79話 限界
辺りは既に暗くなっていた。日はとうの昔に沈み、空には月が煌々と輝いている。だというのに、地面は光を感じさせないほどに暗い。
どこまでも広がる廃墟。その空虚な空間の中央に渦巻く黒い靄――ゲートはあった。それを取り巻くのは、暗い色をした異形の化け物たちだった。
そこには人の介在する余地がないかのようだった。他の存在を許さぬかのように、辺りは黒一色に染まっている。途方もない数のイーターは、その全ての視線が一点に向けられていた。
その視線の先にいるのは一人の少女だった。数えるのが馬鹿らしくなるほどのイーターから鋭い視線を向けられた少女は、しかし、それに劣らぬ鋭い目つきで睨み返していた。
「ずいぶんと歓迎してくれるじゃねーかよ」
少女――唯は、犬歯を剥き出しにして獣のような獰猛な笑みを浮かべた。そこに恐れはない。あるのは、これから始まるであろう死闘への期待と高揚感のみだった。
圧倒的な数を前にして、唯は怯まない。むしろ、それだけ長く楽しめるとさえ感じていた。唯にとって、戦いは唯一の安息だった。
「そんだけ気合いが入ってんなら、こっちも思いっきり暴れられる」
『気を付けてくれ。これはレベルフォーだが、場合によってはレベルファイブに引き上げるかもしれないからな』
「ハッ! そんなの関係ねーよ。レベルがフォーだろうがファイブだろうが、叩き潰すだけだ」
クロエの心配を余所に、唯は好戦的な笑みを浮かべる。その瞳に映っているのは、目の前にいる獲物だけだった。
唯は右手をイーターに向けて突き出した。手首に嵌めた万能機装が光を放ち始めた。
「万能機装――装着!」
輝きが最高潮に達すると、唯の周囲に漆黒の装甲が展開された。装着が完了すると、手には巨大な爪が現れ、背中の翼が展開される。
その漆黒に深緑の光の線が走ると、唯は前方に駆け出す。迎え撃つのは、数多のイーターである。
手始めに手前の犬型を叩き切ると、唯は開いた道に飛び込んでいく。イーターは唯を取り囲み押し潰そうとするが、それも想定の内だった。
「らあああああッ!」
体を回転させ、周囲のイーターを一掃する。光を爪に纏わせることで、その威力は近くにいた蜘蛛型をも容易く切り裂いていた。
体勢をすぐに立て直すと、臆せずにその集団に切り込んでいく。波のように押し寄せるイーターを前に、唯は奮戦していた。
休む間もなく押し寄せるイーター。それを相手にしていると己の強さを証明できているような気がして、唯の心は高揚していた。
自分は一人で戦う。一人で戦える。それを証明するのに今回のゲートは丁度良かった。現在では舞姫ぐらいでしか対応の出来ないレベルフォーのゲートを撃ち破れば、唯の在り方を否定できる者はいないだろう。
唯とて、考えもなく立候補したわけではない。自身の実力を考えれば、数が多いだけの敵など問題ないと思っていたからだ。さすがに獅子型や蜻蛉型を相手にするとまだ厳しいが、蜘蛛型や蟷螂型程度ならば数が多くても問題はない。
唯の視界は真っ暗だった。どこを見てもイーターで埋め尽くされており、暗闇の中に閉じ込められたかのような錯覚に囚われる。それで輝く月さえも、今では闇に隠れてしまっていた。
唯は全く恐れを感じなかった。この時間がいつまでも続いて欲しいとさえ思っていた。戦いの中では、嫌なことを忘れられる。
しかし、ふと先ほどの舞姫とのやりとりを思い出す。
『個の力なんて、所詮は個の力に過ぎないのだから』
自分の在り方を否定するその言葉が、なぜか頭から離れなかった。その言葉が正論であることは、唯も理解はしていた。
頭では理解していても、心がそれを許さなかった。自分の姉のような存在だった千佳は、足手まといがいたせいで死んでしまったのだから。
一人で戦いたいと思ったのはそのせいだった。自分は足を引っ張られるのも嫌だし、足を引っ張るのも嫌だった。一人で戦えば、自分の行動の責任は全て自分にある。たとえそれで死ぬとしても、唯は後悔するつもりがなかった。
死は怖くない。怖いのは、それによって悲しむ人がいることだ。周りとの関わりを避けていれば、誰も悲しむ人はいないだろう。
自分が死んだとして、千佳が死んだときの自分のように悲しむ人はいない。それならば、死を恐れる必要はない。唯はそう思っていた。
イーターの数は一向に減らない。減ってはいるのだが、もとの数が多いせいでそれを実感することはなかった。変化といえば、唯に疲労が溜まってきていることぐらいだった。
『おい、唯。大丈夫か? そろそろ体力的にも厳しいだろ?』
「はあ、はあ……うっせーよ……」
肩が上下しており、呼吸も少し苦しそうだった。動けないというほどではないが、万全とはとても言えない状況だった。
少し頭痛がしていた。頭を刺されるようなズキズキとした痛みだった。
「チッ、なんだよこれ……」
我慢しようと思えば我慢出来る程度の痛みだった。唯は痛みを意識の外に追いやると、再びイーターに切りかかる。
振り下ろされた蟷螂型の鎌を真正面から迎え撃ち、鎌ごと蟷螂型を叩き切る。それを終えると、今度は振り向きざまに爪を振るう。唯の背後から迫っていたイーターはそれだけで消し飛んだ。
再び前方に視線を戻すと、蜘蛛型が突進してくるところだった。全速力の突進を、唯は爪を振るって迎え撃とうとする。
しかし、ここで異変が起きた。
「なっ……」
迎え撃ち、そのまま叩き潰そうと思っていた唯だったが、蜘蛛型の攻撃を受け止めるだけしか出来なかった。先ほどまでの出力はなく、唯はどうにか蜘蛛型を弾き返す。
全力で押し返したはずだというのに、蜘蛛型には大した傷がなかった。爪でその胴体に浅い傷を付けただけだった。
体勢を整えて、地面を力強く蹴って蜘蛛型に飛びかかる。だが、その動きは遅かった。先ほどまでの戦いと比べると、スローモーションにしか見えないくらいだった。
『唯、右から来るぞッ!』
クロエの声に反応して右側を見ると、別の蜘蛛型が突進してくるところだった。それを躱そうとするも、思うように力が入らずにその軌道から逃れられない。
「マズいッ!?」
唯は慌てて身構えると衝撃に備える。蜘蛛型が赤い眼を光らせながら迫ってくる姿は、さすがの唯も恐怖を感じた。
「ぐぅ……がはッ!」
大きな衝撃が走った。腹部に蜘蛛型の突進が直撃し、肺の中の空気が無理矢理押し出された。
風に煽られた木の葉のように容易く弾き飛ばされ、唯は初めて死への恐怖を感じた。不時着した先もイーターで溢れかえっていた。
地面に叩きつけられ、二度目の衝撃に目を見開く。だが、痛みに悶えている間もなくイーターが迫っていた。
「くそ……邪魔なんだよぉぉおおおおおッ!」
怒りに任せて近くにいた犬型を叩き潰す。全力で攻撃したはずなのに、辛うじて倒せたくらいだった。
「どうなってんだよ、これはよ……ッ!?」
愚痴ると、直後に強烈な頭痛が襲ってきた。頭が割れてしまいそうなほどの痛みは、立っていることさえもままならなかった。
唯はその痛みに耐えられずにその場にへたり込んでしまう。
『もう唯の体が限界なんだ。頼む、離脱してくれ』
クロエの通信が聞こえてくるが、返答する気力が湧かなかった。ここで離脱してしまえば、自分の在り方を諦めることになってしまう。たとえ死んでも、それだけは嫌だと思った。
「なあ、おい……嘘、だろ?」
しかし、ここにきて唯は気づいてしまった。視界に映った自分の脚がガクガクと震えていることに。手も震えている。肩も震えている。体中が恐怖に屈していた。
視線を少し上げれば、そこに映るのは敵だけである。味方など一切いない。唯が望んでいたはずの在り方は、今になってその現実を唯に突きつけてきた。
『唯、聞こえてるか!? 早く離脱しろッ!』
「無理だ……あたしはもう、無理なんだよ……」
頬を伝う雫に気付いてしまった唯は、ついにその心までもが屈してしまった。
死の瞬間とはスローモーションのように見えるという。どこかで聞いたそんな知識を、唯は今になって実感していた。ゆっくりと死が迫ってくるように見えていた。
だからだろうか。その視界を赤い閃光が駆け抜けていったことに、唯は反応が遅れた。一体なにが起こったのか。理解が追いつかなかった。
ただ一つ理解できたのは、自分に迫ってきていたはずのイーターが消し飛んだことぐらいだった。それ以上のことは、頭痛に苛まれている頭では考えつかなかった。
涙で滲んだ真っ暗な世界の中には、赤い光を身に纏う少女がいた。唯を守るように、周りにいるイーターを鮮やかに葬っていく。その動きが洗練されて美しく見え、唯はその少女をよく見たいと思った。
力の入らない手をどうにか持ち上げて涙を拭う。そこにいたのは有希だった。




