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20・自覚(ジーン)



 実家に顔を出した以上、軍の方にも顔を出さないわけにもいかず、そうなると必然的にあれこれ都合よく仕事を押しつけられてこき使われることになる。ジーンは元上官たちの人使いの荒さに少々うんざりとしていた。


 だからと言って断れないのが、ジーンだ。自分が手を貸さなかったことで問題が起き、後々後悔することになるくらいなら、今できる限り手を尽くしておくタイプである。そしてなにより、軍には恩があった。


 そのせいで、少しの間だからとイザベラを実家に残して出かけたのは朝だったはずなのに、思いのほか帰宅するのに時間がかかってしまった。 


 だが、安全な実家なら少し離れていても問題ないだろう。


 そう油断していたからこそ、帰り着いた直後にリリーベルからその報告を受け、激しく動揺してしまったわけだが。


「ベラが、いなくなった……? なぜですか」


 この屋敷に出入りできるのは、公爵家に忠誠を誓った人間だけだ。その多くが戦闘訓練を受けた諜報員などの隠密部隊である。だから外部から屋敷に侵入されて連れ拐われることなどほぼあり得ない。昔雇った護衛にジーンが害されたこともあり、そのあたりは徹底している。


 そうなると可能性はひとつ。


 自ら出て行った、ということになる。


「もしかして、なにか言いましたか?」


 姉は少々物言いがはっきりとしているので、意図せず相手を傷つけることがままある。わざと傷つけている可能性も少なからずあるが。


「あの繊細そうな子をいじめるほど、わたくしは悪趣味ではありませんよ。お話はしましたけれど、この前みたいに泣かせたりはしていないもの」


「ですが、理由がなければ出て行ったりしませんよね? まさか……」


 自分との結婚が嫌で逃げたのだろうか。


 結婚するかと聞いたとき、イザベラは理解が追いつかなかったのか、答えることなく疲れもともない気を失ってしまったが、実はあれは拒絶反応を起こしての失神だったのだろうか。


 結婚しても一緒にいられる時間は限りなく短い。ジーンが割り切って彼女を連れて動ければいいが、その勇気が出ない以上、置き去りにせざるを得ないこの状況で、自分の妻になりたいと思う人などいないだろうことは承知している。


 わかっていても少なからずショックだったのは、自惚れが過ぎたせい。


 なにも告げずにいなくなるほど、断りにくかったのだろうか。


(……いや、まだそれが原因とは決まっていない)


 結婚が嫌で逃げ出すのなら、朝話しかけたとき、もっと嫌そうな顔をしていたはずだ。


 少しだけ気を持ち直し、再び姉へと疑惑の目を向ける。


「どんな話を?」


「セシルのことや、うちのことを、少し。そう言えば……ジーンをどう思っているのか訊かれたから、もちろん愛しているわと自信を持って答えたら、なぜかその後から様子がおかしくなってしまって……」


「……どう考えてもそれが原因では?」


 ジーンは髪をかき乱してため息をつくと、脱力して椅子に座り込んだ。


 彼女はきっと、姉がジーンのことを男として愛しているのだと誤解したに違いない。


「愛しているのに、愛していないと嘘はつけないもの」


 ジーンとしても姉と同じように、人として好ましいと思えば好きだと好意をそのまま伝えるタイプの人間だが、せめて、『家族として』とつけ加えておいてほしかった。


 そのあたりを省いたせいで、誤解して揉めた夫婦だっているのだ。


 ジーンとて、姉のことを愛しているかどうかと問われたら、もちろん愛していると答えるが、それは家族としての愛情であり、姉を姉以上にも以下にも見たことはない。


 もしかして、わざとだろうか。この姉のことだ。誤解するとわかっていて、あえて重要な箇所を隠した可能性まである。


 こんなことなら、実の姉弟でないことをもう少し伏せておけばよかった。


「心配しなくても、あの子には最初から監視をつけてありますよ」


 客人に監視の目がついて回る点に関しては少しだけ思うところがあったが、今はよかったと素直に思った。


 しかしこうして姉と、彼女が出て行った理由を悠長に議論している暇はない。彼女は話すことができないのだ。ひとりで外を出歩くなど、どう考えても危険過ぎる。


 ここにいれば安全だと思って慢心していた自分の落ち度だ。自ら出て行くことを想定していなかったのだから、愚かとしか言いようがない。


 もしかして、刷り込みされていたのは自分の方だったのだろうか。あの子は自分のそばから離れないだろうと、根拠もないのにそう信じ切っていたのだから。


 いつだって、雛鳥は親が目を離した隙に巣から落ちているというのに――。


 そう考えたら急速に焦りが増してきた。いくら彼女に監視がついていると言っても、彼らはなにか起きても報告するだけで、困っていても救いの手を差し伸べてくれるわけではないのだ。


 家族ならば遠く離れた場所にいても元気に過ごしているという確かな安心感があるのに、イザベラが目の届かない場所にいると思うだけで、もう不安でたまらなくなる。


「なぜ引き止めてくれなかったのですか」


 八つ当たりとわかっていても、そう言わずにはいられなかった。


「あの子の行動を制限する義務も権利も、わたくしにはないからですよ。それは誰にもない。だって他人ですもの。それはもちろん、あなたにも言えることだけれど」


 ぐっ、とジーンは押し黙る。正論だ。姉を非難するのはお門違いだった。


「それが家族と他人との違い。家族は離れていても家族だけれど、他人はそうではないの。あなたは人のことをわかったつもりで、実はなにも理解できていないのかしらね?」


「そんなことは……」


「子供じゃないのだから、好きにさせてあげなさい。……それともなあに? 自分が仕事だからとあちこちに出歩いている間、あの子を軟禁でもしておく気だったのかしら?」


「まさか。外出するにしても、ディノとクレアが付き添ってくれれば安心だと」


「それは今の状況と、なにが違うの?」


「え?」


「あのふたりはあなたが軍に入る際に一緒に従軍させて、今でこそあなたの忠実な部下だけれど、元々はうちの子飼いだったでしょう? 今あの子を監視している彼らの元同僚で、我が家の忠義者たちよ。それなのに、なにが違うの?」


「いや、違うでしょう、彼らは。ベラとも打ち解けていますし、彼女が助けを求めたら、きっと進んで手を貸してくれます。だから全然、違いますよ……全然」


 言いながら、なにが正しくて、間違っているのか、わからなくなった。


 ジーンは立ち上がって、落ち着きなく歩き回りながら思案する。


 もし今ベラを監視している彼らが、彼女が困ったときに通りすがりの親切な人のふりをしてさりげなく手を貸してくれる、そんな保証があったのなら、自分はここで安心して待っていられる。……そのはずだ。


 姉がひと言伝えれば、彼らはその通りに動くだろう。今や我が家の暗部のほとんどが姉の管理下にあるのだから。


 道に迷ったら導き、傷つけられそうになったら庇い、泣いていたら慰める。それくらい容易いことだ。


 ジーンの代わりに、そうやって彼女を守ってくれる。なんの心配もいらないはず……なのに。


 それなのに自分は、どうしてこうも安心とは程遠い感情で、忙しなく室内を右往左往しているのだろう。


(……ちょっと待てよ?)


 よく考えたらうちの諜報員たちは、圧倒的に男が多い。しかも若い男だ。イザベラと同年代の少年だっている。


 毎回手を貸しているうちに、それを運命だと錯覚し、互いに好意を持たないとも、限らないのではないか。


 じわりと手のひらに嫌な汗がにじんだ。


 そんなことは、正直、考えたこともなかった。


 彼女はまだ若い。これから先、誰かと恋に落ちることだって、あるだろう。いや、絶対にある。


 その可能性をなぜ考慮しなかったのだろうか。


 それなのに自分と結婚していたら。それはもう、障害でしかない。


 そもそも自分はなぜ、結婚しようと思っていたのだろうか。


(…………そうだ。ベラが自分と離れることを、不安そうにしていたからだ)


 だけど今、不安なのは間違いなくジーンの方だった。


 離れていれば大丈夫だと思えたのは、庇護してくれていた両親や姉相手だったからなのだと、今さら気づいた自分に呆れるしかない。


 どれだけ遠くにいても、彼らならば元気に暮らしているだろうという確信があったからこそ、安心して国中を飛び回っていられた。


  だけどあの子は違う。


 なぜこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。


 形だけの結婚をして、名誉だけ守った気でいて、自分と一緒にいない方が安全だと離れて、はじめて、自分の愚かさを思い知ったのだろうか。


(バカか、僕は……)


 なにが離れている方が安心だ。


 少し離れただけでこんなに不安でたまらないというのに。


 怯えていないか、傷つけられていないか、寂しがっていないか。……自分以外の男と親しくしていないか。


 考え出したらきりがない。一日中そんな不安を抱えて気もそぞろで、仕事どころの話ではない。


(だめだ。恥ずかしくて、顔が熱くなる)


 片手で顔を覆うが、姉はすべて見透かした顔でこちらを見ている。慌てて背を向けた。


 どうやら自分は、庇護した瞬間から、無自覚に彼女を自分のものだと思い込んでいたらしい。


 というか自分は、保護しているつもり、囲っていたのだろうか。


 実家に帰さず、誰にも会わせず、家族に紹介までして、外堀まで埋めて。


 誓って下心はなかった。


 本当に守っているつもりだったのだ。


 今の、今までは。


 しかし……こんな自分でも、人並みに独占欲はあるらしい。


 そして案外、狭量なのかも。


 そう気づけただけでも重畳だ。


「……姉上」


「なあに?」


「ひとつ……質問しても、構いませんか?」


「どうぞ?」


「姉上が僕のことを家族として愛していると言ったとき、ベラは本当はどんな様子でしたか?」


「少し目を見開いて、固まっていたわね。傷ついたのかしら、少し目を伏せて……」


 一度目を閉じ、想像してみた。彼女はなにを思っただろう。その場にいたら手に取るようにわかったのに、見られなかったのが残念でならない。


「わかりました。迎えに行って来ます。彼女はどこに向かっていますか?」


「…………」


「姉上」


 焦れるジーンに、姉は頬に手を当ててため息をついた。


「……ルーゼット侯爵家よ」


「……え?」


 予想外の場所に、一瞬思考が止まる。


「あの子にとっては、家ね」


「家、に……?」


「そう。家に帰ったの」


「なぜ……?」


 普通ならば家に帰ったと聞かされても、そうなのか、と思うだけだが、彼女に関しては違う。


 自分の家なのだからいつ帰っても他人が咎めることではないが、彼女にとって、家というのは、逃げたくなるようなつらい場所なはずではなかったのか。


 ほかの場所ならどこでもよかった。迎えに行く理由があるから。


 だが、実家。


 迎えに行くことが果たして正しいことなのか、わからない。


 ジーンは途方に暮れた。助けを求められたわけでもないのに、保護者ぶった他人が、出しゃばっていいものなのか。


「ねぇ、ジーン」


 声をかけられて、顔をあげる。


「ひとつ質問してもいいかしら?」


 さっきとは立場が逆だなと苦笑しながら、どうぞ、と促す。


「あなたはあの子のことを、愛している?」


「愛していますよ、もちろん」


 口に出したら思いがけずしっくりと来た。


 今までよく認めずにいられたなと思う。


 姉はふんわりと微笑んでから、さも今思い出したかという風に軽く手を打った。


「ああ、そうそう。出て行ったのは自分からだったけれど、家に向かったのは、無理やり連れて行かれたからでしたね」


「っ、そういうことはもっと早く言ってください!」


 血相を変えて飛び出すジーンの背中に、くすくすとした笑い声が聞こえてきた。


 しばらく揶揄われ続けるだろうが、今は構っていられなかった。





 実家を出てジーンが最初に向かったのは、ルーゼット侯爵家……ではなく、自分の屋敷だった。


「ジーン様? どうされたのですか?」


「あら、ベラ様は?」


 ディノとクレアの質問に短く答えて、寝室へと向かう。クローゼットを開いて中を漁りながらディノへと問う。


「例の件、調べてくれた?」


「ええ、もちろん。さすがジーン様と言うべきか、想像の通りでしたよ」


「ありがとう」


 微笑みながら礼を言い、目当てのものを取り出したジーンは、クレアを振り向いた。


「きみが褒めていた礼服。着てあげるから、かっこよく仕立ててくれる?」


 クレアは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに破顔して嬉々としてジーンに従った。



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