97話 時間
それは神速機装のようだった。奈落を覗いてしまったかのような、不気味なまでに暗い闇色をした装甲。禍々しく赤黒い瘴気を纏った槍。
赤く輝く目は、その色とは真逆に凍えるような冷たさを孕んでいた。シルクのような純白の髪は左右で結ばれ、見る者に天使の翼を想起させた。
一花が槍を振るうと、瘴気がその背から噴き出した。悪魔が両腕を広げ、この世の全てを覆い尽くさんとするような威圧感。よく見れば、それは翼だった。
これは、今までの原因体とは比べ物にならない。万物から畏怖されるような存在。全てを超越する天涯だ。痛みを錯覚するほどの殺気を肌に感じ、舞姫はそう思った。
一花は視線を治療中の舞姫たちに向けた。目が合うと、舞姫は動けなくなってしまう。抵抗するだけ無駄だと、体が本能的に感じ取っていた。
動けるのは七海のみ。唯と舞姫は体の損傷が酷く、この戦いに参加するのは難しいだろう。比較的軽傷な有希ならば、間に合うかもしれない。
一番重傷な唯が治療を受けていた。このまま放っておくと、唯の体は持たないだろう。しかし、唯はクロエの治療を遮る。
「あたしは後でいい。それより、有希を治せ」
苦しそうな表情で唯が言った。呼吸も荒く、動けなくなるのは時間の問題だろう。それが分かるからこそ、クロエは頷けなかった。
「だが、お前が一番重傷なんだぞ?」
「分かってる。けどよ、今優先すべきは有希だ。舞姫もそう思うだろ?」
「そうね。私たちでは、間に合わない」
内臓を損傷しているというのに、唯は有希を優先するように促す。手足を折られた舞姫も、有希を優先するように促す。
クロエは逡巡するも、二人の意見を聞く他無かった。下手をすれば唯は命を落としかねない。かといって、七海一人で戦える相手ではない。
もしかすれば、有希ならやってくれるかもしれない。根拠のない希望だったが、それは皆が思っていることだった。これまで奇跡を起こし続けてきた有希ならば、一花にも勝てるのではないか。
クロエは頷くと、七海に声をかける。
「七海! 少しで良い、有希の治療が終わるまで時間を稼いでくれ!」
「了解!」
七海は治療を始めたクロエを視界の端で見てから、一花に大剣を向けた。その手は震えていたが、七海は武者震いだと決め付けた。恐怖は既に克服している。ならば、恐れなど無いはずだ。
七海は一花を見つめる。髪や目の色は変わり、余計な物が沢山取り付いている。しかし、そこに浸食の痕は見られない。ならば、一花は生きている。
互いに見つめ合っていた。僅かでも体を動かせば、この戦いは始まるのだろう。七海は額に汗が伝うのを感じながら、じっと身構えていた。
始まりは七海からだった。大剣を構え、地を蹴って一花に肉迫する。自分でも予想以上の速さが出ていた。親友を前にして、後少しの所まで来ている。一花を助けられるかもしれない。
「はあああああッ!」
大剣を振り下ろす七海の視界に映ったのは、妖しく笑みを浮かべる一花の姿。それも一瞬のことで、その姿が掻き消えた。
地面に振り下ろされた大剣は巨大なクレーターを作るも、やはり一花の姿はない。遅れて、恐ろしいほどの殺気がやってくる。
危険を感じ取り、慌てて大剣を盾にする。まともに受け止める体勢も出来ていない状態で、七海は一花の攻撃を受け止めた。
手が酷く痺れていた。大剣も今の一撃で歪んでいる。その後ろからひょっこりと顔を覗かせた一花の姿は可愛らしかったが、ニヤリと笑みを浮かべる姿は悪魔のようである。
七海は慌てて距離を取った。焦りのあまり動きは隙だらけだったが、一花はそれを楽しそうに眺めるだけだった。
七海は再び大剣を構える。今度は防御に主体を置いて、一花の攻撃を迎え撃とうとしていた。
七海の意図に気付いたのか、一花は槍を構えた。その矛先は七海ではない。
「なッ!?」
槍は治療中の有希たちに向けられていた。穂先に赤黒い瘴気が集まっていくのを見て、七海は有希たちを庇おうと移動しようとする。
そのせいで、七海の構えは解除される。一歩踏み出した刹那、槍は七海に向けて突き出されていた。
「えっ?」
七海が理解するよりも早く、槍から瘴気の塊が放たれた。当然、七海は反応できない。
「七海ッ!」
クロエが叫ぶ。七海は慌てて防御態勢に入ろうとするも、間に合わない。
そして、瘴気の塊が炸裂する。七海は何も出来なかった。一花を相手取るには、あまりにも戦闘経験が不足していた。
瘴気が辺りを覆い、七海の安否は分からない。心配そうに見つめるクロエだったが、そこであることに気付いた。
近くにいたはずの舞姫がいなかった。
突如、辺りに暴風が吹き荒れた。瘴気が散らされ、中から七海と、もう一人の人物が姿を現した。
一花と同じく槍を構える人物は、言うまでもなく舞姫だった。右手と右足が折れて戦う余裕はないだろうに、毅然とした様子で槍を構えていた。
「油断は命取りよ?」
「あ、ありがと」
礼を言うと、七海は大剣を構えた。限界の近い舞姫が手伝ってくれているのだ。今度こそ、失態は許されない。
「七海。有希が回復するまで、絶対に支えるわよ」
「もちろん!」
七海と舞姫は一花に攻撃を仕掛ける。十年ぶりの連携だったが、二人の意志疎通は完璧だった。
能力は高いが練度で劣る七海を舞姫は上手く補助する。さすがに正面から一花の相手をする余力はないが、戦闘経験の豊富な舞姫は上手く立ち回っていた。
それでも、一花は圧倒的だった。破壊機装を操る七海でさえ、打ち合えば力負けしてしまう。舞姫の補助があるとはいえ、命をつなぎ止めるのがやっとの状況だった。
じわじわと追い詰められていく。長時間の戦闘になれば、肉体的にも精神的にも負担は大きくなっていく。七海も舞姫も脳への負荷は限界が近付いてきていた。
二人の動きが鈍っているのがクロエにも分かった。後少しで有希の治療は完了するが、それまで耐えられるほどの余裕はなさそうだ。
せめて、舞姫が万全に動けたなら。クロエはそう思うも、無い物ねだりをしたところで状況は変わらない。状況は好ましくはないが、それでもやるしかなかった。
「うあああああッ!」
七海が声を上げながら大剣を振り回す。頭痛は限界まで来ている。そうでもしなければ意識が飛んでしまいそうだった。
しかし、どれだけ気合いを入れようと、鈍った動きでは一花を抑えられない。二人の連携の隙を突き、一花は距離を取った。
七海は咄嗟に追いかけようとするが、舞姫に制止された。直後、七海の前方に瘴気の塊が炸裂した。舞姫に止められなければ、自分は今頃あの場所で息絶えていたのだろう。背中に冷たい汗が流れているのを感じた。
巻き上がる瘴気の奥には一花の姿があった。二人に向けて突き出された槍に、禍々しく赤黒い瘴気が集まっていく。
「あれは、さすがに厳しいわね……」
舞姫が呟いた。どれほどの威力秘めているのか。まだ放たれていないというのに、大地が震えていた。極大のエネルギーが集まっていく。
舞姫はちらりと背後を見た。そこには重傷の唯と治療中の有希がいた。クロエもいる。躱すことなど出来ない。
「舞姫、手伝って!」
七海は大剣を高々と掲げた。余力の全てを注ぎ込んで、一花の攻撃を迎え撃とうとしていた。
それを見て、舞姫も頷く。翼を解除し、銃を構えた。両手のライフル型と浮遊する十八の銃。舞姫の最大火力攻撃である斉射だった。
二人の準備が整うのと一花の準備が整うのはほぼ同時だった。七海と舞姫は声を上げながら己の最大攻撃を放つ。
「「はぁぁぁあああああああッ!」」
放たれた青白い閃光が轟音と共に突き進む。その様は地に這う大蛇のように荒々しく、天に舞う鳥のように美しい。
迎え撃つように、一花の槍から禍々しく赤黒い瘴気が放たれた。極大のエネルギーが集束された一撃が襲いかかる。
始まりは拮抗だった。二つがぶつかり合った余波で周囲の空間が崩れていく。大地が割れ、壁にひびが入っていく。
一花が楽しそうに笑う。ゆっくりと瞬きをすると、瞳の赤い光が強く輝いた。
途端に槍から放たれる瘴気の威力が増した。七海と舞姫は全力で押し返す。そして、再びの拮抗。
ぱちり。一花が二度目の瞬きをした。瞳が妖しく光り、口元は三日月型に歪められる。その瞬間、一花の体から瘴気が迸る。
これ以上は耐えられなかった。
「ご、ごめ、ん……もう、駄目……」
七海の装着が解除される。よほど辛かったのか、そのまま気を失ってしまった。一人で支えるとなれば、舞姫に掛かる負担も相応の量になる。
「ぐ……あ……」
頭が割れそうなほどの頭痛に襲われ、舞姫の装着が解除された。薄れゆく意識の中で、槍だけは解除せず握りしめていた。
無防備になった二人に。後ろにいる有希たちに。一花の一撃が襲いかかる。
そして――その軌道が僅かに逸れた。
瘴気は全てを破壊しながら突き進み、遂にはこの空間をも破壊してしまう。その余波に煽られ、舞姫は槍を手放してしまった。
ゲートが破壊されると、辺りは廃墟だった。よく見ればそこは、十年前に原因体に敗北した場所だった。
辺りは暗く、空には星が輝いている。舞姫の槍が夜空を舞い、やがて地面に突き刺さった。
クロエは冷や汗を掻いていた。自分の僅か数センチ横の地面が抉られていたからだ。後少しでもクロエが横にずれていたら、そのまま消し飛ばされていたことだろう。
一体何が起きたのか。疑問に思うクロエの視線の先には唯がいた。
普通なら動くこともままならない状態だというのに、苦しそうに呼吸をしながら拳を突き出していた。その拳は一花の槍に横から突き出されていた。
まともな攻撃をするほどの力は残っていない。だが、槍を横から殴りつければ軌道ぐらいは変えられる。唯はそんな無茶をやってのけたのだ。
唯は苦しそうに呼吸をしながらも、犬歯を剥き出しにして笑みを浮かべて見せた。それに苛立ちを感じたのかは分からない。だが、一花は酷く冷たい視線を唯に向けた。
そして、槍が振るわれた。
「……?」
一花は首を傾げた。何かに阻まれたかのような手応え。しかし、視界に映っているのは自分の槍と、先ほどと変わらず笑みを浮かべている唯だけだった。
刹那、何かが恐ろしい速度で視界に現れた。赤い光が迫ってくるのを感じ取り、咄嗟に防御をする。だが、思っていたよりも重い一撃に、一花は弾き飛ばされてしまう。
宙で体勢を整えて着地する。前方を見ると、その人物が姿を現した。
「もう、許さないよ」
舞姫の槍を手に、有希が駆け出した。




