6.
目を覚ますと、そこは自分のベッドの上だった。
薄茶色の天井がぼんやりと映し出され、アリアは呻きながら起き上がった。
「ここは……」
南向きの部屋。右手から、薄手のカーテンを越して淡い光が差し込んでいる。クローゼットにドレッサー、ベッドの側には小さな丸い卓と椅子が並んでいた。
明らかに自分の部屋である。
まだ、頭が頭の中は靄がかかったようではっきりとしていない。起き抜けのせいか、少し頭痛もした。でも、アリアはこめかみを揉みながら思い出す。
昨夜の出来事を。
「…………セイだ」
完全に目が覚めた。アリアはベッドから下りて、つんのめりながらも部屋を出る。寝癖や乱れた服も無視して、一目散にリビングへ向かった。
「お嬢様っ?」
階段の踊り場でヒルダと出くわした。ぶつかりそうになってアリアは身をよじる。目を瞬かせる彼女はネクタイを締めておらず、白いシャツにズボンだった。
「ごめん、ヒルダっ」
アリアは手早く謝って階段を駆け下りる。
「ちょっ! お嬢様、走らないで……って、服っ!」
ヒルダの悲鳴はもちろん、寝巻姿のアリアには届かなかった。
リビングにはエドワードが手帳を片手に、アリアの登場に目を見開く。何か言おうとする彼をよそに、アリアはソレへ顔を向けた。
ソレは、棚の上で寝かされている。
緩やかに弧を描くシルエット。鈍い光沢を放つ鞘。頑丈そうな柄。
「ねぇ、」
アリアは“打刀”に歩み寄った。
「あなた、生きてるんでしょ」
問いかける。
「昨日みたいに出て来れないの?」
もちろん返事はない。だって物が会話するはずもない。それでもアリアはやめなかった。
「教えて。セイはどこ行ったの? 私、彼に会いたいの」
「…………」
「会って、いろんな話がしたい。あなたもことも……セイのことも、知りたい」
アリアは黒色の鞘を指でなぞる。指先が震えていた。鼻の頭が痛くなり視界がぼやける。耐えるように唇を噛んで、床を見つめた。
「ねぇ、お願い……」
「――お嬢様っ!」
弾かれたように顔を上げる。振り返ると、息を荒くしてヒルダが入り口に立っていた。彼女は肩を怒らせて、向かってくる。しかしその歩みはすぐに止まり、ヒルダは目を剥いた。
「どっ、どどど、どうしたんですか!?」
「え……?」
ヒルダを見つめると、頬を熱い液体が流れる。涙だとわかってアリアは目を拭うが、涙は止まらない。
どうしてこんなにも涙が溢れるのだろう。
どうしてこんなにも悲しいのだろう。
どうしようもなく胸が痛くて、せつない。
「ごめん……っ」
狼狽するヒルダに謝罪し、アリアはごしごしと目を擦った。
***
それから三日が経った。
アリアの父、ダグラス・エインズワースは本格的に日本での商業を開始し、しばらくの間は神戸の滞在がはっきりと決まった。日本に留まることが決まって、父の事業も円滑に進んでいる。
神戸は今日も天気が良い。雲一つない空と青い海が重なって綺麗に映える。いつもならアリアは居留地の散策に出かけるが、この三日は外出していなかった。
晴天の空に対して、アリアの気分は良くなかった。
あの不思議な体験以来ヒルダの熱は一気に下がり、いつも通り口やかましく側にいる。父も、ヒルダの兄であるエドワードも、普段通りで何事もなかったように日々を送っている。
恐らく、ヒルダの病気が治ったのは、『彼』のおかげだ。
やはりあれは夢ではなかったのだ。
先日、父が購入した打刀には人の形をした“魂”が宿っていた。“魂”は強い感情を持っていて異国人をたいそう嫌っていた。だからエインズワース家に関わる人たちに危害を加えたのだという。
アリアは、殺されかけたのだ。
そう思うといまさらながら、血の気が引く。
でも、『彼』が助けてくれた。打刀の魂をなだめて、鎮めて、封印したのだろう。だからもうエインズワース家に悪い出来事は起こらないはずだ。
だけどアリアは嬉しくなかった。
あのとき、自分は気を失ってしまった。気がついたらベッドの上で、朝だった。魂を封印したあと、『彼』はまるで幽霊のように消えてしまった。何も言わずに、勝手に。
それがなんだかもどかしく、怒りすら覚える。
「さよならぐらい、言ってくれてもいいじゃない」
アリアは頬を膨らませて、私室の窓から神戸の町を眺める。
件の打刀は今もダグラスが所持しているが、あれ以来うんともすんとも言わない。アリアはそれが不満で、そして行方のつかめない『彼』に苛立ちを募らせた。
ぼうっと神戸の街並みを眺めながら、アリアはぽつりと呟く。
「……うそつき」
そのとき、私室の扉が叩かれる。「失礼します」と断りを入れて部屋に入ってきたのはヒルダだった。彼女はどこか上機嫌でにこにことしている。頭後部で馬の尾のように結ばれた栗色の長髪が陽気に揺れていた。
そんなヒルダにアリアは冷たく訊ねた。
「何か用?」
「あ、今日は予定がないので、お嬢様とご一緒できます。ですのでなんなりとお申しつけください」
ヒルダは微笑んで言う。
「どこへでも参りましょう。馬も手配しましたよ?」
アリアは彼女の提案に驚いた。
忠告や苦言の多いヒルダだが最終的には付き合ってくれる。たぶんそれは彼女なりの気遣いだろう。落ち込んだ様子の主人を思いやってくれている。小さい頃から一緒にいるヒルダにはアリアの気持ちなど筒抜けらしい。
アリアはわずかに肩をすくめて、ヒルダを見た。
「なんでも言っていい?」
「私のできる範囲でお願いいたします」
「じゃあ、一つお願い」
アリアは反対されるのをわかってこのお願いを言った。
「十文字聖って人を探してほしい」
そう告げた途端、ヒルダの顔が強張った。さきほどの明るい表情は消えて、信じられないと言ったふうにこちらを見つめる。そして震えた声で尋ねた。
「……それって、この前のニッポン人ですよね」
「そうよ、一週間前に私が助けた人」
「あの人に何かあるのですか」
「会いたいの」
伝えるとヒルダはますます目を見開き、ゆっくりと首を横に振る。
「……それはいけません。相手はニッポン人であり、素性が知り得ません」
「聞いてくれるって言ったじゃない」
「限度と言うものがあります。だいたい、もうこのあたりにいるかどうか」
嫌悪に歪む容貌をアリアは見つめた。やっぱり彼女も彼を快く思っていないみたいだ。だけどアリアにとっては命の恩人だ。話がしたいし、きちんとお礼もしていない。
「だったら自分で探してくる」
「……はい?」
アリアはベッドから出て、クローゼットを開けた。できるだけ簡素で目立たない衣装を選ぶ。異人が嫌いな日本人もいるのだから、華やかなものは控えるべき。
アリアはふんわりとしたクリーム色のワンピースを取り、微笑む。
「うん。これがいい」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ!」
正気に戻ったヒルダが泡を食って駆け寄った。
「何を言いますか! そんなこと許されるわけないでしょう!」
「だったらあなたもついて来てよ」
「っ……」
するとヒルダは口を噤んだ。アリアは彼女から目を離して素早くワンピースに着替える。腰あたりをリボンできゅっと締め、それほど高くないヒールに履き替える。
「ねぇ、ヒルダ」
アリアは難しい顔をするヒルダに話しかける。
「そんなにあの人が嫌い?」
「……好きではありません」
「そう……。でも、あなたの病気を治してくれたのはセイだからね。セイは悪い人じゃないから、覚えておいてね」
「え……」
戸惑うヒルダを無視して、アリアは部屋をあとにした。
アリアは港まで下りてきた。西に傾き始めた太陽がさんさんと海を照らし、潮の香りが鼻を抜けた。港は今日も賑わいを見せて、人々の喧騒が耳に入ってくる。
港から少し東へ向かい、とある路地を覗き込んだ。
その路地は初めて彼と出会った場所。細く暗い小道には黒猫が一匹鎮座しており、くわっと大きなあくびをして出迎えてくれる。
「あなたに会いに来たんじゃないの、ごめんね」
アリアは笑いながらそんなことを言う。すると黒猫は緑の丸い瞳を細めて、小さく鳴いた。気にしていない、と言っているみたいだ。猫の言葉などわからないがアリアにはそう聞こえた。
微笑んで立ち上がったとき、アリアの背中に何かがぶつかった。その拍子に路地裏へ押されて、周囲が薄暗くなる。アリアはびっくりして振り返った。
「嬢ちゃん、こんなところで一人かい?」
「言葉通じねーだろ、異人だから」
「そうだな、けどそのほうが都合いいだろ?」
そこには和服を着た男が三人。彼らはなんともみすぼらしい格好をしていた。ぼさぼさの髪、無精髭、ほつれた着物、汚れた袴。体臭もきな臭かった。
アリアは思わず顔をしかめて後ずさった。
男の一人がぎらぎらした瞳でこちらを見下ろす。
「異人の女子が一人でこんな歩くのは感心しないな」
せせら笑い、隣の男に目をやる。
「どうする」
「家まで送るか? そしたら金が入るかもしんねぇ」
「異人が俺たちに金くれると思うか?」
「自分で言うかよ、それ」
男たちは下卑た笑みを浮かべて、アリアを睥睨した。
その視線にアリアはぞっと背筋が凍り、全身が粟立つ。これは危険だ、考えるまでもなくそう直感した。
ニタニタ笑う男たちにアリアはまた一歩後ずさる。まだそこにいた黒猫も怯えた様子でアリアの足元へ寄ってきた。
このままでは不味い。しかし出口は男たちに塞がれており、逃げられない。アリアは素早く踵を返したが、手首を掴まれる。
「逃げるな。相手をしろ」
「いや……っ」
振りほどく力もなく、引っ張られて軽々と腕を上げさせられる。いやらしく口元を吊り上げる男たちを見て、瞳が潤んだ。目尻に涙が浮かんでアリアは怖くて目を瞑ったそのとき――。
「……あー、腹減り過ぎて死ぬ」
耳に入ってきた声はなんとも呑気なものだった。
男たちは拍子抜けたように目を見張り、路地の奥を見つめる。アリアも「へっ?」と素っ頓狂な声を上げて振り返る。視界の端で黒猫が声の方へ走り去るのが見えた。
声の主は現れる。
線の細い男性だ。ぼさぼさの黒い短髪。死にそうな顔つきに、半開きの口からは涎が垂れている。黒一色でまとめられた衣服は、まるで闇から直接剥ぎ取ったよう。そして左腰には真っ直ぐに伸びた刃物があった。
影を見てアリアの胸は高鳴る。
すると黒猫は何を思ったのかそいつに近づいた。
「あ? ……猫は食えるな、よし」
「食べちゃ駄目でしょ!?」
アリアは思わず口を挟んでしまう。こちらの声に、そいつは死んだ魚のような目を上げて、わずかに細めた。
「あんたら、女の子相手に何してんだ?」
「な、なんだ小僧。いきなり……!」
硬直していた男が声を荒らげた。黒服の青年の表情が険しくなり、足元にいる黒猫を引っ掴む。
「腹減って死にそうなんだ、三日ぶりの食事を邪魔するなよ」
――だから食べちゃ駄目だって!
悲鳴を上げる前に、腕を掴む男が怒鳴り散らした。
「お前の食生活なんてどうでもいいんだよ! お前こそ邪魔すんじゃねぇ、今良いとこなんだよ」
「知るか。それにな……」
青年はすっと空いた腕を上げて、アリアを指差した。
「その娘には一食と仕事の恩があるんだ」
アリアは涙に濡れた目を強く拭う。はっきりとする視界に今度こそ彼は映し出された。その黒い蘭服も、その腰の珍しい刀も、その端正な顔立ちも……ぜんぶ知っている。
「その汚い手を離せよ、馬鹿ども」
「セイっ!」
「え、……うわっ!」
気づくと、アリアは十文字聖に突撃していた。胸元に飛び込んでくる彼女を受け止められず、聖は地面に尻餅をつく。聖は胸にあるブロンドのつむじを見つめて、後頭部を掻いた。
「あたた……、一人でなんとかできるじゃん」
もちろんアリアには聞こえていない。抱きつくような体勢のまま、彼の蘭服をぎゅっと握り締める。
「セイ! 帰ってきてくれた……」
「い、いろんなとこが、当たってんだけど……」
漆黒の瞳が困ったように泳いでいたが、知ったことではない。アリアは彼の胸板に頭を埋めた。
「よかった……っ」
瞳が潤む。だけど懸命に我慢してぐっと顔を上げて、笑顔をつくった。
「また、会えたね」
伝えると、聖は目を見開いて恥ずかしそうに顔を逸らした。
「…………君は、いろいろと間違ってる」
それが可愛らしくてアリアはくすくすと笑ってしまった。
「てめーら! 無視してんじゃねーよ!」
そのとき、背後から怒号が飛ぶ。声にハッとなってアリアは振り返った。男たちがわなわなと肩を震わせていた。そう言えば、自分は彼らに誘拐されそうになったのだ。
男が低い声で聖に言う。
「お前、異人の護衛してるのか?」
「違う。だけど恩があるんだ、助けるのは当然だ」
聖はアリアを庇うように背中にやり、立ち上がった。
「これ以上彼女に危害を加えるな」
強気な発言に男たちの顔が怒りに紅潮する。彼らの視線が聖の左腰に落ちた。外套の裾から覗くのは真っ直ぐに伸びる剣――直刀がある。
「偉そうに刀差しやがって、御法度だぞ!」
「バレなきゃあなんの問題もなんない。ともかく……」
漆黒の瞳が冷徹に輝き、地獄の底から響くような声で。
「――失せろ」
「ぐ……ッ」
気迫に押されたか男たちは息を呑み、舌打ちして踵を返した。
路地から彼らの気配は消えて、周囲は静かになった。
大通りの喧騒が耳に入ったときアリアは我に返り、聖の顔を覗き込んだ。聖がびっくりして身構えるが気にしない。アリアは興奮し切って再び聖に抱きつく。恥じらいもなく、彼の首に両腕を絡めた。
「ちょっ……あ、アリア……っ」
声を上擦らせて、聖は震えた手でアリアの体を支えた。戸惑う彼にアリアは耳元でささやく。
「私、怒ってるんだから」
「え?」
「勝手に出て行って。……さよならぐらい言いなさいよ」
「あ、ごめん……」
謝罪を聞いてアリアは首を振った。
彼に再会できて本当に嬉しい。口元はずっと緩み、感動で胸は熱い。心臓の鼓動はうるさいくらいに高鳴っている。
人生でこんなに嬉しいことはないだろうと思っている。
でも、と聖は続ける。
「あんな思いさせたんだ、気まずいって言うか……。君を巻き込んでしまったのは後悔してる」
「セイが神戸に来たのはあの刀が目的だったの」
「あれは偶然。ここにはたまたま寄っただけ」
「なら、いい」
「え?」
首を横に振ると聖は目を瞬く。
「私はあなたに会って後悔してない。……感謝してるよ。あなたのおかげでヒルダは元気になったし、私たちは神戸に居られるから」
アリアは微笑んだ。
「ありがとう、セイ」
これが言いたかったのだ。ずっと彼に礼を言いたかった。やっと言えてアリアはほっと息を吐き、聖から離れた。固まる聖を見ても顔の綻びは戻らない。
「……君はヘンな子だなぁ」
硬直していた聖だったが、やがて柔らかく口元を緩めた。どこか感心したような、呆れたような笑み。
「ヘン……?」
そのとき、胸がトクンと鳴った。さきほどの再会できて興奮し切った鼓動ではなく、恥じらうようなそれ。アリアは首を捻り胸をさする。全身がぽかぽかと火照り始めて、なんだか幸せな気持ちになった。
そしてはた迷惑なことに、いまさら自分の行動を顧みた。数瞬前まで彼に抱きついていたことを。
「う、わぁ……」
たちまち、羞恥が身体中を駆け巡り再び胸の鼓動が速くなる。さっと頬に手を当てて熱がないか確認してしまった。
そんなこちらに気づかず、聖は微笑む。
「俺は、アリアをずっと見ていた」
「は? え、ええっ!?」
目が飛び出るかと思った。沸騰したように頭が熱を持つ。
アリアが口をぱくぱくさせるが、聖は気にする様子もなく右手を宙でさまよわせた。
するとどうだろう、彼の指先に白い小鳥が舞い降りて――いや、鳥ではない。小鳥の形を模した白い紙だ。羞恥心で頭が真っ白になっていたアリアは質問ができずにいた。
聖は紙の小鳥を指に止まらせて言う。
「君は危なっかしいから。俺を探すことはわかっていた」
そして小鳥に「戻れ」と呟くと、鳥の形だったそれは瞬く間に正方形の紙片になった。ひらひらと宙を浮く紙片を聖は掠め取る。
アリアはますます目を丸くした。
「か、監視してたの?」
「正解。まぁ、アリアがあれを言いふらすとは思ってなかったけどこれも職務。後始末ってヤツかな」
「オンミョウジ……」
「そ、俺は陰陽師」
「……」
彼の笑みは、アリアには冷たく見えて今まで火照っていた体が急激に冷めた。胸にぽっかりと穴が開いたように寂しく思えた。何か喋らなければ、と焦っていると足元から「ニャア」と声が聞こえた。
「まだいたの」
それは路地を覗いたときにいた黒猫。黒猫は行儀よくお座りをして、大きな緑色の瞳でこちらを見上げていた。
その猫を見てアリアはハッと思い出し、聖を振り返った。彼もアリアと同様に黒猫を見つめていた。ごくりと喉を鳴らして聖に訊ねる。
「た、食べないよね?」
思えば彼は空腹の様子であった。ついさっき、この黒猫を見て食べると言い切っていたのだ。さすがに猫を食べる姿は見たくない。
質問に聖は目を見張り、そして声を上げて笑った。
「はははっ、食べないって」
「そ、そうよね」
「そもそも、こいつは死んでるんだ」
「え……」
アリアは言葉を失い、聖に顔を戻した。
「アリアは霊感が強いんだな」
“レイカン”という言葉は意味がわからなかったが、聖は腰を下ろして黒猫の頭を撫でる。黒猫はくすぐったそうに目を瞑った。
聖はこちらを振り向かずに説明する。
「今の俺の仕事は、現世にさまよう霊魂を六道に導くこと……西洋で言う、天国とかそんなところかな」
「天国……」
「君と会った奴は、違うかったけど」
愉快そうに肩が揺れる。
「人も猫も変わらない。死んだらあの世に行くものだから」
聖は黒猫から手を離し、右手の指を構える。それはいつか見た、人差し指と中指を立てたものだった。聖が右手で空中に何か描くと、
「さぁ、お行き。お前も生まれ変わるんだ」
猫の体が光に包まれ、小さな光の玉となった。輝く球体はゆっくりと宙を舞い、港の潮風に乗って天へ昇っていき、そして消えた。
アリアは呆然と見上げていると、聖が苦笑交じりに振り返る。
「さ、終わりだ」
その言葉に息が詰まる。
「ま、待って」
堪らずアリアは彼を制し、蘭服の袖を掴む。こちらを見下ろす彼の表情を見ていられず、アリアは顔をうつむかせた。
「何?」
「……行っちゃうの」
「俺と関わると危ないよ?」
その声音は子供をなだめるような優しかった。
「君だってお父さんやヒルダさんが大切だろ? それに、君には恩を返したしこれ以上関わる理由がない」
でも……と呟くが聖には届かない。聖は微笑んでこちらに目を合わせた。
「いろいろと世話になった、ありがとう。今の日本は不便だけど良いところだから、観光楽しんでね」
「あ……」
袖から手が離される。聖は軽く腕を上げて「さよなら」と英語で言ってくれた。
アリアはその背中を見つめる。
再会できた、感謝もできた、彼と話せることができた。それだけで十分なはずなのに、どうして胸が痛くなるのだろう。
このままお別れなんて嫌だと思った。だから、アリアは――。
「お腹、すいてるでしょっ?」
ピタリ、と聖の足取りが止まった。
アリアはそれが嬉しくて、すぐさま畳みかける。
「助けてくれたお礼にディナーでもどう? たくさん、ご馳走するよ」
聖は動かない。何かと葛藤するように拳を震わせているのがわかった。やがて、錆びついた機械のようにぎこちなく首を巡らす。
「い、いや、別に……は、腹、減ってないし……」
そのとき聖の腹が路地に低く響いた。
「……」
「……」
次に沈黙。非常に気まずい空気が路地を包む。アリアは目をぱちぱちさせて聖を見つめ、片や聖はばつが悪そうに目を逸らし、もごもごと口を動かしていた。
やがてアリアは大きな声で笑った。目元を拭いながら言う。
「セイは正直だねっ。あー、おかしい……」
「あーっ、もうっ」
聖は髪をガシガシと掻き回し、自嘲じみた笑みを浮かべた。顎を上げて、青い空を見上げて小さく呟いた。
「……ま、いっか」
優しく輝く瞳がアリアを捉える。
「確かに腹は減ってるし、せっかくの誘いを無下になんてできない。……そうだな、旅も飽きたし、ちょっとぐらい、休憩してもいいかな?」
アリアは目を大きく見開く。聖はその整った容貌を綻ばせた。
「……君の家で」
「うんっ!」
大きく頷き、彼に駆け寄る。聖の手を取って寄り添う。腕が触れ合うと聖はビクッと肩を震わせ、「異人は距離を知らないのか……」と小さくぼやいた。
その呟きはよくわからなかった。しかし深く考えない。げんなりする彼の横顔を見つめて、アリアは可愛らしく小首を傾げる。
「日本のことも聞かせてね、これ約束だったでしょ?」
「一週間以上前のことを覚えてるとは……、君って根に持つ性格?」
「ど、どういう意味っ?」
慣用句はまだわからない。しかし、それもどうでもいいことだ。彼と居れば探求心が満たされる。日本のことも、“オンミョウジ”という職業についてもいろいろ訊いてみたい。
にっこりするこちらに聖はわずかに肩をすくめるが、それでも微笑んでくれた。アリアは彼の腕をぎゅっと抱き、頭を寄せる。
「ありがとう、セイ」
居候が増えることにヒルダは文句を言いそうだが、説き伏せてやる。そう意気込んで屋敷へ帰ろうとしたとき。
「あっ! いた!」
声は路地の入口から。それはアリアが訊き馴染んでいる怒声。アリアは驚いて大通りの方へ顔を上げた。
長い茶髪を頭の後ろで括った、スーツ姿の女性――使用人のヒルダ・キンドリーは息を荒らげてこちらを睨んでいた。
「お嬢様っ、探しましたよ!!」
ずかずかと革靴を踏み鳴らしてアリアへと向かう。
「町中を探し回るこちらの身にもなってください! どれだけ苦労したか……二度とこんなこと――」
怒鳴り声は突然に途切れた。ヒルダは目をひん剥き、アリアと彼女に密着する件の日本人を凝視していた。
「あ……」
アリアは気づいた。
自分は今、男性と手を繋ぎ、男性に身を預けている。これは傍から見れば抱き合っているように見えなくもない……
「きっ貴様ッ! お嬢様に何をしてるんだあっ!?」
そのあと銃声と男の悲鳴が路地を満たし、港町の一角は大騒ぎとなった。
了
2015年7月3日:誤字修正
2015年8月26日:誤字修正




