悪意のない楔
ふと観客席を見ると、先ほどまでいた雪男の姿が見当たらない。
「あら、雪男さんはどうしたのかしら?」
「たぶん、正面ホールだと思う」
其処で待ち合わせをしていると小羽が言うと、紗夜はなら着替えましょうと小羽を促した。
楽屋に入り、いつも通り紗夜にメイクを落としてもらってドレスから普段着へと着替える。そのあいだも、まだ残っていた僅かな団員がなにやら言いたげな表情で、チラチラと小羽たちへ視線を送っているのを鏡越しに感じていた。
「なにかしら?」
紗夜が率直に尋ねると、それぞれ顔を見合わせてから、いま此処にいる中で最年長の女性団員が口を開いた。最年長と言っても二十三歳で、帰宅している人を含めたら中程の年齢である。
「小羽ちゃん……本当にあの人とお付き合いしてるの?」
「えっ、あの人って……雪男さんのこと?」
気まずそうに頷くと、別の女性が引き継ぐように続ける。
「私らの中には彼氏や旦那がいる人もいるけど、フリーの人だっていたのに、あなたに押しつける形になっちゃったの、申し訳なくって」
「アイツじゃないけど、お金をチラつかせて女の子を釣ろうとするなんて……って冷静になったらとんでもないことを小羽ちゃんにさせちゃったなって……」
「団長さんは、解散しても別のところでやり直せるって言ってくれたから、無理しなくても……」
「無理なんてしてないですよ」
年長の団員たちの言葉を遮って、小羽は明るく答えた。その声は、無理して繕っているようには聞こえず、団員たちはまた顔を見合わせる。
「雪男さんはとてもいい人です。それに、お金でわたしを留めようとするつもりなら、劇団のことだけじゃなくそのあとだって、いくらでも見せつけることは出来たと思うんです」
「彼は、そうはしなかったのよね」
「うん」
小羽の肩を抱き、紗夜は優しく促す。
「先輩方は、わたしが避けてた理由をよく知ってると思うんですけど……あの公園に、彼と行ってきました」
小羽の言葉に、団員たちが小さく息を飲んだ。此処にいる女性陣は、小羽に執着し凶行に及んだ男の常軌を逸した有様を、嫌というほど味わっている。たとえそれが、自分に向けられたものではなかったとしても、恐ろしかった記憶は未だに残っているのだ。
「だ、大丈夫だったの……?」
「はい。一面に広がる青々とした芝生も、夕焼け空のような紅葉も、とても綺麗で、一緒に時間を過ごしただけでしあわせでした」
恋するヒロインを演じたときでさえ見せたことがないような、うっとりとした表情で、デートの記憶を語る。その様子に世辞らしさはなく、心からの幸福なのだと団員たちも理解した。
「……見た目によらないってことなのかな?」
「ていうか、見た目で損してる人なのかもね……うちらも、凄く警戒しちゃったし」
小羽がしあわせそうならと、団員たちは僅かに認識を改めた。
まだ純粋な少女が騙されている線を疑っている節も無きにしも非ずだが、其処は本人の目の前で言ってやることでもないと、誰も口にはしなかった。




