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第三十八話 急転直下

天文十九年(1550) 十月中旬 尾張国知多郡矢田村 大野城近郊 今川 氏真




曇天としていた天気が少しずつ晴れて徐々に光が差していく。眼前の小高い山にある大野城にも光があたる。晴れ間が見えてきたが状況に変化は無い。

鳥の囀ずりが聴こえた。変化の無い状況を笑っているのかも知れぬ。


大野城には六百の兵が籠もっているようだが、こちらは千二百の兵力で囲んでいる。大野城を守る佐治氏は初めから籠城の構えを崩していない。さてと、こちらも騒ぐ気は無い。ゆっくりと茶でも点てるとするか。


「陣中失礼致します」

大野城を眺めることを止めて陣内の床几に腰掛けると、荒鷲の弥次郎が不意に現れた。

帯同していた伊豆介にとっても不意の来訪のようだ。訝しげに弥次郎を見ている。

「弥次郎か、久しいな」

"堀切村で会った以来だな"などと悠長に話すと、弥次郎が神妙な顔をして"恐れながら"と呟いた。これは何か起きたな。


「如何した」

「はっ、苅屋より吉田城の攻略に向かった本隊が、織田勢の奇襲を受け苦戦中にございます。総崩れも近いかと」

"なんと"

"まさか"

陣内に動揺が走った。

「何だと?本隊は一万はいた筈だぞ?簡単には敗れまい。詳しく申せ」

「はっ。本隊は尾張三河の国境にある川を渡河した後、吉田城攻略のため西へ進軍したところで約四千の尾張勢と衝突しました。旗印は織田大和守と弾正忠」

「四千の兵と守護代と弾正忠か……。今少し兵がおってもよさそうだが……。押し始めた所で伏兵でも出てきたか」

俺が呟くと、口の端を僅かに上げて弥次郎が頷いた。


「はっ。弾正忠は末森城に籠もっている様に見せ掛けておりまする。末森城には弾正忠家の旗が犇めき、人の出入りも多くございます。雪斎様は弾正忠在陣を示す馬印は偽計だとお考えだったようで」

「弾正忠は病で伏せって末森城にいると読んだか」

「はっ。お味方は倍以上の兵がおります故、総攻めで押し始めたところに弾正忠本人が率いる兵に奇襲を受けておりまする」

「ほほぅ。病人と聞いていたが随分と元気ではないか」

「某も驚いておりまする」

流石に成り上がるだけあるな。しぶといわ。

「それで?本隊はどうしている。三河衆は?鵜殿長門守は状況を知っておるのか」

「本隊は雪斎様が懸命に態勢を立て直そうとしておられますが厳しいでしょう。三河衆を率いる鵜殿長門守様はまだ状況を知らぬかと。某は戦の途中で急ぎ此方へ向かって参りました」


「総大将の雪斎に無断で三河衆に知らせる訳にもいかぬか」

弥次郎の気持ちを代弁して呟くと、ほんの微かに笑みを浮かべて弥次郎が応じた。

「ご明察恐れ入りまする」

荒鷲の立場では難しいだろうな。あくまで三河衆は父上の麾下になる。雪斎の許可も得ずに三河衆に連絡して下手に総崩れされても困る。


「相分かった。三河衆への対応は雪斎に任せよう。それよりも本隊が崩れるならば我らも後退しなければ危険だ」

「織田の本隊が北に向かうか南下するかで残された時が異なりますな」

岡部丹波守が冷静に相槌を打つ。流石は今川随一の猛将だな。全く動じていない。落ち着いて状況を分析している。

「織田方は常滑を重視するでしょう。某は南下してくるかと」

伊豆介が盤図を扇子で指しながら指摘する。


三河衆の兵力は九千だ。それを放っておいて全軍を此方に回すだろうか?二手に分けて北からの抑えと常滑の救援に当てるのが常道ではないか?いや、只でさえ織田の方が兵は少ないのだ。俺ならば最重要拠点である常滑の奪還に全軍を向けるな。兵を分けるとしても半田城の奪還のためだ。むしろ半田城奪還に全軍を差し向ける手もあるな。成岩城まで取り戻せば常滑方面からの退路を絶てる。自然と常滑を救うことになる。


……溜め息をつきそうになる。暗中模索だな。近代戦なら敵の位置が手に取るように分かったかもしれぬ。だがこの時代ではこれが限界だろうな。荒鷲が必死に情報を届けてくれるだけ俺は恵まれている。限られた情報の中で決断が求められる。


胸が激しく鼓動する。高揚からか、果たして不安からか。両方だな。皆の視線が俺に集まっている。一時だけ目を閉じて考える。……よし、決めた。かっと目を見開いて声を張る。


「今から大野城へ全軍で火矢を射掛けろ。残しても仕方ない故、持ってきたくそう水を全て盛大に使うように。落とす訳で無ければ城を残す必要もない。我等がここまで来た爪痕を残すぞ」

将達の顔を順に見て命じる。皆が頷く。

「小高い山の上で高みの見物をしておる織田方に、目にものを見せてくれる。山ごと焼き尽くしてくれるわ」

多少は存在感を示しておけば、今後の調略もしやすくなるかも知れぬ。それに石油を使った火矢の効果を見ておきたい。

「だが長居は無用だ。一刻後に成岩城に向け迅速に撤退する。弥次郎は半田方面の井伊彦次郎へ伝えよ。織田の急襲に備えて、しばらく半田城の付近で守備するようにと。籠城か否かは全て彦次郎の裁量に任せる。ただし、織田の南下を許すな。明朝成岩城で落ち合おうと」

"ははっ"

弥次郎がすぐさま陣を立った。

「伊豆介、忍を一人本隊へ使わしてこちらの状況、方針を伝えると共に、三河衆へ連絡して半田方面へと南下させるよう伝えてくれ」

「御意」

三河衆はまだ無傷の筈だ。我等と合わせれば織田を挟撃できる。我等が常滑から撤退すれば、織田は兵を引くかも知れぬ。少なくとも積極的には戦おうとしないだろう。

「それから三浦左衛門尉、庵原安房守にも使いを出せ。左衛門尉は本陣から北上して成岩城の関口刑部少輔に合流、安房守と伊丹権太夫は兵達が帰陣次第すぐに乗船できるように準備させよ」

「はっ」

伊豆介が頭を下げる。


「左衛門尉や安房守に文を書いている時が無い。俺の馬鞭を貸し与える。俺の命の証とせよ。荒鷲の使いに持たせるがよい」

「助かりまする」

伊豆介が畏まって頭を下げ、恭しく馬鞭を受け取った。



さてと、下知はこのくらいでいいか。

皆に気合を入れておこう。

「さぁやるぞ!」

「「おぅ!!」」

俺の大きな掛け声に将達が大きく応じた。




天文十九年(1550) 十月中旬 尾張国知多郡矢田村 大野城 佐治 為景




眼下に見える今川の手勢がぞろぞろと動き出した。少しずつ城に近付いて来る。城の前に構えて終わりかと思っておったが、一戦やるようだ。


突如として今川の旗を持った軍勢が現れた時は肝を冷やした。だが敵の数が千二百と聞いて安堵した。千二百ではこの城は落とせまい。織田三河守殿からの使者によれば増援の恐れも無さそうだ。


「皆の者、敵に増援は無い。だが我等にはしばらく待てば織田殿が見える予定だ。ここが踏ん張りどころであるぞ!」

皆が"おぅ"と応じる。

皆の顔にも余裕がある。

この城は小高い山の上に建てられた堅城だ。門に繋がる道の他は木々が生い茂って攻め上るのは難しい。かと言って城の門に繋がる道を登っていくと、途中で城から雨のような矢を受けることになる。


「変ですな」

家臣の粟津九郎兵衛が呟く。九郎兵衛の目線の先には、ぞろぞろと動く今川勢がいるが……。ん?

「あのような所で弓を射るつもりか?此処までは全く届かぬだろうて」

「左様。おかしい動きでございまする。あの場所では此方からの矢も届きますまい。今川は何をしたいのか……おっ、火矢を放ち始めましたぞ」

今川勢を見ると、弓兵隊が前に出て間断無く弓を射かけている。城が建つ丘陵の麓に火矢が放たれている。何本かの強弓が中腹まで届く程度だ。


「今川は何をしているのだ。火矢を森に放ったところで先日の雨の後だ。簡単に火など付く訳でもあるまいて」

必死に火矢を放ち続ける今川の者達を見て可笑しくなった。儂が声を上げて笑っている間、九郎兵衛は真剣な面持ちで今川勢を見ている。

「しかし殿、今川が放った火矢に付いている火は中々消えませぬぞ。魔訶不思議ですな」

何だと?そのような事がある筈……。確かに、火矢が放たれている所々で、徐々に火の手が上がっている。

「何故じゃ?何故火が消えぬ」

「油を含ませているとしか思えませぬが、それにしても強力ですな」

「いざとなれば水を撒いて防ぐしかあるまい」

「この城に水は撒く程ありませぬぞ。殿がよくご存じでござりましょう」

九郎兵衛が声を潜めて指摘する。その通りだ。この城の唯一と言っていい難点は水瓶が乏しい事だ。井戸を掘っても水がほとんど出てこない。水を撒いてしまっては城を守る者達の飲み水が無くなってしまう……。

まぁここは大将らしく大きく構えておくしかできる事はあるまい。





しばらくすると、城内が騒がしくなってきた。皆が落ち着きなく麓を見ている。

「殿、このままでは火がこの城まで達しまする。打って出るか、このまま城で燃えるかお決め下さい」

皆が叫ぶ。儂の座している場所からでは麓は見えない。だが、見なくとも分かる。黒い煙がもうもうと立ち上がり、ぱちぱちという音を立てて麓からの火の手が迫っている。山ごと焼くなど鬼の所業だ。今川を率いる武将を恨めしく思った。


「と、殿!今川勢が引いて参りまする!」

別の家臣が大きな声で叫んだ。儂も立ち上がって火の手の間から今川勢を眺める。確かに引いている。半田方面へ撤退するようだ。


“に、逃げろー”


今川勢の撤退が呼び水となったのか、一部の城兵達が逃げ出した。いかぬ。収拾がつかなくなる前に命じねばならぬ。

「皆の者、海の方へ逃げよ!湊に集まるのじゃ!」

儂の命を受けて皆が城を下りるために走り出した。皆が我先にと走り出す。


あ、熱い。火の手がそこまで迫っている!我が城が燃えている。

「殿!」

“バシャッ”

振り向くと、九郎兵衛が竹筒に入った水を儂にかけてくれた。生き返る気分じゃ。


阿鼻叫喚の中、皆と必死に走りながら、このような事、人の成せる業ではないと恐怖に慄いていた。




天文十九年(1550)十月中旬 尾張国知多郡半田村 半田城 井伊 彦次郎




「父上、荒鷲の弥次郎殿がお見えでござります」

半田城を攻め落として、束の間の休息を取っていると新次郎がやって来た。

「うむ。こちらへ通してくれ」

「それが、縁側で面会を希望されておりまする。随分と汚れておられて」

新次郎達に連れられて庭先に出向くと、泥を被った弥次郎が控えていた。

「これはこれは随分と汚れているな。どうした」

「はっ、火急の用件をお伝えに参りました」

弥次郎の顔が厳しい。泥を落とさずに来る程だ。よくない予感がした。頷いて続きを促す。


「吉田城近郊にて織田勢と衝突した本隊が総崩れ、織田勢がこの城目掛けて向かっておりまする。その数四千」

新次郎や余五郎、又太郎達が驚いている。僅かに驚いた程度で済んでいるのは孕石主水佑殿くらいだ。

雪斎禅師が敗れたか。禅師は御無事であろうか。本隊の状況が気になるが、まずは織田がどう動いているかだな。


「どのくらいでこちらに来ると見ている」

「されば、二刻と掛からぬかと。早ければあと一刻程で来ようかと思われまする」

「若殿は何と……」

言い出して、聞いても詮無きことかと止めた。弥次郎は本隊の様子を見てこちらに来たのであろう。若殿の下知等受けておるまい。


「はっ、されば若殿よりのご命令をお伝え致しまする」

「なんと、其の方大野城にまで行った後であったか」

儂が問うと、弥次郎が儂の顔をじっと見ながら頷いた。

後で聞いた話だが、弥次郎は若殿の陣に行く時に後で半田城へ行くことを見越して本隊へ忍を残しておいたらしい。ここへはその忍の情報と若殿からの命の両方を持ち込んでくれた。出来る奴よ。


「井伊彦次郎様におかれましては、若殿から半田城より南へ敵の南下を許さぬよう命が下っておりまする。若殿は今頃成岩城へ向かって軍を動かしておりましょう」

「退路が絶たれないようにせよということだな」

"はっ"

「それと、明朝には成岩城へ集まるようにも仰せでございます」

「明朝か。あと少しで日が暮れる。織田が来るか否か……」

「彦次郎殿、俺は打って迎え撃つべきだと思うぞ」

主水佑殿が意見を述べてくる。新次郎や又太郎が驚いている。気持ちは分かるが若武者達は青いな。驚いているということは主水佑殿の狙いに気付いておらぬか。


「あと少しで日が暮れる。であれば日が暮れ次第成岩城に向かうためにも打って出るべきか」

「左様」

「それに籠城しては城を素通りされる可能性もある。主水佑殿は左様にも言いたいのだろう」

儂の指摘に、主水佑殿が満足そうに頷くと共に、新次郎や余五郎といった若武者が得心したように頷いた。


「城には旗印を残して野戦の準備をする。鶴翼の陣形で迎えよう。織田がやる気なら一戦見えてから成岩城へ撤退する。敵は四倍だ。心して掛かれ」

杉山新右衛門と渡辺平三郎が覚悟した面持ちで儂の顔を見ている。気持ち良い面構えよ。両翼の最も厳しい場所はこの二人に任せて見よう。


ただ守り戦うだけの一戦だ。どれだけ士気を維持できるかが勝敗を左右する。であればこの二人程の適任もおるまい。

まさか野戦をすることになるとは……。鉄砲か長槍があれば良かったが、鉄砲は一丁も無いどころか槍とて通常のものしかない。若殿に不測の事態への準備を説いておいて、この状況に思わず一人で苦笑いをした。





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[良い点] ついに戦闘描写! そして氏真の心理的内面(思惑)と、周りからの評価との相違が楽しくなるようですね。 どこか信長の価値観と一緒であるけれど、氏真の価値観は「こうだ」という見比べがとても楽し…
[良い点] 怒涛の展開ですね、読んでいて《ドキドキ》しました。 暑い日が続いておりますお身体ご自愛ください。
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