第47話
軽くなった心を胸に、イザベラはそっと目の前の婚約者を見上げた。
穏やかな黄金が、慈しむような色を宿してイザベラを優しく見つめている。
「私……犬が好きなんです」
先ほど言った台詞を、イザベラはもう一度繰り返した。
「うん、知ってるよ」
クラウスは律儀に頷いて、柔和に目を細めた。
「大好きなんです、……普通の人が引くくらい」
「……うん、なるほど?」
微笑む顔が少し不思議そうに首をひねる。
「食事を取るのも忘れて、犬の寝顔をずっと眺めてられますし……」
「じゃあ僕が知らせるよ、そろそろ食べようって」
当たり前のようにクラウスはそう言って頷いた。
「顔中を犬たちに舐められてヨダレまみれになるのは日課ですし…」
「なるほど日課が多いんだな……とりあえず僕は拭くものを持っていくよ」
至極真面目な顔でクラウスは顎に手を当てた。
「犬の鼻よりも素晴らしい造形物は無いと思っています」
「へえ……そこまであなたに言わしめるなんて、僕ももっと良い作品を作らないとな」
何故対抗しようと思ったのか、葉っぱの仮面を神妙な顔でクラウスは見つめて唸った。
イザベラは続けて犬について語ろうと口を開きかけたが、この調子では何を言ってもマイペースな返事しか返ってこないような気がしてきて、あんなに引かれることを怖がっていた自分がバカバカしくなって口元を緩ませた。
その微笑みを見て、クラウスが嬉しそうに目を細める。
「イザベラ、僕の前では素のあなたでいて」
「……あなたって、本当に変わってるわ」
繋いだ手をそっと、イザベラからも握り返した。
「僕は……犬と一緒にいるときのあなたが、とても好きだよ。出来ればいつか、僕といる時も同じように笑ってくれたら嬉しい」
優しい声が、イザベラの心を包み込む。
そう言えば、全てを打ち明けたクラウスに対して、イザベラはまだ何も返事をしていない。
幼い頃に出会った優しい少年が、大人になってイザベラだけを見つめて微笑んでいる。この心を渦巻く様々な自分の感情が、その中に隠された恋心が安堵したように心のうちで広がっていく。
「私も、…クラウス様のそのひだまりみたいな温かい目が、好きですわ」
素直な気持ちでそう零せば、クラウスは一瞬嬉しそうな顔をして、すぐに複雑そうな表情を浮かべた。
「………ラウに似てるから?」
「まあ、…………どうかしら」
目が合った瞬間、二人して吹き出した。
晴れやかな顔で笑うその顔を、クラウスは眩しそうに見た。
腫れた目元を拭おうとするイザベラに、クラウスは思い出したようにあっと声を上げた。
「そうだ、実はあの時ついでに渡そうと思ってたんだけど、あなたがあのハンカチを想像していたより喜んでくれたから、何だか出しづらくてさ」
いそいそとベンチの後ろから回り込んで、クラウスはポケットから何かを取り出した。
「良かったら、これ使って。僕が選んだんだ」
「えっ……と、ありがとうございます」
受け取った包みは四角い柔らかい物が入っているような感触がして、イザベラは礼を言ってそれを開けた。
「ヴィンスに止められたんだけど、やっぱり可愛いと思ってこっそり買っておいたんだ」
「へ、え………」
中に入っていた良い素材のハンカチを取り出し、イザベラは固まった。
…………どピンクだ。
物凄いピンク色の布地の真ん中に、大きな茶色い肉球と赤いハートがドン!と刺繍されている。
「どう?」
非常に自信があり気な顔で、クラウスはイザベラに問いかける。
イザベラは何とも言えない顔で黙り込んだ。
これは………
いや、おそらくモチーフ的にはとても可愛いはずだ。なのに漂う、絶妙なこれじゃない感がすごい。逆にすごい。
「絶妙ですわ」
「そうだろう?」
クラウスは得意気に笑ってイザベラの隣に腰掛けた。
完璧な人だと思っていたのに、人って分からないものだ。
何だか無性に笑いがこみ上げてきて、イザベラは刺繍でできた肉球を指でつついた。
「犬に会いたくなってきたわ」
そう言えばこの肉球、大型犬並みに大きいなと思って、ふと思ったことが口から飛び出る。
「ああ、そのことなんだけど……と、その前に確認なんだが、あなたが長期休暇にわざわざ領地まで帰っていたのは、犬に会うため……で、それって屋敷では犬を飼えないから、かな?」
「ええ、王都の屋敷で飼うには庭が狭くてかわいそうですから……」
イザベラが切な気にそう言えば、クラウスは期待したように目を輝かせて口を開いた。
「そっか、じゃあその、提案なんだが、……よかったら王宮で」
そこまで言いかけて、後ろから突然大きな声に遮られた。
「イザベラ様!!!」
ギョッとして二人同時に振り向けば、見知った女生徒たちがずらりと並んで駆けてくる。
「イザベラ様………私たち、誤解しておりました!申し訳ありませんでした……!」
集まったイザベラの同級生の令嬢たちが一斉に頭を下げた。
その中から、レオノーラが使命に燃えた目をして前に出る。
「探しましたわイザベラ様……クラウス殿下もご一緒でしたのね…ホールにいないのでもう帰ってしまわれたのかと…お会いできて良かったですわ!」
「レオノーラ様……皆さん、どうなさったの……?」
「イザベラ様、クラウス殿下……私この休暇中、イザベラ様のご恩に報いるべく、セドリック様と共に奔走しましたの。それはそれは大変でしたが、そこは2人の愛の力で乗り越えましたのよ」
うっとりと目を閉じてレオノーラは分厚い紙の束を愛おしそうに胸に抱えていた。
レオノーラ劇場が突然始まり、若干置いて行かれそうになりながらイザベラは目を白黒とさせてはあと頷いた。
「例の根も葉もない噂を消し去り、イザベラ様が大好きな犬と心穏やかに過ごせるように、と……皆さんの誤解を解いて周り、粗方完了いたしましたわ」
後ろから他の令嬢たちも頷いて両手を組んだ。
「レオノーラ様に聞きました、私たち、イザベラ様のこと誤解しておりました……まさか犬って、本当に犬だったんなんて……」
マデリンは目を潤ませて懺悔し、その横で他の令嬢たちも口々に謝り始める。
なんとなく皆の視線が生暖かい。
何故かレオノーラに犬好きがバレていることにイザベラは呆然とした。どうやら領地でのことは誤魔化せていなかったようだ。
「そして、罪滅ぼしに何かがしたくて………私たち、学園に嘆願書を提出することに決めましたの!どうかクラウス王太子殿下、お納めください!」
レオノーラはそう言って勢いよく手に持つ書類をクラウスに差し出し、頭を下げた。
「……………………僕?」
急に矛先が向けられ、クラウスは困惑しながらも微笑みを浮かべて、レオノーラから差し出された分厚い書類を受け取る。
「書簡にてセドリック様が国王陛下にお伺いしたところ、殿下の一存にお任せするとのことです。どうか、何卒……」
「…………え、」
書類に目を走らせたクラウスの微笑みが、徐々に引きつっていく。
「これは……一体……」
「名案だとは思いませんか?……イザベラ様が愛犬たちと離ればなれで暮らさなくてもすむように、この学園の敷地で飼えばいいのです!」
レオノーラがそう言えば、後ろから続々と賛同の声が上がり始める。
「いい考えだと思いますわ、動物との触れ合いは教育にふさわしいものですから」
「この学園の敷地は無駄に広いんですから、活用しなくてどうします!」
「ペットを持ち込みたい人たち専用の寮を男女別で作っても良いのでは?」
「専用の使用人も雇えば完璧ですわね」
「費用を募って、見積もりを取りましょうよ」
「議論が弾みますわあ」
「私も愛猫を連れてきたいわ!」
「私は爬虫類を……」
誰だ今の声。
「私、実は柴犬を飼っているんです……イザベラ様も犬が好きだなんて!!嬉しいです!!」
後ろでそばかすのついた令嬢がポッと頬を赤らめた。
そこに、水を差すようにクラウスがゴホンゴホンと咳払いを落とす。
引きつった笑顔のまま、彼は書類をレオノーラに返そうとした。
「いや、……皆さん、犬は王宮で飼」
「王太子殿下!どうか!!」
令嬢たちの懇願の瞳が、一斉にクラウスに向かって突き刺さる。
クラウスはたじろいで、助けを求めるように横のイザベラを振り向いた。振り向いて後悔した。
「みなさん……私のために…」
感激したように頬を赤らめて、イザベラは赤い瞳を輝かせていた。
イザベラは犬が関係すると、途端にポンコツになる。
「イザベラ……」
「クラウス様、いいんですの?」
期待を帯びたその赤色が、クラウスを見上げる。
クラウスの計画では、イザベラの犬を王宮で飼うことにして、そうすれば来年自分が学園を卒業しても三年生になったイザベラが長期休暇の度に領地に帰らず、王宮に来てくれるだろうという打算があった。
けれど、こんな嬉しそうな顔を見せられては。
「はは、は………………わかったよ」
クラウスが内心泣きながら乾いた笑いを浮かべて頷けば、ワッと歓声が起こった。




