85 百足蟹の蒸し焼き3[食材:ユグロッシュ百足蟹]
「色はまさしく蟹ですね!」
料理人の元に速足で近寄ったケイオスさんが、クルンと丸まった状態で蒸し焼きになった百足蟹に鼻を近づける。体長二フォルンくらいの百足蟹なので、まだ爪や脚はそこまで立派ではない。それでも、普通の蟹と比べると二倍ほどの太さがあった。
「ん? この団子状のものはなんだ?」
アリスティード様が、元々毒の尾があった場所を指し示した。私の元に届いた際にはすでに毒袋ごと尾を切り落としてあったので、下処理の時に穀物粉を少量の水で練ったもので栓をしておいたのだ。
「火を通すと旨味成分が殻の中に溢れ出てきます。それをこぼさないようにするために塞いだのです」
「なるほど確かにな。汁がこぼれてしまえば中の身もパサついてしまうというわけか」
「さすがはメルフィエラ様。調理の知識まで網羅なされておられるとは」
「ありがとうございます、ケイオスさん。そう言っていただけると、母のやってきたことは間違いではなかったのだと思えて嬉しいです。私の知識のほとんどは、母の研究資料から得たものですから」
魔物の棲息地や特徴、毒の有無に調理方法など。マーシャルレイドの領地内のものは自分で確かめることができたけれど、その土地固有の魔物については想像するしかなかったのだ。ユグロッシュ百足蟹も固有種なので、こうして実際に目にする機会に恵まれたことは、私にとって奇跡に等しく、とても貴重なことであった。
私は、料理人が百足蟹を手際よくバラしていく過程をアリスティード様と一緒に見守る。百足蟹は長いので、まず頭と爪や脚を取り外して胴体だけにする。頭から三節目までに心臓や主要な内臓が詰まっているので、そこの部分の甲羅は異様に硬く刺々しい。
「姫様、とりあえず頭を開けてもよろしいですか?」
「はい、もちろんです!」
料理人に聞かれ、私は勢いよく頷いた。頭部は蟹でいうところの一番美味しい部分だ。節の部分に太い刃物を入れて上から叩くようにして切った後は、甲羅と腹部分のつなぎ目から指を入れて、力任せにばかりとこじ開けていく。
「ふんぬっ!」
料理人の掛け声に、私もアリスティード様もケイオスさんも前のめりになった。周りには幾重にも人集りができて、木の板の上に置かれた赤い百足蟹に誰もがごくりと喉を鳴らす。メリメリと甲羅が軋む音がして、料理人の腕に力が入ったところで濃厚な磯の香りが鼻腔をくすぐった。
「はぁぁぁ……見てください閣下、メルフィエラ様っ! 素晴らしい、この香り……ああっ、これが蟹の肝ならぬ、百足蟹の肝!」
「真ん中にあるのが心臓か? やはり魔物だな、類を見ない大きさだ」
ケイオスさんが興奮した声を上げた横で、アリスティード様が別の視点から百足蟹を見ていく。頭のすぐ下の二節目の甲羅の裏には、分厚い肝の層がくっ付いていた。その真ん中に手のひらくらいの大きさの平たい心臓が付いている。
「えっと、蟹と同じではないとはいえ、心臓とか胃とか腸は廃棄した方がいいと思います」
「わかりました、姫様。肝の層だけを残して他の内臓は捨てましょう」
毒などの有害成分はきちんと下処理の過程で排除しているけれど、食べない方が無難な部位もある。その他の微妙な部位は後からきちんと吟味してみるとして、せっかくの百足蟹の味を台無しにしたくはなかった。
ほかほかと湯気を上げる百足蟹の内臓が、料理人の手によって素早く丁寧に取り除かれていく。巨大なエラもきちんと剥がされて、あっという間に甲羅の中には肝と身だけになった。
「よし、完璧です。で、誰がお毒見を?」
「「「「「「はい‼︎」」」」」」
ケイオスさんを筆頭に、待ち構えていた騎士たちが一斉に挙手をする。「それはもう毒見とは言わないのでは」という料理人の呟きを無視するように、どこから持ってきたのか木の匙を持った皆が百足蟹に向かって手を伸ばした。
「あっ、ちょっと、ケイオス補佐邪魔ですっ!」
「しっ、しっ、散りなさい! これは私の百足蟹ぃぃぃっ」
「うめぇぇぇっ‼︎」
「こらっ、抜け駆け禁止」
「早いものがちっすよ、お先に!」
「ゼフ! 貴方ねぇ、一体どこから」
「なんだこれ、蟹か? いや、百足蟹か。でもなんだこの旨味は」
「俺、頑張ってよかったぁぁぁっ!」
我先にと毒見をする騎士たちの楽しそうな姿に、私はホッと息をはいた。ある程度魔物食に慣れてきたミッドレーグの騎士だけではなく、ユグロッシュ砦や東エルゼニエ砦の騎士も交じっている。詳しい味を聞かなくても、その美味しさはよく伝わってきた。「なんと深い味わい」と言った先から次々と肝を掬っては口に放り込んでいくケイオスさんは、目をキラキラと輝かせていて、本当に幸せそうな顔で。私も見ているだけで幸せをお裾分けしてもらえたような気になってくる。
「メルフィ、よかったのか?」
すると、毒見に参加しない私に、アリスティード様が遠慮がちに声をかけてきた。
「あんなにいい顔を見たら私だけ毒見をするわけにもいきませんもの」
「いや、そうではなくてな……百足蟹は、母親との思い出の味なのだろう?」
確かにそうだ。私はルセーブル工房でアリスティード様にそう言って、無理を承知で討伐に連れて来てもらったのだから。私はアリスティード様に向かって微笑むと、騎士たちが群がっている場所から少し離れたところに置かれている百足蟹の脚を指差した。
「ふふふ。実は、私の思い出の味は脚肉でして。肝は子供の味覚にはあまり好みではなかったようで、私の記憶に残っているのは、この太くて立派な脚と爪なのです」
指三本分の太さはあろうかという脚を吟味して、私はその端に料理人から借りた刃物を入れる。そのままトントンと刃物の背を叩くと脚が縦に裂けた。その半分をアリスティード様に手渡し、私は木の匙を構えた。
「匙が必要なのか?」
「百足蟹は蟹とは違って身離れが悪いんです。ですからこうやって、匙でこそぎ落とすようにして……んんっ!」
少しはしたないけれど、脚の端に口を当てて、こそいだ脚肉を一気に口に入れる。すると、口の中いっぱいに百足蟹の香りと甘味と塩味と、とにかく凝縮された濃い旨味が広がった。
(最っ高‼︎‼︎)
噛むと少し強めの弾力があって、でも肉とは違って噛めば噛むほど繊維がするすると口の中で解けて、それと一緒に溢れ出てきた旨味が舌を刺激する。たまらず全ての脚肉を胃に流し込んでしまった私は、至福の溜め息をついた。
「はぁ……幸せです」
それを見ていたアリスティード様も、私と同じようにして脚肉を口にする。すると、カッと目を見開いたアリスティード様が、それはもう見事なほどに綺麗に平らげていくので、私はおかわりの脚を準備して差し出した。
「なんという旨味だ! これは虹蟹など目ではないぞ……いかん、一気に腹が減ってきた」
「思い出の味には勝てないと言いますけれど、これは思い出にも勝る味です!」
「これほど濃いというのに、スルスル入ってしまうとは恐ろしい。む? 爪は脚より硬かろう。半分に割ればいいのか?」
アリスティード様が硬い爪を半分に割ってくださったので、仲良く半分ずつを木の匙でほじる。獲物を両断するくらいの力がある爪肉は、とても大きく歯応えがあって、食感すらも病みつきになりそうな新しい味であった。二フォルンほどの百足蟹ですらこれなのだ。五フォルン超えの百足蟹は肝の量も脚肉の食べ応えも、今までにないくらいものすごいものに違いない。
「いかんな、こんなに美味くては百足蟹が乱獲されてしまうぞ」
「乱獲……魔物食が浸透すれば観光資源になるかもと思っていましたけれど、生態系を壊してはなりませんね」
「今まで通り、間引く目的で討伐した際の副産物として扱うしかないか。それにしても美味い。手が止まらん」
もはや毒見ということすら忘れて三本目の脚に取り掛かった私たちの前に、ケイオスさんがやって来た。
「ありがとうございますっ、メルフィエラ様、まるで夢のようでした! とろける肝と肝汁が絶妙な感じで身に絡まり、まるで百足蟹の肝に溺れているかの如く……蟹の肝は本当に貴重なので、こんな風にたくさん堪能できる機会をいただける、と……?」
無事に毒見を終えたケイオスさんが、歩みをピタリと止める。その目は、アリスティード様が持っている百足蟹の脚肉に釘付けになっていた。
固まっているケイオスさんに、アリスティード様がにやりと悪い笑みを向ける。
「よかったな、ケイオス」
「か、閣下、それは?」
「ん、ああ。これは脚肉だな。見てみろ、この食べ応えありそうな太さ。メルフィが俺のために選んでくれてな」
「あっ」と口を開けたケイオスさんの目の前で、アリスティード様が脚肉を口いっぱいに入れてゆっくりと咀嚼する。豪快でありながら、その食べ方はすごく綺麗で、ものすごく美味しいものを食べているように見えた(実際百足蟹は極上の味なので、その味を知ってしまった私は生唾が湧いてきてしまった)。
「メ、メルフィエラ様、あの、その……私も脚肉」
「ケイオスさんの分もありますよ? と言いますか、もう上の方の百足蟹は全て食べ頃のようですね」
私たち毒見役の様子を見ていた古参の料理人が、穴の中から百足蟹を取り出すように指示を出す。真っ赤になった百足蟹が次から次へと蒸し上がっていく光景に、お腹を空かせた騎士たちがさらに集まって来た。
「蟹好きのケイオスさんには是非五フォルン超えの百足蟹を食べていただきたいですね! きっと期待以上の味だと思います」
「申し訳ありません……つい夢中になってしまって。しかし、これほどの褒美がいただけるのでしたら、来年の百足蟹討伐は抽選になるかもしれません」
少し恥ずかしそうに頬を染めたケイオスさんに、私は半分に割った脚肉を手渡す。食べ方を教えると、こちらも綺麗に平らげてしまった。ううむ、さすが好きだけあってケイオスさんは蟹を極めている。
「おぉーい、姫さん! やってるな!」
と、遠くからヤニッシュさんたちアザーロ砦の騎士と、ユグロッシュ砦長のギリルさんがやってきた。その後ろ、地走りと呼ばれるドラゴンが引いているのは、巨大な百足蟹の爪だ。
「五十フォルン超えは閣下がほぼ焼き蟹にしちまったから、これだけしか死守できなくてよ。でもこいつは狩りたて新鮮だからよ、下処理とやらもできるだろ?」
「もう、聞いてくださいよ姫様! ヤニッシュ砦長がいきなり呼ぶから何かと思えば、このでっかい爪を食べたいから運べ、だって!」
地走りを操っているのは、しばらく姿を見ていなかったリリアンさんだ。苦笑するブランシュ隊長も一緒だ。そして上空からは、ミュランさんとアンブリーさんがグレッシェルドラゴンで脚を運んで来ていた。
「あのな、お前たち……」
溜め息をついたアリスティード様に、ヤニッシュさんが半眼になる。
「俺、指示通りに心臓を潰しましたよ? それなのに全部焼いたのは閣下ですよね。爪くらい食べたっていいじゃないですか」
「大きいから美味いとは限らんのだが」
「いいんです、俺はこいつを食べます! 姫さん、よろしくな!」
見てみると、狩りたて新鮮なことは間違いなく、どうやらアリスティード様の炎の魔法の直撃を免れた爪のようだ。私はヤニッシュさんに頷くと、下処理を済ませるために道具を取りに行くことにした。
「アリスティード様! すぐに戻りますから、私の百足蟹を死守していてくださいね!」
そうお願いして、私は騎士たちが百足蟹を美味しそうに食べている中を駆け抜ける。疲れた様子も見せず、騎士たちは皆いい笑顔だ。
(ありがとうございます、アリスティード様。お母様との思い出の味が、今日から皆との思い出の味になりました!)




