穏やかな野獣
着替えを済ませ、鞄を肩にかけて正面ホールに戻ると、長椅子に腰掛けていた雪男が顔を上げ、ゆっくり立ち上がった。
紗夜は「先に帰るわね」と言って小羽の背にそっと手を添え、小声で大丈夫よと囁いてから外へ出て行った。
「お待たせしてすみません」
「いえ。ホールを鑑賞していましたので……」
この建物は上等な大理石で出来ており、劇場の顔の一つでもある正面ホールには、様々な彫刻が立ち並んでいる。舞台へと続く通路は緋色の絨毯が覆っていて、壁には絵画も飾られている。上を見上げればシャンデリアが輝き、バロック様式を参考にした内装は正面ホール以外も彫刻や絵画がインテリアの一部として飾られている。
海外のバロック建築と異なるのは、宗教的モチーフの装飾ではなく、演目の登場人物や場面等を再現したものが飾られていることだ。難しそうな芸術だと思って見向きもしなかった子供たちが、舞台を見たあとでは一変して目を輝かせて食いつく様を、小羽は何度も見てきた。
「……私は、この劇場が好きなんです。ただでさえ災害の多いこの国で、こういった作りの建物が残ることは稀ですので……残せるものは残したいと、そう思っています」
高い天井を見上げて、雪男が想いを吐露するのを、小羽はじっと聞き入った。
やはり彼はとても優しい人だと、小羽は思った。大金や劇場救済を交換条件になどしなくとも、きっと素敵な人と出会えるだろうと思う。ただ、そんな彼が、他に誰も立候補しなかったからとはいえ自分を選んでくれたのなら、後悔させたくないとも思った。
「うれしいです。わたしも、此処が好きです。お父さんや家族と過ごした大切な場所なので……」
小羽は雪男に倣ってホールを見渡すと胸元で両手を握り、夢を見ているような口調で語った。
「それに、舞台を見てくれた子供たちが、彫刻のお姫様や王子様に手を振って帰っていくのを見ていると、舞台だけじゃなく劇場全てが物語の世界なんだって思うんです」
「素敵な、考えですね……」
ぼそりとした声だが、どこか優しさを孕んだ雪男の言葉に、小羽ははにかみながら「ありがとうございます」と微笑んだ。
「あ……ごめんなさい。連絡先でしたよね」
慌てて鞄からスマートフォンを取り出すと、雪男とチャットツールのIDを交換した。
動作確認も兼ねて、至近距離ながら一言送ってみる。と、雪男からはビックフットを可愛らしくデフォルメしたスタンプに「OK」と描かれたものが返ってきた。
「ふふ。可愛いですね」
「……名前と、同じものがあったので……」
微笑ましい気持ちになりながら、指先でそっとスタンプをなぞる。
チャット画面を閉じて鞄にしまい、小羽は雪男を見上げた。
「今日はありがとうございました。日月さんのお陰で、少しだけ劇団の未来に希望が持てるようになりました」
「それはなによりです。では……」
一礼して去って行く背を見送ると、小羽は劇場の裏手に回り、帰宅した。




