうんざりした声が真後ろから聞こえてくる。
「あの頃、アーヴィング伯爵の娘と頻繁に外に出ていたのは、ロザンナのことで贔屓していると指摘されてしまったからだ」
「私のことで?」
「あぁ、俺が頻繁にエストリーナ邸に出入りしているのが、どこからか漏れたらしい。研究を手伝ってもらっているのだけは知られるわけにいかなかったから、彼女に時間を使う他なかった。あちこち連れ回されて、正直疲れたよ」
疲れた。アルベルトから最後にこぼれ落ちた言葉に、ロザンナは面食らう。彼自身が望んでマリンと会っていたのだとずっと思っていたからだ。この時点でアルベルトはまだそれほどマリンに好意を持っていなかったのか。だとしたら、気持ちが傾くのはきっとアカデミーの入学した後のこと。
こうしてアルベルトと一緒にいるのも今だけかもしれないと、ロザンナがぼんやりと考えた時、小さな笑い声が響く。
「でもまさか、ロザンナが焼きもちをやいてくれるなんて」
「お願いです。さっきの言葉はなかったことに」
「嫌だね」
意地悪な言い方で拒否されてロザンナはがっくりと肩を落とすも、道を行く人々がこちらに注目していることに気づいて焦り出す。
「アルベルト様、どこに行くつもりですか? 人目に付きすぎるとまたマリンさんの不興を買ってしまいます」
「だったら今度はロザンナにずるいと言われたことにすればいい」
「やめてください。女の嫉妬って怖いんですよ。私はアカデミーでの一年を、煽らず騒がず穏便に過ごすつもりなんですから!」
「それは無理だろうな。ロザンナは女神様だから」
そのまま人の目を避けることなく、アルベルトは馬を走らせる。ロザンナはしばらく顔を俯かせたままだったが、生活圏から離れて目に映る景色が自然豊かになり始めたところで、ロザンナの表情が興味で輝き出した。あまり街から出ることなく育ったため、物珍しいのだ。
平原から森へと入り、奥深くへとどんどん進んでいく。やがて小川が現れ、そこでアルベルトは馬を止めた。先に馬を降りた彼の手を借りて、ロザンナも草地へと降り立つ。
「洒落たものが無くて悪いが、これが俺の望むデートだ」
ぽつりとかけられた言葉に、ロザンナは自然と笑顔になる。
「空気が澄んでいて、とても良い場所ね」
小川の水を飲み始めた馬の元へ歩み寄り、ロザンナも綺麗な水に指先で触れる。「冷たい」とはしゃいだ声をあげて後ろを振り返ると、アルベルトは大木の根元に座り、幹に背を預けた。
そろりとロザンナもアルベルトに歩み寄り、その隣で同じように大木に寄りかかる。
「時々、こうしてのんびりしたくなる」
アルベルトはそう呟き、目を閉じた。そのまま肩に頭を乗せられて、ほんの一瞬ロザンナは目を大きくさせるが、ただ黙って穏やかに微笑む。
束の間の休息。彼の望む時間が流れる中で、ロザンナもゆったりとした気持ちで目を閉じたのだった。




