6.
2016年5月19日:誤字・文章修正
「こんばんは」
聖は、シュタウフェンベルク邸の庭先にいる女性に声を掛けた。
綺麗な年若い日本人女性だ。薄桃色の和服姿で、ぽつねんと立ち尽くす様は今にも消え入りそうで、儚い。その彼女はつぶらな目をこちらへ向けて、その瞳をわずかに見開いた。
「うちに声掛けてるん?」
「ええ。そうです」
柔らかな声音で聖はにこやかな笑顔を浮かべた。すると女性は恥ずかしそうに目を伏せて嘆息した。
「ややわ、迎えに来はったん?」
「簡単に言うとそうですね」
聖は右手を自分の胸元に置いた。
「俺の仕事は、あなたのような存在を天道に送ることですから」
「天道? うち、地獄に行くんちゃうん?」
「滅相もない。目立った悪行も無く、天寿をまっとうされた方は天道に参るのが基本です」
「ほんなら、うちはちゃうわ」
女性は自分を嘲るように笑う。
「うち、悪いことしてんで。今も」
その言葉に聖はわずかに眉をひそめた。
「そうですね、この世にあなたがいるのはおかしい。ですから、俺のような奴がいるんです。あなたはもう、現世にいてはいけない。どうか俺の話を聞いてほしい」
「いやや」
女性は目をきつく細めて、拒否した。
「あんたん話なんかどうでもいい。うちのことなんかほっといて!」
「それは、彼のためですか?」
即答した聖はゆっくりとガラス窓の向こうを指差した。
その先には異人の男性がいる。上等なスーツを着込み、眼鏡をかけた青年だ。彼はワイングラスを片手に他の客人と談笑を楽しんでいた。
女性は驚いたように聖の指差す方向を見つめ、観念したように小さく失笑した。
「……あんな、うちの実家、大坂の米問屋やねん。お迎えさんなら知ってるやろ?」
そっとガラスに触れ、柔らかな声音でささやくように言う。聖は口を挟まなかった。それをなんと受け止めたか知らないが、彼女は聖を一瞥してから話を続けた。
「御一新してから、お米やなくて銭でお納めせなあかんようなったから、お店大変やったんやで」
「……」
「そんなとき、彼の家族がうちにやってきて。あの人ん家族、なんや食べ物に興味あるらしくて……それで、日本のお米も食べてみたいって言ってくれはって。異人さんはごはん食べへんのかなぁ」
「そうですね、ここにはありませんでした。見たことない食べ物ばかりだった」
聖が相槌を打つと、女性は感情の乏しい視線を投げかけた。
「なあ。異人を好きになったらあかんのん?」
聖の表情が強張った。
「…………」
その質問に答えはあるのだろうか。二人のやり取りを傍観し続けるアリアはなおさらわからない。だけど彼女の問いはアリアの胸に深く突き刺さった。
「うちのお父さん嫌や言ったし、彼の家族も反対やって聞いた」
女性は潤む瞳を真っ直ぐと聖に向けて、濡れた声で訴える。
「うちは彼を愛してるし、彼もうちを愛してくれた! ええやん別に、何が悪いん? なんであかんの? ずっと見てたかった、もっと側に居たかった……あの人と一緒に、暮らしたかった!」
とん、と弱々しくガラス窓を叩く。
「お願いやから、彼の側に居させて……!」
その悲鳴は切実で悲痛であった。
彼女の想いは間違っていないだろう。人を好きになるのは個人の自由だ。しかし、白人とアジア人とでは明らかに異なる。白人なら当然で、格式の高い家系ならより一層、非白人を軽蔑する。そんなことは当たり前で、好き合っていた彼もわかっていたはずだ。それでも――。
聖は苦しそうに顔をしかめ、呟く。
「愛していたんですね」
「愛してる! 今も!」
しかし返される言葉にも、聖は動揺することなく冷たく告げた。
「けど俺は、その想いに応えることはできません」
「……っ」
つ、と女性の頬に涙が一筋流れる。
「あなたは死んだ身です。あなたがどんな想いを抱えていても、俺はあなたを天道へ送る義務がある」
一度流れた涙は止まることを知らず、みるみると溢れてくる。それでも聖は口を閉じることはせず、淡々と言葉にした。
「さまよい続けたら、いずれ悪霊やあやかしに心を侵される。大切な人を苦しめるかもしれません。だから、俺のような橋渡しがいるんです。俺の言うことを聞いてほしい」
「いやや、離れたない!」
駄々をこねる子供のように女性は首を振る。それだけ想い人を愛していて、強い信念を持っているのだ。離れたくない――死んでもなお、彼女はそう願っている。だけど愛する人が目の前にいても、自分には何もできない。誰の目にも映らず、物にも触れられない。ただじっとその場にいるだけ。彼を見つめているだけ。
それは、苦痛ではないのだろうか。
「辛くないの」
アリアは自然と口をついていた。
その日本語に女性がはっとしたようにこちらに目を向けた。初めてアリアの存在に気づいたようで、驚きのあまりに涙も止まっていた。
アリアは彼女の赤く腫れた目元を見て、顔を伏せてしまう。
「だって、あの人にはあなたのことが見えないし、いつか忘れてしまうかもしれないのよ」
「そんなん……」
「私は……そういうの辛い」
目を上げて、女性と同じように唖然とする聖を見つめた。
「迷惑は、かけたくないわ」
「言われんでもわかってるわ!」
怒気の含んだ金切り声で女性は叫んだ。アリアは身の縮む思いがして声が出せなくなった。
「アホやないんやから死んでんのぐらいわかってるわ! お父さんとお母さんが泣いてたんのも見てる、あの人だって悲しかったはずやもん! いたらあかんのぐらい、子供やないんやから……! でも、無理っ……、ずっと一緒に居たいっ……!」
彼女は頑なに首を振り続ける。
そのとき、聖が力強く告げた。
「――あなたの未練は、そこにある」
その瞳は真っ直ぐと彼女に向けられ、吐き出された声は非常に硬い。がしがしと頭を掻き回して、おかげで整えた髪がぼさぼさのいつも通りの髪型に戻ってしまった。女性もアリアも戸惑って彼を見やるが、そんな視線も気にしないで聖は続けた。
「彼が、しっかりと別れを告げなければあなたの未練は無くならない」
聖は胸ポケットから紙片を取り出した。『奈』と書かれた紙切れをピッと指先で弾き、地面に投げ捨てる。
「出てこい、伊津奈」
途端に、ポンと気の抜けた音と白い煙が紙片から吹き出して、そこから“彼女”は出現した。
「いきなり呼び出さないでくださいよー。せっかくごはん食べてたのに……」
山吹色の長髪と琥珀色の瞳。耳と尻尾が生えた聖の式神で、妖狐の女の子。
出てくると伊津奈は文句を垂れた。あざとく頬を膨らませて、不機嫌そうに尻尾を上下に揺らしている。しかし聖の格好を見た途端、ころりと表情が変わった。
「聖さまなんですかその格好!? すごく素敵ですっ、すごくかっこいいですっ! これは保存しなければ! 絵師さん……いや近頃は写真というものがあるとかないとかっ!?」
きらきらと目を輝かせて尻尾をぶんぶんと振り回す彼女に、聖は深くため息を吐いた。
「俺のことはどうでもいいから、仕事だ仕事」
「あっ! アリアちゃんもすごく綺麗! 異人さんって感じー」
「あ、ありがとう」
「話を聞け」
聖は苛立った様子で女性とガラス窓の向こうの彼を指差した。
「仕事だ。あの男を連れて来い」
「あの、目に氷を張った人ですかー?」
「眼鏡な眼鏡。……そう、なるべく穏便にな」
「了解しました!」
伊津奈は元気よく返事をして煙のように消えた。
「……なにあの子?」
女性が呆然とするが、聖はにこりと笑って受け流してしまう。
「お気遣いなく。ただのケモノですから」
「はっ?」
涙で湿った瞳がジロリと聖を睨みつけるが、彼は意に介さなかった。
それから聖は再びジャケットの裏に手を入れて、四枚の紙片を取り出す。いつか見た五芒星と梵字が書かれた紙切れだった。
「結界を張るから動かないでね」
聖はそう言いながら紙片を周囲に投げ捨てる。ばらまかれたそれは意思を持ったように四つの角を作り、地面に張りついた。紙片は光を放つと、紙片同士を光の筋で繋げ、アリアと女性を囲った正方形を作り上げた。
アリアが呆然として首を巡らすと、聖はふっと息を吐いて微笑した。
「こちらの様子を視認できないようにした。安心して、体に害は無いから」
「できないって……?」
「連れてきましたっ!」
追求しようとしたとき、元気の良い声が背後から聞こえた。その声は伊津奈のものだった。が、振り返った先には伊津奈の姿は無かった。あるのは虚ろな目をした青年の姿だけだ。アリアは青年を目にして半歩あとずさった。
すると青年の右肩から子狐が現れた。
「イヅナ? どうしてキツネなの?」
「術を使うときはこっちの体のほうが安定するの。今回は簡単に憑りつけたんだー、すごいでしょっ」
「そ、そう……」
ふふんと鼻を高くしてうそぶく伊津奈だが、アリアには訳がわからなかった。
「よし。正気に戻せ」
隣で聖が平然として伊津奈に命じた。
彼の言葉に従って伊津奈はぴょんと青年から飛び降りた。
するとどうだろう、青年の目に光が戻った。青年はハッとした様子で目を見張り、きょろきょろとあたりを見渡して、困惑する。
「ここは……! い、いつの間に外に出たんだボクは!」
「俺がそう仕向けました。トーマス・レミントンさん」
聖はやんわりとした口調でトーマスという青年に声を掛ける。彼はビクリと怯えたように反応し、声を荒らげた。
「な、なんだ君は! 君がボクをこんなところに連れてきたのか!?」
「はい」
「ニ、ニッポン人が、ボ、ボクに何の用だ!」
「用があるのは彼女ですよ」
罵声を浴びせる彼に表情を一つ変えず、聖は彼方へ手を伸ばした。
彼と彼女の視線が交錯する。
青年は驚愕に目を見開き、わなわなと唇を震わせて掠れた声で呟いた。
「…………ユ、ユリ?」
「え……」
再び流れる涙。それは悲しいからではない。彼女の表情は徐々に明るくなって、涙を零しながら青年に駆け寄った。
「とーます……トーマス!」
「な、なんで君がっ! 君はっ、二年前に……!」
慄く青年は後ずさりをして恐怖に目を泳がせ、拒絶した。
「く、来るなっ!!」
「え」
「う、嘘だっ。彼女は死んだんだ、もうこの世にいない……き、君はっ、だ、誰だっ?」
「と、トーマス……」
「その顔でボクの名前を呼ぶな!!」
彼は絶叫し、その場で腰をかがめて頭を抱える。
青ざめる彼を見て、彼女は力尽きたように差し出した腕を下ろした。
「うち、うちは……」
ぶつぶつと呟く彼女に何も映っていない。つぶらな漆黒の瞳は光を失っていた。
彼に拒絶された。それは彼女にとって自身の全てを否定されたことと同じだろう。
しかし彼の反応は当然だとも思った。突然現れたのが亡くなった恋人なのだから動転してもおかしくないのだ。
アリアは彼女の側に寄って青年と聖を見つめた。
視線に応えるように聖は興奮し切った青年に口を開く。
「レミントンさん」
「なんなんだ君は!」
「落ち着いてください。俺はただの日本人です、怪しい者ではありません。ここは信じていただくしか……」
「ニッポン人がボクに何のつもりだ!?」
「……話を聞いていただきたい」
「な、何をおかしなことを言ってるんだ……意味のわからないことを言うな! ボクを馬鹿にしているのか!」
青年は聖を指差して英語で唾を飛ばす。
「金が目的か!? 野蛮人が……、ボクを貶めようとしているのか。馬鹿馬鹿しいことを考えるんだな、非白人は」
「やめて!」
アリアが怒鳴った。この場の全員が驚愕でこちらを振り返る。
彼の発言は聞き捨てならなった。目尻に涙を浮かべてキッと青年を睨みつける。
「セイはそんなことしない! 人種が違うだけで軽蔑するなんて絶対に間違ってる! あなたが愛していた人だってセイと同じ日本人でしょ、日本人を差別することは彼女のことも差別するってことだよ!」
「君は……何を……」
突然、端にいた西洋人の少女に怒鳴られて青年は困惑する。しかしアリアはそんな彼にもお構いなしに、口を閉じず詰め寄った。
「彼女はあなたを想ってずっと傍にいたの! いなくなったから、その人をないがしろにしていい理由にはならないでしょ! それともあなたは彼女のことを忘れたの?」
「そんなことは、」
ぼそぼそと呟いて首を振る。
「だったらセイの言葉を信じて! そして彼女を見てあげて。触れてあげて。彼女を助けてあげて!」
アリアはビシッと彼女を指差した。
青年はアリアの剣幕に圧されて彼女が指し示す先に顔を向ける。怯えた視線をゆっくりと動かして彼女に捉えた。
流れる漆黒の髪と大きな瞳。白い肌。薄桃色の和服――。青年は一度唾を飲みこみ、乾いた唇を震わせた。
「ほ、本当に、ユリなのか……?」
「うん」
小さく頷く女性。
青年は竦んだ足を前へ進めると、彼女は首をもたげる。すると青年はすぐに目を逸らした。何かに怯えたふうに震える彼は、拙い日本語で応える。
「ボ、ボクは……。ずっと……ずっと、君に謝りたくて……」
顔をうつむかせ、唇を震わせる。
「……葬儀にも出られなかった。父の言う通りにした自分が情けなくて……。怖かったんだ。なんで……。もっと一緒に居ればよかったのに、君のこと……病気のことがわかったかもしれないのにっ。ボクは……君をっ」
青年は地面に膝をついた。丸眼鏡の奥の瞳が潤み、拳を芝生にぶつける。
「幸せにできなかった。……全部、ボクが悪いんだ」
「そんなん……」
悲痛に顔を歪める彼に、女性はおもむろに両手を伸ばして彼の手と重ねた。触れた感覚に青年は思わず顔を上げる。ぎゅっと握られた手は暖かく、あのころと何も変わらない小さな手だった。
彼女は涙でくしゃくしゃになった顔を綻ばした。
「うちは、幸せやったよ」
「っ……」
我慢できなかったように涙は零れていく。滲む視界の中で、彼女の笑顔は鮮明に映った。
「あなたと会えて、うちは幸せやった。せやから……せやからっ、離れたくなくて……うち、ずっと……」
「ユリっ!」
歓喜極まったか青年は彼女を抱きしめ、彼女の肩に顔を乗せてそのまま泣き崩れた。突然の行動に硬直した彼女であったが、やがてくしゃりと顔を歪めて、初めて声を上げて泣いた。
「ごめん、ごめん……」
「うん、うちも……。好き……大好き……」
泣き続ける二人。ずっとこのときを待っていたかのように。二人の想いは確かに通じ合っていて、不安と後悔でいっぱいだった心はほぐれて、今度は正確に結ばれていく。
――よかった。
アリアは抱き合う二人を微笑ましく思ったと同時に、胸がきゅっと締めつけられた。他人事ではないように思えてきて、自然と目尻に涙が浮かぶ。潤む目元を拭って二人に祈った。
どうか、この日、この瞬間を忘れないように。
すると聖がこちらへ歩んでくる。何かと思い、首を向けると彼は微苦笑を浮かべた。
「また助けてもらった……ありがとう」
「えっ?」
「君に助けてもらってばかりじゃあ、面目丸つぶれだな」
「え、いいよ。私何もしてないし……」
「いや、」
聖は頑なに首を振り、明るく微笑んだ。
「ありがとう。アリアのおかげだよ」
「ん……」
言葉に詰まった。そんなに笑顔で礼を言われたら恥ずかしい。胸がときめいて顔が火照るのを感じたとき、慌てて顔を背けてしまった。
「じぃー……」
そのとき視線を感じた。びっくりして振り返ると、伊津奈がこちらを睨みように見つめていた。その琥珀色の瞳はなんだか不満げな色を示していた。そしたらすぐに顔色を変えて、聖に両手を広げる。
「聖さまっ」
「なんだ」
「あたしも頑張りました! 褒めてくださいっ!」
「あぁ。よくやったな、伊津奈」
どこか淡白な物言いにアリアは聞こえた。しかし口にした本人は気づいていないらしい。そう感じたのは伊津奈も同じで、案の定彼女はむーっと頬を膨らませて、尻尾を上下に揺らす。
「聖さまっ!」
「うるさいな、ちょっと黙れ」
「う、うう……。聖さまのいじわる……」
しゅんと耳を垂れ、泣きそうな顔をする伊津奈だが、聖は気づかない様子で彼らに歩を進めながら、淡々と口にした。
「ダグラスさんたちも心配する頃合いだろうし……終わらせよう」
近づく彼に気づいた青年は眼鏡を外して涙を拭い、訊ねる。
「君は、一体何者なんだ? 神の使いでもなさそうだ」
「それはお答えできません。まぁ、近いかもしれませんね」
聖は彼を見下ろしてから、隣にいる女性に目をやる。
「そろそろ、よろしいでしょうか」
「あっ」
赤く腫らした目が揺れる。聖は続けた。
「あなたへの想いは彼に伝わりました。これからどうするかは生きている彼に任せるべきでしょう。これ以上、あなたがここにいるのは不味い」
「そう、やね……」
彼女は長い睫を伏してそう呟く。彼女の感情を表現するように両の拳が握り締められた。それを確認した聖は決心したように、ふっと短く息を吐き右手を構えた。
「ユリ」
ふと、青年が声を上げる。それに聖の右手が宙を止まり、彼女は顔を上げる。青年は今度は自ら彼女へと手を伸ばし、彼女の手を柔らかく握った。
「ボクは、大丈夫……」
優しくささやくように言う。
「君は行かないといけないんだ。きっと……いつか、このときが遠い過去になって、君のことを忘れてしまうかもしれないけど……」
「いやや! そんなん……!」
「それでも! ボクの君への気持ちは違わない。君と過ごせて幸せだった。この夢のような時間に君に会えて、この瞬間がすごく素晴らしくてかけがえのない時間だった。君はどう? ユリは今、どんな気持ち?」
「……うちは」
口にした途端、彼女の周りから淡い光が溢れ出した。ふわふわと暖かい粒子は浮かんでは消えてを繰り返し、彼女を包み込む。戸惑う一同の中、聖だけが笑みを浮かべていた。
「あなたの心が穏やかになっていく……。あなた自身も感じると思います。この世に未練が無くなり、健やかな心を持つ。これで心置きなく送ることができます」
彼女は明るい光を放つ自分の掌を見てから、暗い表情をして聖を見上げた。
「うち、今度こそ消えるん?」
「ええ。これが本当に最後です」
すぐさま女性は青年を振り返った。青年の頬に両手を添えると再び涙は溢れ出す。
「トーマス。うち……うちは幸せやった」
「ユリ……。君に出会えてボクは……」
溢れる光の粒子は強くなっていく。
聖は右手を構え、宙に何かを描く。
口にするたびに二人のぼろぼろな顔つきはますますひどくなっていく。
だけどその泣き顔に悲しみの感情だけではなかった。
「――愛しています」
青年は最後の最後まで彼女に言い募った。
彼女は憑物が落ちたような優しい笑顔を浮かべて消えていく。そのとき、彼女が一瞬だけアリアに目を向けた。ハッと息を飲むアリアに笑顔のまま口を動かす。
――おおきに。ありがとう。
「ユリ!」
粒子は星の瞬く夜空へ昇っていく。青年は光となった彼女の粒子を最後の一粒まで搔き抱いた。光の残滓が白い手袋に散った。
「…………」
膝立ちになった彼は茫然と夜空を見上げる。しんと静まり返るシュタウフェンベルク邸の庭園。バルコニーの向こうの広間からダンスの楽曲が耳に届いた。
沈黙を破るのは聖の安堵したようなため息。
振り仰ぐと、彼もまた満足げな笑みを浮かべていた。
「レミントンさん」
それは日本語であったが青年は声に振り返った。彼は憔悴し切った真っ青な顔つきをして苦々しく笑う。
「……行ってしまったのか」
聖は答えず距離を縮める。慌ててアリアも彼の後を追った。すると青年はこちらに気づいて声を上げる。
「君はエインズワースさんの……」
「え、そうですけど」
びっくりして答えると、青年はゆっくりと腰を上げて聖に言う。
「そう言えばさっきシュタウフェンベルクさんとトラブルがあったみたいだったけど……なるほど、噂のニッポン人は君だったんだね」
英語で言う彼に聖は若干不思議そうな顔をして青年を見上げていた。アリアは二人の間に入り、通訳をする。
「罵倒してすまなかった。ミス・エインズワースの言う通りかもしれない。ボクはユリだけを見ていてわからなかったけど、彼女も日本人で、君も日本人だものね」
「まぁ、ここに来て慣れましたから気にしてませんよ」
聖は朗らかに返した後、スーツの裏から新たな紙片を取り出した。そしてアリアを一瞥してから再度青年に話し掛ける。アリアには何のための目配せかわからなかった。
「ところでレミントンさん、」
「なんだい?」
「今見た現象はご内密にお願いします」
「秘密? ……あぁ、しかし誰に言っても信じてくれないだろう」
青年は目元を押さえて夜空を見上げる。アリアの通訳を聞きながら聖は冷たく切り捨てた。
「しかし、口約束ほどに浅はかな約束はありません」
「え?」
聖は優しく青年の肩に手を添えた。手の中にはさきほど取り出した紙片が挟まっていた。アリアが目を瞬き通訳を忘れているうちに、聖は素早くまとめてしまう。
「少々記憶をいじらせてもらいます。無論、彼女との出会いの記憶はそのままで。……そうですね、夢の中で出会ったで良いでしょうか」
「な……」
恐怖する青年に、聖はにっこりと笑顔を浮かべて告げた。
「これも職務なんで、ご了承ください」
瞬間、青年の視界は真っ暗になった。
***
すぐそばで、トーマス・レミントンが寝息をたてている。
アリアは緊張の面持ちで彼を眺めていた。
ついさっきアリアは若い女性の霊魂を見つけた。その女性は恋人であったトーマス・レミントンが恋しくて現世をさまよい、死んでからずっと彼の側に居続けていたのであった。
その当事者であるトーマス・レミントンは彼女との邂逅の末、聖が陰陽師の力で一部記憶を消失させたらしい。どういうわけか理解できなかったが、職務の秘匿は絶対のようだった。
その彼はシュタウフェンベルク邸の庭で伊津奈と一緒に後片付けをしている。後片付けなどすぐに終わりそうなものだと思っていたが見当違いだったようである。夜の帳も落ちた庭は暗い。どこに聖と伊津奈がいるのかよくわからなかった。
だからアリアは今、庭先のベンチにいるのだが。
ちらりと横を見るとトーマス・レミントンはまだ寝ている。聖に頼まれたのだ。記憶の無くなった彼に上手い具合に話を合わせてほしいと言う。
故に、アリアは緊張している。そんな演劇まがいのことを自分ができるのだろうか。ダンスもあまり上手じゃないのに……。
「ん……」
考えていると、レミントンが目を覚ました。悲鳴が上がりそうになって慌てて口を塞ぐ。ベンチから立ち上がり、深呼吸をしてからレミントンに声を掛けた。
「あ、あの……風邪を引きますよ」
「ん……。君は……?」
「ふ、ふと庭を見たら、あなたがここにいたので心配で……もしかして寝ていました?」
「え? あー……。あれ、ボクはいつここに……?」
眼鏡を片手に彼は眠たそうな目を擦って首を捻る。
その発言にアリアは驚き、思わず口をついた。
「本当に覚えていないんですか」
「はい?」
「あ、いえっ、なんでもないです。……と、ともかく中に入りましょう? 病気になったら大変ですから」
「病気……」
彼が反応して上体を起こした。アリアはすぐにしまったと思い、慌てて何か言い繕うとしたが、レミントンはくすりと笑った。
「な、何か可笑しかったですか?」
「あ、いえあなたのことではなく、どうしてここにいるかわからないけど、なんだかすごく良い気持ちで……」
彼は星の輝く夜空を見上げた。
「あぁ。すごく良い夢を見たよ」
彼の笑顔にアリアははっと息を飲んで、やがてふんわりと笑った。
「それは……よかったですね」




