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2016年5月19日:誤字・文章修正
六月も後半になって日本はますます暑くなってきた。相変わらず神戸の町は活気に溢れ、ダグラス・エインズワースの貿易会社も極東市場の波に乗り、滞りなく順調である。エドワードの話によれば、日本産の生糸は絶品だとか。
雨が多くて蒸し暑く、まだまだ本国の豊かさとは比にならないが、アリアは楽しく毎日を過ごしているし、不自由はない。
「わぁっ、すごい! すごく良い!」
アリアは感嘆の声を上げた。
今日のエインズワース邸のリビングはいつになく賑やかである。アリアはくるりと体を回して自身を鏡に映してみせた。そこに映る自分はいつもの洋服を着ていない。
鮮やかな青色の生地に花唐草文様を散らされ、明るい色の帯が映える。シックで落ち着いた雰囲気のあるそれはこの国でしか目に掛けられないだろう。
そう、和服を着ているのだ。
以前、聖が伝手を持つ呉服屋が京都からやってきたのである。先日サイズを測られ、そして今日和服が届いたのだ。
アリアは余る袖を指先で握って、目を輝かせる。
「すごい……ありがとう!」
陳腐な言葉しか思いつかない。東洋人ではない自分に和服が似合うものか、と自信がなかったが、存外似合っている。聖にそう言われたのだから自信を持っていいだろう。少しお腹が苦しいが仕方ない。コルセットもこんなものだろうと思う。
振り返ると、和服姿の聖が苦笑交じりに返して呉服屋の店主に礼を言っていた。
「いやぁ、十文字はんもえらいとこに住んではりますなぁ。……不思議なとこどすなぁ」
椅子に座る店主はティーカップを片手に、きょろきょろと邸宅内を見渡している。
アリアは日本語で彼に礼をした。
「ありがとう。とても綺麗だわ」
「い、いいえ、商いどすから……」
金髪碧眼の少女に日本語でそう言われて店主は目を瞬いて、答えた。店主はえらくびっくりしている様子であるが、今のアリアは自分の姿で頭がいっぱいである。
故国の衣装も素晴らしいが、東洋の衣装も良い。互い違いの襟を触りつつ、ふと呟く。
「イヅナの和服みたいに、前は開いてなにのね」
「あいつはいろいろ改造してるし……いや、あるとは思うけど……」
こちらの呟きに聖が口籠った。何やら困ったように言い澱む彼にアリアはじっと目を向けた。聖はぽりぽりと頬を掻いていたが、やがて根気負けしたようにため息を吐く。
「ああいうのは良くない。君がああいう恰好するのは……気が気じゃないし……」
「えっ……」
聞いた途端、耳が熱くなってきた。つまり、伊津奈のような肌蹴た服装をアリアにしてほしくないと言うことだ。アリアは碧眼を瞬かせて、顔を逸らす聖を見つめた。
「……」
「いやっ、頼むから黙らないで……」
「嫌って言ってるでしょ!!」
泡を食う聖に重なるかたちで、部屋の向こうから絶叫が聞こえた。
「こんなの着て何が面白いんですか! こんな薄っぺらいの絶対に風邪引きますよ!? 正気ですかあっ!?」
部屋に入ってきたのはヒルダと侍女のメアリーだ。ヒルダはメアリーに押されるようなかたちで入室する。
「もう、ヒルダちゃんわがままなんだから……。せっかく旦那様とジュウモンジさんが手配してくださったのに」
ぐいぐいとヒルダを押しやるメアリー。赤みがかった茶髪をおさげにして、ぷくっと頬を膨らませる小柄な女性はエインズワース邸の数少ない同居人である。
「はいはい、もう着たんだから文句言わない。恥ずかしがらずに堂々とする」
「ちょっ、メアリーさん押さないで……!」
ヒルダはいつものワイシャツ姿ではなく、アリアと同じ和服だ。
栗色の髪をアップにし、藍色に秋の草花の和服を身につけている。大人びた風合いのそれは、先日ヒルダのサイズも教えて用意させたものだ。
二人の登場にアリアは我に返り、ヒルダに向かってニヤリと笑う。
「いいじゃない。可愛いわよヒルダ」
「あ、アリア……」
涙目で弱々しい彼女が珍しくて、ますます加虐心を煽った。アリアは振り返って聖に言う。
「セイもそう思うでしょ?」
「ん? あぁ、うん。綺麗だね」
「そうそう。ヒルダは私の自慢だよ、可愛いから自信もって!」
「な……! なななっ……!!」
アリアがハグをすると、ヒルダはみるみるうちに顔を真っ赤にして、魂が抜けたように長椅子に倒れ込んだ。
「あら。目を回しているわ」
メアリーが呑気そうに言う。
「アリア様の抱擁がそんなに嬉しかったのかしら」
くすくすと笑う彼女はヒルダを抱き起こし、アリアにお辞儀した。
「それでは、後はお二人でごゆっくりなさってくださいね」
意味あり気な笑みを浮かべて、小さな侍女はヒルダをおぶって部屋を後にする。呉服屋の人たちも聖に礼を言って、立ち去って行った。リビングのほうにエドワードやダグラスがいるから、後はメアリーや父たちに任せてもいいだろう。
アリアはぺこりと呉服屋の主人に頭を下げてから、椅子に座る聖を振り返った。
「嬉しそうだった、店の人」
「外国人が小袖を着るってこと自体異例だから、アリアが気に入ってくれて嬉しかったんだと思うよ」
「そうかなぁ?」
褒められてアリアはへらりと笑う。
「ねっ、ねっ。私、今ニッポン人かなっ?」
上機嫌で聖の隣に座って、彼ににじり寄る。聖はびっくりした様子で身じろぎし、目を逸らしながら答えた。
「い、いや……日本人って言うのは難しいかな……」
「そっかあ……。まあそうよね、装いだけ変えても私はイングランド人だしね」
少し残念だと思うが顔かたちまで変えられない。しかしこの小袖というものは本当に美しい。異文化に触れることが何よりの幸福を感じるアリアは感動を覚える。この極東の島国にしかないだろう技術をもっとたくさんの外国人に知ってほしいと思う。ニッポンという国はまだまだ興味深い物に溢れているのだ。
アリアは愛おしくて袂の部分を優しく撫でる。
「地球は丸くて繋がっているけど、知らないことばかり。……本当に、綺麗」
「物にも魂は宿る」
声に顔を上げると、聖がゆっくりと腕を伸ばした。
「わ……?」
アリアの襟元に触れ、綺麗に整えていく。
「この前の刀が典型的。大切にすればするほど物には想いが込められる。付喪神も一応神様だから、大切にしてあげないと」
「……」
彼の息づかいが聞こえる。少しでも動いたら肌が触れ合いそうな距離、こんなにも近くで異性を感じるのは初めてだと思う。
アリアはじっと聖を見つめた。己の探求心を満たしたい人生であるが、とどのつまりアリアも十六の女の子。恋愛に興味がないわけではない。人並みに恋を経験したいし、いつかは家庭を持つだろうとふと思うときもある。
目線が行く先は彼の薄い唇――。
「だから、その着物も大切にしてあげて……あ」
目が合う。
「…………」
互いに、そのままの姿勢で固まってしまった。
揺れる漆黒の瞳、筋の通った鼻梁、切なげな吐息が漏れる口元。
襟を握る手に力が入って、着物にしわが寄る。
アリアはこくりと喉を鳴らした。
「――お嬢様、よろしいでしょうか」
そのとき、部屋のドアがノックされた。声はエドワードだ。
二人は飛び上がるくらいびっくりして、お互い距離を取った。
入ってきたエドワードに文句を言ったのは言うまでもない。
無論、心の中で。
了
第二話終了に伴い、充電を開始。




