196.覚醒の予兆
悪寒と虚脱感、それに息の詰まるような鬱屈とした感情が波濤のように心へ打ち付ける。
「どうかしら、さっきまでの元気はもう無いんじゃない?」
ベアトリクスがその正体を明かした瞬間から、私は正体不明の精神失調に陥っていた。いや、これが彼女の力、生者を苛む屍人の怨嗟なのだろう。
第三の試練。
嘗て大陸を震撼させた魔王の持つ最強の駒、その一人が彼女ということだ。
理由も根拠もない不安が頭の中を埋め尽くして、手足に力が入らない。魔王城の扉を開けた瞬間に感じた視線が今は無数に感じられる。なれど、その正体は見えず、黒い靄のように空気を淀ませるのみだった。
そんな瘴気の中に形なき亡霊の影が見える。彼らは皆、無念を抱えていた。
口惜しいと、そう思いながら妄執と共に現世に留まり続けている。私にそれが伝わってきて、まるで……まるで報われない物語の最後をずっと見ているような気分だった。
それでも同情してはいけない、したらきっと私も引き摺り込まれる。どれだけ苦しみが伝わってこようとも、奴らは敵なのだ。
「く……っそ……」
それでも見えない相手ではどうしようも無く、怨念の渦巻く最中で膝を着くしかない。
「霊、それもあり得ない数が……部屋に見える……これ全部、ベアトリクスさんが操ってるっていうのか……!?」
きっとスキルのせいで"視えてしまっている"アキトの声が遠くで聞こえる。
あの様子だと試練の対象外として、危害を加えないで貰っているようだ。
それだけにベアはまだ形振り構って、本気ではないように思えた。悪意を弾く精神耐性スキルが発動していてこれなのだから、更に上があるなんて考えただけで震えが止まらなくなる。もし彼女が無差別に、なんの手心もなしに力を振るったら一体どうなるんだ。
「くそっ……くそっ……! くそぉ!!」
纏わりつく瘴気を振り払おうとしても、一切の手応えは無い。心が乱されて剣筋も酷く鈍っているが、そんな事関係なく私から放たれる全ての攻撃は虚しく空を切るのだろう。
闇雲に何をしようとも無意味、そう言われているような気がした。
「諦めなさい、ここは私の領域。そもそも貴女が勝てる見込みなんて、万に一つも無かったのよ」
「うる……っさい……」
口から出る言葉とは裏腹に、段々と私も勝算が無い気がしてきた。
ベアトリクスは、八百年もの間この場所で試練に挑戦する者を待ち続けた。その間延々と力を溜め続けていたのなら、確かに彼女の待ち受けるこの部屋に入った瞬間から勝てる道理は消えた事になる。
正しく蜘蛛の巣に囚われた蝶に等しい。
見えない、触れない物は倒す事が出来ない。私はずっとそれが酷く恐ろしい事だと思っていた。だから暗闇に怯え、存在しない何かを恐れた。
見えないものが怖い、分からないから怖い。暗闇を恐れるのはそこに何があるか観測出来ないからだ。それは随分と原初的な感情で、抗いようの無いものだろう。
腕っぷしの強さでも無く、魔法の知識でも無く――――私は今、そんな心を蝕む闇に負けようとしている。
「貴女は私に敗れて、試練に失敗する。それで家に帰るのよ。もう二度と立ち上がる気力も無くなってね」
……そうだ、ここで負けてしまえばもうこんな辛い思いをしなくて済む。
今まで散々痛い目に遭って来て、その度にどれだけ後悔して来たか忘れたのか?
もう苦労も痛みを味わうこともしたくない。前世のように痛みからも責任からも逃げて、引き篭もってしまえば楽じゃないか。一人で生きていく力もある、持たざる者だったあの時とは事情が違う。
この世界に来て私は、そうありたいと願っただろ。
「痛い……怖いのは嫌だ……私だって本当は、辛い思いなんてしたくない――――逃げたい」
「貴女はこのまま行けば、必ず今以上の苦痛を味わうわ。どれだけ強くても聖人や勇者じゃないんだから、いつかどこかで折れる時が来る。その時『ああ、それなりに頑張った丁度いいところで止めておけばよかった』なんて思うくらいだったら、今終わっておきなさい」
分かる、終わりにしたい、逃げたい、もう疲れた。
なんだって今、こんなにしんどい思いをして頑張っているのか。別にそんな事をしなくても、人生どうとでもなる筈だ。態々茨の道を進む理由もない、出来ることならば楽して生きていたいのが本音に決まっている。
「人は皆挫折して妥協して生きているのよ、別に人生の全てを思い通りにしなくたっていい。程々の塩梅のところで、無理そうなら妥協する。そうやって折り合いをつけて、世界を知って、自分の出来るラインを見極めて、身の丈にあった生き方をするのが普通なの」
「……そういう、もの」
「そうよ、皆そうやって生きている。でなきゃ、どれだけ傷ついてしまうか分からないわ。だから貴女も、ここで妥協して? もう、危ないことから遠ざかって、誰にも関わらず静かに生きればいいじゃない」
ベアの言うことは尤もだ、正論すぎて何も言い返すことが出来ない。いや、言い返す必要も無いか……だって、彼女が正しいんだもの。
俺だって十歳になればもう生まれの差を知ったし、高校受験の年には身の丈というものを世間に教えられた。
結局人っていうのは生まれながらに出来る限界が決まっていて、それに気付かない奴は徒労に終わることも知らずに、必死な顔で努力してるんだから笑い物だ。
私にもそれくらい分かる。
疫病神のような存在だった私はきっと、もっと人に迷惑を掛けないよう――――賢く生きなければいけなかったんだろう。いや、そもそも私が生まれてこなければ、アデーレおば様もお祖父様も父様も母様も、皆一緒にいられたかも知れないのに。
思考は暗く沈み込んで行き、私はとうとう自分の存在までを否定してしまった。
「………」
「それでいい、大人しくしていれば貴女を傷つけたりはしないわ。いい子だから負けを認めて、そうしたら私が試練を閉じて皆を元いた場所に帰してあげる」
両膝を地面に着き、剣を握る力が抜けて無様にも取り落とす。
耳元で私を誘うような亡霊たちの囁きが聞こえた。もう屈してしまえと、楽になるぞと、甘い言葉が頭の中に染み込んでくる。
考える事が億劫になって、もうそれでいいかと思ってしまう。
「ルフレさん……?」
遠くにいるアキトがこちらを見ているが、心做しかその表情には怒りが滲んでいた。
まさか、そんな怒るような事も無かったのだし、見間違いだろう。彼からすれば、生きて帰れるだけでも良かったと笑ってもいい場面なのだ。
「……分かった」
「いい子ね」
ベアに促されるまま、私はそう呟く。
もう十分に頑張ったのだし、ここで諦めたって誰も私を責めやしない。もうこれからは大それた肩書も血筋も忘れて、慎ましく暮せばいいじゃないか。
国だって元々それなりにやれてたのだ、私がいなくてもどうにかなるだろう。
「……もう、どうでもいい」
そう考えると、今まで必死になってやって来た全てが割とどうでもいい事のように思えてきた。寧ろなんで私はこんなに頑張っていたんだっけ、誰かの為だったのかな。
別にみんな私の助けなんて要らないくらい強いし、今思えば空回りしてたのかも知れない。
「あ」
……そうだ、イミア。
七年も経ったけど彼女は私がいなくても生きていけているのだ。心配する余地なんて無いし、一方的に追いかけていただけと言われればそんな気がする。
なら、もう心残りなんてない。
「私の……」
『私の負け』と、そう口にしようと息を吸い、言葉を吐き出そうとした。
だが、上手く声に出来ず、言葉だけが喉の出口で詰まってしまった。体が拒んでいるかのように何度声に出そうにも空気だけが吐き出され、意味のない音を発するのみ。
「私……私は……」
心の何処かでまだ負けたくないと思ってるのだろうか?
無意識に手に力が籠もって、水の中にいるような息苦しさを感じる。呼吸が上手く出来ない、何もしていないのに苛立ちが募っていく。
そうして、胸中で荒れ狂う感情の嵐に呼吸を乱されながら、それでもなんとか掠れた声で言葉に出来そうだった。
「私は――――」
しかし、その言葉が紡がれるより早く、
「――――まだ、負けてないでしょうがッッ!!」
目の醒めるような絶叫が部屋へと響いた。
それはアキトの声だった。
亡霊の嘆きが木霊する空間で、何故かその声だけは明瞭に一音の曇りも無く私の耳へ届いた。じわりと、まるで溶け出すように寒気が失せ、締め付けられていた管が元に戻るように萎縮した思考が正されていく。
何が起きたのか分からない。
ただ、ぼんやりとした視界の先では、今まで見たことが無いような形相で私を睨むアキトの顔があった。犬歯が見える程口を開けて歯噛みし、いつも穏やかな眦はこれでもかというくらいに険しい。
それを見て心臓が跳ねる。
何かずるをした事がバレた時のような、そんな冷や汗が頬を伝った。
「勝手に負けを認めるなんて、そんなの……ズルいですよ……ッ!」
「部外者は黙っていなさい」
尚も叫ぶアキトを忌々しげに一瞥すると、ベアは彼を亡霊の壁で閉じ込めた。
「……ッ、この程度で、僕の声を遮れると思った大間違いだ! 聞こえてますよね、ルフレさん!」
「アキ……ト……」
「いつもいつも他人を巻き込んで振り回して、その癖嫌になったからって勝手にやめる? あんまり僕らの事舐めないでくれますかね!?」
だが、亡霊が遮ろうとも彼はその壁を手で引き剥がすようにして開き、むしろさっきよりもずっとはっきりとした声で叫ぶ。必死な顔で、私と同じように屁泥のような負の意思が流れ込んで来ているはずなのに。
「大体あんたは後先考えなさ過ぎなんですよ! いざ何かあれば馬鹿の一つ覚えみたいに力押しで、それに付き合わされるこっちの身にもなれって話だよまったく!」
「そんな……私は、そんなつもりじゃ……」
「……あらあら、もしかして助け舟じゃなかったのかしら?」
私は、そんなに後先を考えない奴なんだろうか。いや、もしかすると他人から見れば自己中心的ですぐ暴力に訴える嫌な奴に見えていたのかも知れない。
「けど、あなたはそれでいい……それがあなたなんでしょう!? だったら、僕も僕で我儘を言わせてもらいますよ」
「何――――」
「勝手に負けを認めてんじゃねえええぇぇッッ!! 」
「おっ……!?」
彼の絶叫は部屋を震わせ、淀んだ空気を一蹴した。
その証拠に私の中に巣食っていた怨霊が、逃げるようにしてどこかへ消えていくのが分かる。
「……今ルフレさんが負けを認めたら、その背負ってる物全てが無駄になるんですよ。あなたのお父さんの意志も、お母さんの愛情も、ウミノさんとアデーレさんの献身だって無意味になってしまう。何より、あなたが探しているイミアさんを、あなたを信じて付いて来たメイビスさんとジンさんを放り出すつもりなんですか?」
「……でも、別に私は、こっちからそんな事を望んだ訳じゃ……」
「そうですね、あの人達はきっとルフレさんの心が折れて、目的を見失ったとしても許してくれます。けどね、違うんですよ、その約束も責任も……全部あなたが決めたものですよね。あなたの信念なんですよね?」
「私の、信念……?」
そうだ、私の信念。
私は誰の為でも無く、何より私の為に誓った。
「……手の届く範囲にいる大切な人たちは何があっても守る。イミアを、強くなってきっと迎えに行く」
私は他人に頼まれて決めたんじゃない、そうあることが正しいと思ったから決めた。それが私だから、ルフレ・ウィステリアとはそういう人間、魔人で、それが私を私たらしめる芯である筈だっただろう。
なら、手前で決めた約束を、手前で破ってどうする?
「その信念を守れよ! 僕の信じたあんたはこの程度で負けを認める程弱くない! この期に及んでもしまだ泣き言を言うなら、僕が貸している分の恩を今此処で全部返してから言えええぇッ!!! この恩知らずがッ!」
「――――」
「だから……立て、立ってください……ルフレさん。こんなちっぽけな人間の頼みくらい、いつもみたいに笑って引き受けて下さいよ……お願いだから……」
最後には殆ど声にならない声でそう懇願し、アキトは五体投地で地面へと蹲ってしまう。変わらず同じ場所で立つベアトリクスは無言で、ただその姿を見つめていた。
アキトにとって私とは、一体どれだけ凄い人物なんだろうか。
私に出来ることと言えばせいぜい戦うことと、魔法で少し生活を便利に出来る程度だ。言ってしまえば彼の方が器用に何でもこなせるし、私なんかよりも余程尊敬に値する人物であろう。
「……だから巻き込んだ、か」
私は一体何をしていたんだ。
始めから自分で全部背負い込もうなんて思ってはいなかった。
誰かに頼らないと何も出来ないような私がそんな事をすれば潰れてしまう。だから、商売以外にも政治的な駆け引きに長けるアキトを、誰よりも多くを守れるジンを、私よりも知恵に優れるメイビスを仲間にしたんだ。
「……実際、目の当たりにしてみないと分からないもんだ。自分がどれだけ諦めやすいのか、どれだけ仲間に恵まれていたのかも」
私はそう言うと落とした剣を拾い上げ、徐に着いた膝を伸ばす。
気付けが効いたのか、もう怨嗟に影響されて負の感情に苛まれることもない。心做しか膝を折る前よりも、視界が開けたような気がする。
「ベアトリクス、やっぱり私は――――逃げない事にするよ」
「ルフレさん……!」
「……そう、それが貴女の答えなのね。けど、きっと後悔する事になるわ」
後悔……後悔はこれから何度もするだろうけど、それだけだ。何度悔やもうとも、心に誓った物が変わるわけじゃない。それに、私が逃げ出そうとする度に、きっとアキトが私の事を殴って目を覚まさせてくれる。
「悪いけど、私はもう将来を心配されてあれこれ口出しされるような子供じゃない。仲間の高ーい理想に応えるのに必死な――――英雄なんだ」
「ッ……! これが貴女の為を思っての事だと、どうして分からないの? いいじゃない! 試練だって、王族の務めだって、貴女がやらなくても他の誰かがやるわ! 貴女はただ、傍観者でいればいいじゃないッ!」
「……そうだな、私がいなくても問題なく世界は回るんだろう」
「なら……!!」
「けど、それでも自分の意思で責任を背負う。何より私が勝手に始めたことだしな」
ベアは本当に私がここで挫折し、これ以上問題に関わってほしくないのだろう。その優しさは確かに伝わってくるし、嬉しいとも思う。だから彼女にも私の事を認めさせたい、私にはそんな心配も要らないような仲間が沢山いることを知って欲しかった。
「それに丁度、話していたらあんたに勝つ方法を思い付いたんだ。試練をクリアして尚、そんな過保護な母親みたいな事は言うまいよな?」
「………分かったわ。それなら私も正面からあなたを叩きのめしてあげます。どんな形であれ、負けは負けなのだからね」
かくして再び正面から睨み合う二者。まるで歯車が噛み合ったかのように、その決断は迷いなく出来た。
瘴気渦巻くベアを前に、私はポーチから取り出した魔石を砕いて呟く。
「この魂をくれてやる。代わりに力を寄越せ――――地獄の大公爵、ダンテ・リオン」
背筋が震える程に冷たい悪魔の笑い声は部屋に籠もる怨嗟の嘆きを掻き消して尚、運命の変革を告げるかの如く響き渡った。




