5.
2016年7月7日:誤字・文章修正
「ジュウモンジ君、似合ってるよ」
「恐縮です。こういう恰好は初めてで……」
あくる日。午後六時ごろ。
この季節の日本は日没が遅くなっていくらしく、空は橙色と藍色が混ざり合った奇妙な色をしていた。ヒルダはそれを気味悪く思いながら、前を歩く二人の男性の会話を聞いていた。
「ジュウモンジ君はスマートにまとまっている。和服も良いが、洋服も着こなしてみるべきだね」
「ははは……」
にこにこと笑顔を称えるのはダグラス・エインズワースである。くすんだ金髪を後ろになでつけ、口髭をたくわえた壮年の男性。今日は形式的な会合ということもあって、礼装に身にまとい、ステッキを片手に持っていた。
その隣で苦笑いを浮かべるのは日本人の青年。ぼざぼざでくせ毛の黒髪も整髪料で固めて綺麗に整えてある。元々身体の線が細いため、スーツを着るとスマートに見えるらしい。それはヒルダの目からでもわかった。顔立ちも整っているから余計だろうか……。
今日はダグラスの商売相手である、ミハエル・シュタウフェンベルクの会合に招かれたのだ。
目の前にはシュタウフェンベルク邸がある。彼の邸宅は居留地内でも、雑居地と呼ばれる場所にあり、元々は日本人の土地だったようだが、シュタウフェンベルクが買い取ったらしい。
ヒルダは三角に尖った屋根をほーっと見上げていた。
ミハエル・シュタウフェンベルクが、どのような人物かは会ったことがないので知らない。名前からしてゲルマン人だろうか。兄のエドワードの話によるとすごく眉目秀麗であるらしい。……どの口が言うか。
そんなことを考えていると、青年――十文字聖がこちらを振り返った。
「な、なんだ……」
視線に慄くヒルダに聖は柔らかく笑む。
「ヒルダさんも女の子なんだなって思って」
「なんだとっ!? 失礼な奴め!」
「ドレス、だっけ? ……スーツ着てるより良いと思うけど俺は」
「な……はぁ?」
確かに今日はスーツではなく、ドレスを着ている。いつもは馬の尾のように括られた髪も、後頭部でまとめて化粧も少し施した。
これは、主人に無理やり着せられたものだ。ヒルダ・キンドリーはエインズワース家の仕える身である。ただ、主人の身を守ることができればヒルダとしては良かった。だから平常通りスーツで構わなかったのだ。しかし主人は張り切ってドレスを用意し、すごく楽しそうであった。ヒルダはそんな主人を無下にはできず、渋々ドレスに袖を通したのだ。
――だが、しかし。すごく恥ずかしい!
笑顔の聖から目を逸らして、ヒルダは元凶である主人を眺めた。
今日のアリアはすごく美しかった。青を基調としたふんわりと裾の広がったドレス。綺麗なブロンドの髪をアップにし、綺麗な髪飾りやネックレスが白い柔肌に輝く。艶めかしいうなじが覗け、ほのかに香る色気にヒルダはうっとりとして見惚れた。
しかし……。
「お嬢様?」
彼女の様子に違和感を覚える。
このような会合の場では、いつもやかましいぐらい文句をつけるのに口を閉じている。どこかぼんやりとした様子で楚々と歩いていた。皮肉だがおかげで馬車内も静かであったし、願わくば会食のときもこのままでいてほしい。
しかしいつもらしからないアリアに、ヒルダは眉をひそめた。恐る恐る尋ねてみる。
「気分でも優れないでしょうか?」
「え? そんなことないよ。元気だよ私は」
くりっと可愛らしく小首を傾げるアリアは笑顔を浮かべた。しかしその笑みはどこかぎこちなく、冷たかった。
やはり、おかしい。ヒルダはアリアから目を離して考えた。
考えてみれば、朝食時から変だ。時おりぼーっと虚空を見つめて手が止まっていた。それに今日は天気が良かったから外出する支度もできていたのだが、アリアはそれをしなかった。一日中部屋に閉じこもり、何やら考え事をしている様子であった。
何かあっただろうか……。考えるがヒルダは思い浮かばない。昨日は体を壊して寝込んでしまって、アリアに付き添えなかった。
「ん? 昨日……」
ヒルダはふと思い出した。
そういえばアリアは午前中外出をしていたようだ。無論、一人で出かけるわけもないから、誰かが付き添っていたはずだ。エドワードはダグラスと一緒に仕事をしていた、侍女はヒルダが邸宅にいるところを見ている。
消去法で考えたならば……。
ヒルダは前で愛想笑いを浮かべる聖を睨んだ。
「おまえか……」
「えっ?」
声に反応した聖が驚いた顔をして振り返る。ヒルダはつかつかとヒールを鳴らして、彼に詰め寄った。
「おまえ。昨日お嬢様に何かしたんじゃないだろうな?」
興奮していたためか、その質問は英語であった。
だから聖はぱちぱちと目を瞬き、首を捻る。するとダグラスがくすくすと微笑みながら日本語に訳した。
「……ジュウモンジ君。昨日アリアと何かあったかね?」
「え? 特に何も……、いつも通りでしたけど」
「そんなわけあるかっ。だったら、アリアがあんなに大人しいはずがない!」
「確かに今日のアリアは静かだ。……さすがヒルダだ、よく見ている」
ダグラスの労いの言葉にヒルダは嬉しくなった。しかしすぐに顔を引き締め、聖を睨みつけた。
「私が目を離した隙におまえが何かやらかしたのは明白だ! アリアに何したんだ? 正直に答えろ」
こいつが屋敷に来てからというもの、碌なことがない。アリアは変に懐いていて、こいつのことになるとすぐに表情を変える。
それがヒルダは気に食わなくて腹立たしくて、すごく恨めしい。
別に彼のことが嫌いではない。笑顔のアリアを見られるのは至福であるのだから。不思議な奴だが誠実で礼儀正しく、言葉の隔たりを感じさせない接し方をしてくる。そういうところは認めてやる。
だからと言ってこれ以上アリアと仲良くするのは、ヒルダとしては面白くない。
幼い頃からずっと側にいるのだ。昔も今も、エインズワース家の使用人ではなく、姉妹のような間柄である。軽口を叩き合うのは当たり前で苦言や諫言は絶えず、主従関係は無いに等しい。それはそれで胃が痛くなるような話だが、しかし、故に、アリアのことは一番知っているのだ。
出会ったばかりのアジア人に理解などされてたまるか。
そんな怨念のこもった視線で睨みつけていると、聖は唇を噛み、顔を歪めた。
「何もしてないって言ってるだろ!」
「……っ!」
鋭く怒気を孕んだ声だった。思わずヒルダは首を縮める。
その声にシュタウフェンベルク邸に入る人たちがこちらを振り返り、不思議そうにダグラスたちを見やっていた。
すると聖はすぐに自分の言葉を顧みて、きまりが悪そうにそっぽを向いた。
「ごめん。大きな声出して」
「い、いや……私も悪かった」
こちらから逃げるように視線を外す彼にヒルダはつい謝ってしまった。
――やっぱりおかしい。
いつもなら笑顔で受け流す聖が今日はそれをしない。
すると聖はアリアに一瞥を投げかけたが、アリアは目を上げたかと思いきやすぐにすたすたと行ってしまった。
「む、んんっ?」
そんな二人を訝しく思っていると、側で聖が小さく息を吐いてこちらへ顔を向ける。不思議に思って、顎を上げると今度は笑顔を貼りつけていた。しかしその笑みは悲しそうだった。
聖はこほんと咳払いをしてから拙い英語で告げた。
「ダグラスさん、待ってる、……行こ?」
「あ、うん……」
英語を話せるのはアリアのおかげだろうか。それなりに伝わったヒルダは渋面のまま頷き、彼の隣を行く。彼の横顔は変わらなかった。
そんな顔をされたらますますモヤモヤするじゃないか。
ヒルダが心の中でぼやいていると、不意に彼が顔を向けてきた。
「なんだ」
「いや。言うの忘れてたけど、今日のヒルダさん……、綺麗……だよ」
「へっ?」
彼の口から可愛らしい単語が飛び出した。
ヒルダは素っ頓狂な声を上げて目を瞬く。今の言葉は明らかに自分に向けられたものだ。そう言えばさきほどこやつはスーツより良い、と言っていた。ヒルダはゆっくりと視線を下ろして己の姿を見つめて、再び聖に目を向ける。
彼は気恥ずかしげに笑みを浮かべていた。
顔に熱が帯びるのを感じたときハッと我に返った。
「……う、うるさいっ!」
ヒルダは怒鳴って、早足でダグラスを追いかけた。
***
シュタウフェンベルク邸の広間にはたくさんのテーブルが並び、真っ白なテーブルクロスの上には豪勢な料理が並べられている。客人は思い思いに料理や酒を口に運んでいた。エドワードの言う通り、英国人以外にも国籍の異なる人たちが招待されており、東洋人らしき容貌の人も見かけた。
「……シュタウフェンベルクさんって懐の大きな人ね」
はむ、と肉料理を嚥下してからアリアは言う。このような食事会に有色人種も招待している。寛大な人だとアリアは素直に思った。ふとそんなことを口にすると、右隣に控えるヒルダがささやいた。
「元々はプロシアの貴族だったらしく、領地を払い下げた資金で世界を巡っているようです」
「今はドイツっていう一つの国よ? ヒルダ」
「そんなことどうでもいいじゃないですか……。ともかく変わり者には変わりませんね。身分を捨てて旅行だなんて」
「いいじゃない。私も新大陸とか行ってみたいわ」
答えるとヒルダは不愉快そうにため息を吐いた。何がそんなに気に食わないのか知らないが、どうだっていい。アリアは手を止めて、左隣にいるもう一人の随伴者に声を掛けた。
「セイ、大丈夫?」
「え、あ、うん……なんとか……」
聖はナイフとフォークで料理と格闘していた。音を鳴らしてぎこちない動きで魚を切り分け、料理を口に運んでいく。
アジア人、特に日本人は食事でナイフなどの類を使わないようだ。箸という二本の細い棒で食事をするらしい。アリアからしてみれば棒二本でどうやって食べるのか不思議だが、日本人にとってそれが普通である。しかしエインズワース邸には箸というものがない。だから聖はナイフやフォークの使い方を勉強中であった。
聖はゆっくりと咀嚼しながら感想を言う。
「……美味しいね、なんて言う料理か知らないけど……というか芋が必ずあるのはなんで?」
「ドイツ料理はそういうものなの」
「あと、やっぱ冷たい」
「文句言わないの」
日本の料理は温かいものが多い。最初の頃、聖は複雑な顔をして洋食を食べていた。それとイングランドの味付けは口に合わないらしかった。別に不味いものでもないと思うが。
「そう言えばダグラスさんは?」
「お父様なら……ほら、向こう」
アリアはテーブルの端を指差す。そこには父のダグラスの他にも商人らしき中年男性が集まって、にこやかに食事をしていた。その中心に、この会合を開いた若き家主のミハエル・シュタウフェンベルクがいた。
ミハエルは、まるで絵画から飛び出してきたような美貌であった。
細身で長身。プラチナブロンドの髪は輝くようにさらりと流れ、切れ長の美しい双眸は湖面のように透き通って澄んでいる。挨拶のとき、客人の女性全員がうっとりと彼の端正な面を見つめていた。
息を飲むほどの美貌を持ち、歳も二十代後半で一人身、となればたくさんの求婚の誘いがあるだろう。
もしかしたら、ダグラスは今そんな話をしているのかもしれない。
「私、結婚する気なんかないわよ」
苛立たしげにぼやくとヒルダが同意するようにうんうんと首を振る。
「お嬢様のご意見を尊重すべきです。私はあなたの味方ですよ」
「ありがとうヒルダ」
「当然ですっ」
嬉しそうに料理を食べるヒルダを微笑ましく思い、ジロリとミハエルを眺めた。するとどうだろう、彼はこちらに気づいて目を向けた。
細められた怜悧な双眸がアリアを射抜くように見つめる。
「っ……」
アリアは驚いて固まってしまった。それは彼の綺麗な瞳に心を奪われたわけではない。肌が粟立つのを感じる。これは間違いなく恐怖であり、アリアは鳥肌の立った両腕を抱えたまま震えた。
そのとき視界に銀色が走った。左隣から飛んできたそれはアリアの視界を覆い、ミハエルが見えなくなる。振り返ると、聖がナイフを真っ直ぐと持ってミハエルを睨みつけていた。
「セイ……?」
怖いほど真剣な表情をした彼はミハエルを睨み続ける。
アリアが再びミハエルを振り返ると、彼は肩をすくめてにっこりと笑った。それから、何事もなかったように再び周囲の商人たちの話に耳を傾け始めた。
「……」
今、聖とミハエルの間で何があったのだろうか。まったく状況が掴めなかった。すると聖がナイフをテーブルに置いて苦笑した。
「ごめん。マナー違反だよね」
「い、いやそうだけど……」
困っていると聖が耳元でささやいた。
「あの男には注意したほうがいい」
「え? どうして……」
「陰陽師の勘」
「カン……?」
言葉の意味がわからなかったがそれ以上取り合ってもらえなかった。
聖はじっとミハエルの横顔を見つめていた。
「君かな、アリア嬢の従者は?」
会食も終わり、アリアが少し席を外したときミハエルが彼に声を掛けた。
それは訛りのある英語であったが、名指しされたことに気づいた聖が顔を上げる。わずかに細められた漆黒の瞳がミハエルを睨めつけた。
「……何か」
聖は椅子から立ち上がって毅然とした態度でミハエルに向かった。側で、ヒルダが何事かと眉を上げ、ダグラスが不安げに二人を見合った。
「ふむ……。君はニッポン人なのか」
ミハエルはしなやかな指先を顎に当て、薄く笑う。それからは聖にもわかるように日本語で話し出した。
「神戸には外国人を護衛する日本人がたくさんいる。君もその一人なのかな?」
「彼は私が雇いました」
ダグラスが慌てた様子で口を挟む。二人の間に流れる不穏な空気を感じ取ったようだ。
「娘は好奇心が旺盛でニッポン人とも仲良くなりたいと……娘も気に入っているようですし……」
「そうですか。なら君は、姫君を守る騎士と言ったところだね。いや、ニッポンで言うとブシ、サムライだな」
「俺は武家の生まれじゃありませんから違いますよ」
淡々と答える聖に、ミハエルは左手にあるワイングラスを揺らす。グラスの向こうに映る彼の表情はにこやかで変わらなかった。
「それでも護衛をする身には変わらない。きっと武芸の腕も確かなのだろう」
「何が仰りたい?」
ミハエルが口角を上げ、ワイングラスをテーブルに置いた。
「だからさきほど、私にナイフを向けたのかい?」
いつの間にか、ミハエルの左手にはテーブルナイフが握られていた。ヒュッと空を裂く音が聞こえ、テーブルナイフの刃が聖の胸元でぴたりと止まった。
「旦那様っ……」
片づけをしていた給仕と客人の悲鳴が耳に響く。しかし聖は微動だにせず、自身に向けられたナイフを見つめていた。そして肩をすくめる。
「俺があなたにこれを向けたのは事実ですが、仕返しをするのが西洋人の礼儀ですか?」
するとミハエルは笑って、ナイフをくるりと回した。
「いやなに。あまりにも殺気立ったものを感じたから、ついやり返したくなったんだ」
「ご満足いただけましたか」
「うん、面白かった。もう少し動揺してほしかったけどね」
「無茶をおっしゃ――」
「ダメッ!」
そのとき二人の間に割り込んだのはアリアだった。
アリアは、慌てて聖の腕を引っぱってミハエルの前に飛び出した。その拍子にテーブルにぶつかって物が散らばる。
驚く聖に目もくれずアリアはミハエルを睨みつけた。
「シュタウフェンベルク様、私の家の者が何か致しましたか?」
硬い声音で尋ねる。
アリアは焦っていた。戻ってきたらミハエルが、聖にナイフを向けていたのだ。
聖は大切な友人だ。彼が何をしたか知らないが、いきなり刃物を突きつけるなんて横暴だ。アリアは聖を背中に庇うような格好となって、険しい表情でミハエルを見つめる。
するとミハエルはくっと吹き出して白い歯を見せた。
「アリア嬢、少し落ち着かれては? そう怖い顔をされてはせっかくの美貌が台無しです」
「質問に答えてください。私の……セイが、何か致しましたか?」
「いえいえ、ただの戯れです」
「戯れ?」
ミハエルは左手にあるテーブルナイフをもてあそぶ。
「ええ。貴女と目が合ったときの、彼の忠義は素晴らしいものだと思いまして。……ニッポン人は礼節を重んじ、勤勉であると聞きます。ダグラス殿は素晴らしい方をお雇いになった。少々度が過ぎてしまいましたが」
おどけた素振りにアリアはますます腹が立った。
「確かにあのときはこちらに非がありますが、だからと言って彼にこのような振る舞いが許されると?」
「アリア嬢がそこまで仰るのなら……。申し訳なかった」
ミハエルは打ちひしがれた様子でうなだれ、ゆっくりと聖に頭を下げた。突然謝罪されて聖は困っている様子である。そしてダグラスはアリアに叱責の一言を入れ、ミハエルに謝罪していた。
「……我の強い娘で申し訳ない」
「私も意地悪が過ぎました。面目がありません」
それから、ミハエルは再びアリアに目を留めた。
視線に怖気づいてしまう。さきほどみたいに変な汗が背中を伝い、思わず側にいた聖の袖を掴んだ。ミハエルは悲痛そうに顔を歪め、アリアの腕を指す。
「血が」
「……あっ」
指摘されてやっと理解した。アリアの左手は手袋が破けていて、じわりと赤い点が滲んでいた。血液を見てアリアは少し驚いただけだった。さっき食器か何かにぶつかって皮膚を裂いたらしかった。
「大丈夫です、この程度……」
「お嬢様がっ……け、けけけっ怪我っ!!」
怪我をした本人より動揺をしたのはヒルダだった。零れるくらい目をひん剥き、なぜか聖を睨んでから広間を飛び出した。
「医者を呼んで来るっ!」
そう言い捨ててヒルダは消えた。
「まったくあの子は……」
「面白い方ですね。彼女に救急箱の場所を教えてやれ」
ダグラスが頭を抱え、ミハエルは苦笑しながら給仕に命じた。
アリアは呆れて物も言えなくて、ただ恥ずかしかった。
「大声で言わなくって私は平気よ……」
「そんなことはございません」
顎を上げるとミハエルが柔らかな微笑みを浮かべてこちらへ歩み寄る。呆然としているアリアは黙って彼を見上げていた。
「女性に生傷などあってはなりません。貴女の従者は貴女のことを大切に想っているのですよ」
「そうだけど……」
それでもヒルダのリアクションは大げさすぎる。たかが切り傷ぐらいで大騒ぎしないでほしいのだ。
「それにこの傷は私が要因です。私も責任を取りますよ」
ミハエルは床に膝をついた。
なんだろうとアリアは眉をひそめる。謝罪の言葉はもう飽きた。何度謝られても腹の虫はおさまらないし、聖への態度は気に食わない。
しかしミハエルは綺麗な笑顔を崩さず、アリアの手を取り、血に濡れた指先を舐めた。
「……」
思考が止まった。いや、時間までもが止まった気がした。
広間にいる客人たち――ダグラスと聖も含め――は息を飲み、唖然と大きく口を開けて、美青年の突然の奇行を見つめていた。
しかしそんな視線もミハエルは意に介さない。ゆっくりゆっくりと溢れるアリアの血を舐め取る。そして舌なめずりして唇を三日月のように歪めた。
「ん……さぁ、これで綺麗になりましたよ」
「……」
驚きすぎて言葉が出ない。
固まるアリアなど無視してミハエルは動く。柔らかく握った小さな手をハンカチで丁寧に拭き取り、何かあるのかまじまじと見つめて熱い息を漏らした。
「これは……」
何か呟いたが他人には聞こえない。それからミハエルは笑顔のまま、何事もなかったように立ち上がり、客人たちに両腕を広げた。
「皆様、今宵は楽しんでいってください。このパーティーは他国人との交流が目的です。各人の繁栄、延いてはニッポンの発展のために、私も微力ながら支援させていただきます」
ミハエルは最後まで美しい笑顔を崩さなかった。
「な、なんだったの……?」
室内が喧騒に包まれる中アリアは呟く。
心臓が早鐘を打ち、妙に身体がぽかぽかと暖かく感じた。
指を舐められた――その事実になぜか嫌悪感はあまり無かった。それは彼が好青年などという無邪気な理由ではなく、何かが胸中を掻きむしるような感覚に襲われたのだった。
アリアは両手を胸の前で握り締めたとき、聖がこちらの顔色を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
彼の真剣な形相と漆黒の瞳を目にして、気持ちが落ち着いた。
***
「落ち着いた?」
「うん、ありがとう」
アリアは広間の端にある二、三人掛けの長椅子に腰かけていた。側には聖が心配そうにこちらを見つめて立っている。
父のダグラスは、ミハエルと話があると言って行ってしまい、ヒルダはそれについて行った。ヒルダはアリアの側に居たかったらしいが、ダグラスの側にいるには英語が必須である。英語を理解できない聖が付き添っても得は無いのだ。これからは仕事の話も少しずつ出てくることだろう。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
くぴ、と聖が持ってきた水の入ったグラスを傾けると、聖が真剣な面持ちを向けてくる。手すりから乗り出せば距離はゼロに等しい。鼻の頭がくっつきそうな距離に、アリアはグラスに口をつけたまま目を見開いた。
「……う、うん。大丈夫よ」
思わず英語で答えて目を逸らしてしまったけど許してほしい。こんなにも近くで彼を見つめ返すことなんて恥ずかしくてできない。照れ隠しをするつもりで水を飲むが、グラスの中はほぼからっぽだった。
「そう……。ならよかった」
やがて聖は安堵の息を吐き、壁にもたれかかる。
「気に食わないな、あいつ」
苛立ちのある低い声音で彼は毒づいた。何やらものすごく怒っている様子。
「ふざけるのも大概にしろ。あいつがあやかしならすぐさま滅してるところだ。そうじゃなくても今すぐ半殺しにしたい」
「セイ、怖いよ……」
「それとも慣習か何かか? 西洋じゃああれは当たり前なのか」
「あ、いや……親愛の意味で手にキスする人はいるけど……、普通いないわ」
舐められたのは初めてだ。思えばどうしてあのとき自分はぼーっとしていたのだろう。何もしなかった自分が恐ろしくて背筋が凍る。
そしてアリアははたと気づいた。
「……怒ってる?」
「当たり前じゃないか」
聖は即答した。
「俺は君を守るって約束した。それは霊魂に限らないし、もし君に何かあれば俺は必ず助けに行く。その気持ちは、ヒルダさんにも負けてないよ」
力強い返答に、胸が熱く締めつけられた。気恥ずかしい気持ちもあるがそれ以上に彼にそう言われるのはすごく嬉しい。
「ありがとう、セイ」
「え……う、うん……」
礼を言うと聖は照れくさそうに目を逸らして、ごほんとわざとらしく咳払いをする。
「今さら聞くけどエドワードさんはなんで一緒じゃないの?」
「あー、留守番もあるけど、侍女と一緒かな」
無理に話を変える彼を可笑しく思いながらアリアは答えた。
「一緒?」
「二人、仲良いの」
「仲が良い? ……あー、なるほど」
聖は何やら理解できたようだ。こんなとき日本語でどう表現すれるのかアリアにはわからなかった。
侍女のメアリーと、エドワードは浅はからぬ仲らしい。普段はそんな雰囲気を微塵も感じさせないが、たまに二人でどこか出かけるのを見かける。
「へー、あの人もやることはやってんだね」
彼の淡白な口ぶりにアリアはくすっと笑ってしまった。すると聖も微笑する。
「少しは元気出た?」
「え?」
「ずっと元気ないみたいだったから。俺のせいかなって考えてた」
「えっ、それは違う、絶対」
眉尻を下げる聖に、アリアはずいっと身を乗り出して答える。
「私の方こそ、ごめんなさい。勝手に部屋入って」
「気にしてないよ。俺のことより、アリアの気持ちが気にかかる」
「私の?」
聖は首筋を撫でながらきまりが悪そうに、それでもアリアを真っ直ぐと見つめて言う。
「いろいろと、人に見られるのは初めてだったから焦ったけど、それよりも、霊魂が視えるのははっきり言って良いことじゃないし、怖がるのは目に見えてる。だから、君がどう思ってるのか知りたい」
――そんなこと、決まっている。
アリアはにっこりと笑った。
「私は、セイともっと居たいし、イヅナとももっと仲良くしたい」
すると聖は一瞬面食らった様子だったが。
「そう言ってくれるのはすごく嬉しい」
聖は弾けるように明るい笑顔を見せた。
アリアも笑みを返したとき、ふと彼の背後で何かが目に映った。広間の一面は庭に向かうバルコニーが広がっていた。その庭先、ガラス窓の向こうにぼんやりと人が立っていた。
「セイ、あれ……」
「なに……?」
指差す方向に聖が振り返ると目を剥いた。
「見ちゃ駄目だっ」
「わっ!?」
突然視界を塞がれた。視界が真っ暗になってびっくりするが、聖はアリアの目の上に手を乗せたまま、小さく呟く。
「ヒトじゃない。悪霊になってない……まだ大丈夫か……」
しかし聴覚は生きている。アリアは耳を澄ませて聖の言葉を聞いていた。やがて聖が手を離してくれて視界が明るくなる。ぱちぱちと目を光に慣らしてから聖を見上げると、彼は真面目に顔を引き締めていた。
「アリア。少し席を外すから、ダグラスさんに言っておいてくれないか」
「……行くの?」
訊ねると聖が固まった。わずかに見開かれた瞳は躊躇うように揺れ、口元が言うか言わずか悩むように、ほんのわずかに開かれた。
そんな表情にアリアは胸が痛んだ。聖を悩ませる原因は自分にある。彼は陰陽師の職務を全うするのみで、部外者に口を出される謂れは毛頭無い。辛そうな彼を見るのは御免だ、だからアリアは謝ろうと頭を下げた。
「あの、ごめんなさ……」
「いいよ」
「えっ」
その承諾の言葉は聞き違いではない。がばっと顔を上げると、聖は微苦笑を浮かべていた。
「アリアには敵わないからな……。それに、君は俺のことを煙たがらないでくれる。そんな人そうそういないから、正直嬉しい」
「いいの?」
「行きたいんでしょ?」
そして手を差し伸ばす。
「約束は違えない、俺は必ず君を守るから……行こうか」
「うんっ」
アリアは彼の手を取り、立ち上がった。




