8.
「お嬢様!? 今までどちらに!?」
広間に戻ると、ヒルダの絶叫が鼓膜に響いた。駆け寄る彼女は真っ青な顔をしている。せっかくおめかししたのに髪も化粧も乱れている。ビスクドールのように可愛く綺麗だったのに、もったいない。
ヒルダは金切り声で主人の名を呼び、体の上から下まで隅々まで見回して、怪我はないかとか気分はどうだとかうるさくて仕方がない。
「アリア。ちょっと来なさい」
うっとうしく思ったところで、父のダグラスが手招きするのを見つけた。これ幸いとアリアはヒルダを無視してダグラスに歩み寄って、固まった。
「これはアリア嬢、改めまして。ミハエル・シュタウフェンベルクと申します」
げ……。と心の中で呻く。父の隣にいたのはこのパーティーの主催者であり、父の商売相手であるミハエルであった。ミハエルは彫刻のように整った顔を綻ばせて深く腰を折る。
顔が歪んだ気がしたが、アリアはすぐに愛想笑いを浮かべ、会釈した。
「い、いいえ。私もきちんとした挨拶が遅れてしまいました」
猫を被るのは上手い方だ。今まで父にはバレたことはない。ヒルダには常にバレバレなのだが。今もヒルダが睨んでいるのを感じるが、表情筋を緩ませることに努めた。
「ん? ジュウモンジ君はどうした」
するとダグラスがあたりを見渡した。
「あっ、涼みに行くってバルコニーのほうに……」
嘘は吐いていない。さっきまで一緒にいたのだから。ダグラスはそれで納得したらしく、頷いていた。相変わらず娘に甘い。
「アリア嬢」
「は、はいっ?」
今度はミハエルに呼ばれて、アリアは身構えた。
切れ長の目元、高い鼻梁、柔らかく弧を描く唇。美しいの一言に尽きる容貌と、スマートに着飾ったフロックコートが彼の気品さを顕著に物語っている。眉目秀麗で品行方正。まさに完璧な彼なのだが……。
どうもアリアはこのゲルマン人を好きになれない。その美しすぎる笑顔には何か裏がありそうで恐ろしいと思う。はっきり言ってうさんくさくて嫌いだ。
目を眇めていると、ミハエルは再び腰を折る。
「さきほどは失礼なことをしました、無礼を詫びたい。あの、ニッポン人の彼にも悪いことをした。どうか許してもらいたいのですが」
「あっ、いえ。それはもう……。こちらこそすみません」
そう言えば会食後にひと悶着あった。残念ながらあまり覚えていない。庭での出来事が濃厚すぎたのだ。だからあっさりと許した。するとミハエルは嬉しそうに頬を緩め、手を伸ばしてきた。
「不快な思いをさせたことは事実です。もしよかったら、今度一緒に食事でもどうですか?」
「……は?」
目を見張る。ミハエルは嫌味のない笑みで続ける。
「無論、あの彼も一緒で構いません。シナ人は好かないが中華料理は絶品です。いかがですか、アリア嬢」
「ハアッ?」
もはや猫被りは無理だった。眉間にしわを寄せて、身を引いてしまう。露骨に嫌な顔をするとダグラスが渋い顔をするのが目に入ったが、気にしてなられない。ミハエルは相好を崩さなかった。
「硬くならずともただの交流です、無理にとも申しません。ただ私個人としては食事をともにしたいですね」
これは口説かれているのでは? ダグラスが感嘆の声を上げ、「まさかこんな娘に……」と歓喜している。自分の娘をなんだと思っているのだ。
「そ、そうですね……」
目を逸らし言葉を濁す。
こういう誘いは本国でもよくあったがすべて断ってきた。今も断ることはできるだろう。しかし思いとどまる。ここは極東の島国。父の仕事上滞在しているわけで、父の都合に合わせて動く身である。ここで断って、もし日本にいられなくなったら非常に困る。
「じ、じゃあ……楽しみにしています」
アリアは苦い微笑みを浮かべて承諾した。
「よろしいんですか」
ヒルダがこっそりと耳打ちする。アリアは眉をひそめる彼女に素っ気なく返した。
「仕方ないでしょ。お父様の事業が失敗して本国帰らなくなっちゃったらどうするの。ここはお父様の顔も立てないと」
「そこですか……」
どうしてため息を吐かれた。
悲壮な顔つきをするヒルダから目を離したとき、向こう側から聖が帰って来た。アリアはたちまち表情が明るくする。
「セイっ」
聖は少し疲れた様子ではにかみ、
「大丈夫? アリア」
「うん。私は平気」
「あの人を見てくれて、ありがとう」
そう言って聖はついって目を動かした。その視線の意を瞬時に理解したアリアは彼の視線を追った。
にこやかな笑みを浮かべる眼鏡の青年。何もなかったように談笑して、あの奇跡の出会いなどまったく覚えていない様子。だけどそれを悲しいとは思わない。彼の心には、しっかりと彼女が存在しているのだろう。
「よかった……」
アリアは胸に手を当てて、微笑む。
「セイはすごいね」
言うと、聖は驚いたように振り返って苦々しく目を逸らす。
「いや……。俺は何もしてないよ」
どこか暗い表情をするが、アリアはふるふると頭を振った。
「ううん。セイは、人の想いを繋げて神様に伝えるんだよ。お祈りだけじゃ見えないこと、叶わないこと、セイは叶えてあげて送ってる。私はそれをすごいと思うし、立派なことだよ」
「…………」
一言一言伝えるたびに聖は目を見開いていく。漆黒の瞳は困惑に揺らぎ、信じられないと言った風に驚愕していた。
「あれ。え、えーと……。私、変なこと言った?」
反応のない彼に慄く。不安になって彼の顔を覗くと、ややあって聖が小さく呟いた。
「言葉は呪、か……」
「え?」
その言葉の意味はわからなかった。それを訊く前に、聖は屈託のない綺麗な微笑を浮かべた。
「君にそう言われるのはすごく嬉しい。ありがとう」
「う、うん……」
胸が熱くなる。
興味深いだけだった。彼がどんな人で何をしているニッポン人なのか、それだけだった。打刀の霊魂や女性の亡魂。彼らはヒトではなく、しかしさまざまな想いを持って生きていた。彼が、人でないものと対話する行為が可笑しくて、ますます興味を持った。だけどそんな彼らと向き合って、真摯に話し会うその姿は、陳腐な賛美の言葉しか出て来なかった。ただただ、見惚れていた。
このふわふわとしてどきどきした気持ちは言葉では表せないだろう。あの青年もあの女性もこういう気持ちを抱えているのか。
先日、彼の知人が現れて彼はひどく消沈していた。だが、どうだっていい。
今、自分の目の前にいるのは友人の十文字聖であり、それ以上でもそれ以下でもない。彼の家がどうだろうと、いつか彼が去ってしまおうと。
この愛しい時間を大切に過ごしていきたい。




