65話 覚悟
有希は蜘蛛型を見据える。訓練より一回りは大きいであろう蜘蛛型は、赤い複眼をギラギラと光らせて有希の方を見つめ返していた。
その巨体の威圧感。有希がどれだけ背伸びをしても、その頭は蜘蛛型の高さは超えられないだろう。
「いくよっ!」
その威圧に負けてしまう前に、有希は動き出した。今引き出せる最大限まで神速機装の速さを駆使した、正しく神速の槍撃。地を踏み締めた直後には、その姿は蜘蛛型の胴体に突き刺さっていた。
「――はあッ!」
金属の塊がぶつかり合ったような、鈍い音が響く。有希の渾身の一撃は、蜘蛛型の胴体に僅かばかりの、目を凝らしてようやく分かる程度の傷を付けるだけだった。
――キシャアアアアアッ!
刹那、蜘蛛型が吼えた。
その程度の傷と引き替えに得たのは、蜘蛛型の怒りだけであった。その赤い複眼の、全てに有希の姿が映っていた。
『脚に気をつけろ!』
有希の耳にクロエの声が響く。有希が慌てて飛び退くと、その直後には巨大な丸太のような脚が振り降ろされた。有希が立っていた地点には、巨大なクレーターが生み出されていた。
人間の少女と蜘蛛型。生まれ得た能力の差は隔絶しているだろう。有希の攻撃は全力を持ってしてもかすり傷をつける程度である。対して、蜘蛛型の一撃は当たれば容易に人間など挽き肉になってしまうであろう威力を持っていた。
有希の背中を冷や汗が伝う。僅かにでも反応が遅れていたら、自分はあの足に叩き潰されていたのだろう。アスファルトをものともしないのだから、蜘蛛型に対して人間の体などまともな抵抗すらな出来ない。
距離を取った有希に対して、蜘蛛型は休む間もなく距離を詰めてきた。まるで巨大な壁が迫ってくるような蜘蛛型の突進は、有希に本能的な恐怖を与えて動きを鈍らせる。
『有希ッ! 左に飛べ!』
クロエの声ではっと我に返り、有希は指示通り左に飛ぶ。しかし、動きの鈍った体は思うように動かず、その回避はぎりぎり間に合わない。
『有希ッ!』
ぐちゃり、と不快な音がした。何かと思い視線を向けると、蜘蛛型の口が何かを咥えていた。ギザギザと尖った牙に挟まれたそれは、真っ赤に染まっていた。
遅れて、右足に違和感を感じた。地を踏み締めたはずが、なぜか浮遊感があった。そのままバランスを失い、何かに掴まろうとするも空振ってしまい、ふらりとに倒れ込んだ。
アスファルトには有希を優しく受け止めることは出来ない。回避した勢いのまま体を地に打ち付けてしまい、有希は痛みで呻く。
「お、おい、有希……」
有希のもとに、顔を蒼白にした唯が駆け寄ってきた。
「あ、唯ちゃん。ごめんね、心配させちゃって」
「いや、そんなことはどうだっていいんだけどよ……」
唯の視線が自分の顔ではなく下半身に向けられていることに気が付き、有希は首を傾げた。その様子に、唯はさらに辛そうな表情になる。
「大丈夫、なのかよ?」
「なにが?」
何を言っているのか分からない、といった様子だった。有希は、己の体の状況に全く気が付いていなかった。
唯は自分の口から伝えることを躊躇うも、口を開く。
「お前、右足がないじゃねーか……」
痛ましいものを見るように、唯が有希の右足を見ていた。右足があったであろう場所を見ていた。有希は自分の右足に視線を移す。
「……え?」
有希の右足がなかった。膝よりも少し上くらいまでの部分がなくなっていたのだ。
「うぁ……ぁああ……」
無意識の内に、有希はその痛みを意識の外に追いやっていたのだろう。それを今、改めて認識してしまった。足が喰い千切られているという事実を。
「うぁぁあああああッ! 痛いッ! 痛いぃッ!」
遅れてやってくるのは強烈な痛みである。その痛みは尋常なものではない。切断面から伝わる痛みは、十四歳の少女が堪えられるほど生易しいものではなかった。
叫びながらのたうち回る有希の姿に、さすがの唯も動揺を隠せないでいた。
「おい、クロネコ! これはどうすりゃいいんだよ!?」
『落ち着け! とりあえずは有希を装甲車の方まで避難させてくれ!』
「ああ、わかった!」
唯は有希を抱き上げる。だが、有希が痛みを堪えられず暴れるため、上手く抱えられない。
「ああ、くそ! 乱暴にするけど、恨むなよ!」
唯は有希を強引に担ぐと、急いで装甲車の方へ戻る。全速力で駆ける唯は、有希の全速力よりも遥に速かった。
有希を装甲車の長椅子に横たえると、唯はクロエに尋ねる。
「この後はどうすんだ?」
『蜘蛛型を倒してくれ。奴は装甲車より速いだろうから、倒さないと帰れないんだ』
「そうかよ」
唯は装甲車から出る前に、一度だけ有希の方を振り返った。その表情には、失望の色が見えた。
「……期待はずれ、じゃねーかよ」
唯は装甲車から出ると、蜘蛛型を見据える。その口元は有希の血で赤く染まっていた。
『唯。俺が装甲車の砲台でサポートするから、お前は……』
「サポートなんていらねーよ」
『……え?』
唯に断られ、クロエはなぜか分からず首を傾げた。
「あたしは、今までずっと一人でやってきたんだ。これまでも、ずっと一人だった」
語り出した唯に、クロエはますます分からなくなる。一つだけ分かるのは、これがあまり好ましい雰囲気ではないということだった。
しかし、それを止めることは出来なかった。唯の声色はそれを躊躇わせるだけの気迫があった。
そして、唯は宣言する。
「だからよ――あたしは一人で戦う」
覚悟を決めた表情で、唯は言い放った。




