第56話 おかえりなさい
王家専用修練ダンジョンの入口前。
俺たちはしばらく無言で並んでいた。
喉の奥に、飲み込みきれない砂利のような感情が詰まっている――そんな沈黙を破り、隣で先輩がふっと息を吐く。
「じゃ、手のかかる後輩の成長も見届けたことだし、俺はそろそろ地球に戻ろうかな。いい加減、沙織と翔太に会いてぇ。お前はどうする? 一緒に帰るか?」
軽く肩を回す、いつもの動作。
だが、その笑顔は、どこかサイズの合わない仮面を無理やり貼り付けたように見えた。
問いかけに、俺は少し間を置いてから首を横に振る。
「いえ、ちょっとまだやることがあるんで」
領地のことなど、後始末が残っている。
それに、心の整理もついていない。
進化という劇薬に浸された俺自身がどう変質してしまったのか、もう少し確かめておく必要があった。
「そうか、ここから帰ってもいいんだが、万が一ってこともあるし、ダンジョンで帰還する予定だ。湊も見送ってくれよ」
「もちろんですよ」
別れの気配をまとい、俺たちはゆっくりとダンジョンへ足を踏み入れた。
力が制限される地上と違い、濃密な魔素が漂うこの場所なら、先輩もリミッターを外せる。
「……ふぅ」
立ち止まった先輩が、深く息を吐く。
それだけで、大気が質量を持った鉛のように重く垂れ込めた。
天鋼級の本気。
世界そのものを万力で締め上げるような、圧倒的な密度の魔力が練り上げられていく。
「湊」
差し出された先輩の手。
その掌には、俺が以前渡した【境界喰らいの歴史】が握られていた。
魔力を吸い上げ、心臓の拍動のように激しく明滅を繰り返している。
「これのおかげで、座標の特定ができた。……本当に、ありがとな」
「よしてください。俺の方こそ、先輩がいなきゃとっくに死んでました」
「バカ言え。お前は俺が居なくても絶対すげぇ探索者になれてたよ」
先輩が虚空に手を伸ばす。
空間が飴細工のように捻じ曲がり、そこから赫金色をした鉄塊が引き抜かれた。
剣のようにも見える、無骨で巨大な質量。
俺の視線が吸い寄せられる。
ただの金属ではない。
表面を、陽炎のようなオーラが覆い、周囲の空間を焼き焦がしている。
材質は不明だが、肌がチリチリと痛むほどのエネルギー密度が、「触れるな」と本能に警鐘を鳴らしていた。
あれが、天鋼級の武器か。
「よし、開けるか」
先輩は大剣を上段に構え、桁外れの魔力を刃に収束させる。
魔法による開門?
いいや、違う。
これは、もっと単純で、乱暴な――。
「ふんッ!!」
豪快な振り下ろし。
剣閃が、空間の座標そのものを断ち切った。
バキィンッ!!
分厚い氷盤を一撃で粉砕したような音が響き、眼前の空間に漆黒の亀裂が刻まれる。
物理で次元をこじ開ける。
いかにも、この人らしいやり方だ。
「先輩、生きてくれていて、ありがとうございました。三年間、よく頑張りましたね」
「生意気言いやがって……っ」
先輩は顔を背けた。
だが、震える肩までは隠せていない。
三年間。
異世界で、ただ一人。
誰も助けてくれない、逃げ場のない檻のような世界を、この人は生き抜いてきたのだ。
その重みを想像するだけで、奥歯が強く噛み締まる。
「……ありがとな、湊」
錆びついた扉をこじ開けるような声と共に、先輩は目元を乱暴にぬぐった。
短い別れの言葉。
けれど、そこには万感の思いが込められている。
「そうだ……沙織さんに俺も生きてるって伝えておいてください」
「おう! お前も、さっさと帰ってこいよ。向こうで美味い酒と飯用意して待ってるからな!」
先輩はニカっと笑うと、迷いなくゲートへと足を踏み入れた。
その背中は、以前よりもずっと大きく、分厚い壁のように見えた。
ゲートが閉じる。
後に残ったのは、静寂と、焦げ付いたようなオゾンの匂いだけ。
「……さて」
俺は一人、ダンジョンの天井を見上げた。
胸の中にぽっかりと空洞ができたような感覚。
だが、これは永遠の別れじゃない。
俺も必ず帰る。
そのための力は、既に手に入れた。
『マスター。……少し、寂しいですか?』
「馬鹿言え。これからはいつでも会えるんだ。さ、ホルム村に戻るか」
『マスター、進化に伴って私の権限も大幅にアップデートされてますから、今なら転移だってできますよ?』
「お、それは便利だな」
『慣れたら万象掌握で移動することもできると思いますけど――』
「いや、今回はお前に頼むよ。よろしく、相棒」
『――あっ……はい! お任せくださいっ!』
ナビ子が弾んだ声で応える。
瞬間、脳裏に鮮明なイメージが流れ込んできた。複雑な魔法陣、空間座標の重なり、転移までのプロセス。
いつも通り、あとは魔力操作をして、実行するだけ。
深く息を吸い、内なる魔力を指先に集める。
ナビ子から送り込まれたイメージをなぞるように、脳内で魔法陣を構築していく。
世界の構造、空間の座標、自分の存在の「位置付け」が鮮やかに輪郭を得る。
見えない糸が空間の縫い目を掴み、引き裂いて――
眼前に、淡い光を帯びた転移門が静かに開いた。
俺は一歩、空間の向こう側へと踏み出す。
重力感覚が一瞬だけ反転し、体中を柔らかな電流が駆け抜ける。
視界が白に染まり、何もかもが溶けたバターのように混ざり合う浮遊感。
次の瞬間――
鼻孔をくすぐる空気の匂いが変わり、足元に荒れた大地の感触が戻ってきた。
◇
――地球、日本。
東京都、西東京市の上空。
突如として発生した局地的な雷雲から、一つの影が堕ちた。
周囲の空間が悲鳴を上げ、大気が震える。
だが、男はそんな余波には構わず、眼下を見渡した。
「……懐かしいなぁ」
猪狩勝利は、しばし呆然と立ち尽くし、広がる街並みを目に焼き付けた。
回路基板のように整然と並ぶ、無機質なコンクリートの箱庭。
血管を流れる赤血球のように、忙しなく行き交う車の列。
夕日に照らされた団地の窓。
何一つ変わっていない。
異世界での三年間が嘘だったかのように、世界は平然と回っている。
「ははっ、なんだよ。全然変わってねぇな」
乾いた笑いが漏れる。
だが、目頭が熱くなるのを止めることはできなかった。
変わっていないことが、どうしようもなく嬉しい。
あの退屈で愛おしい日常が、まだここにあったことが。
三年。
長かった。あまりにも長かった。
死ぬよりも辛い孤独と、終わりのない殺し合いの日々。
それを乗り越えられたのは、ひとえに家族への渇望があったからだ。
「……さて、戻るか」
『システム通知:現在の位置情報を確認』
『ロケーション:地球』
脳内に響く無機質なアナウンスすら、今は心地よい音楽のように聞こえる。
『システム通知:所属世界の移動を検知しました。ホームを”地球”に更新しますか?(※ランキング情報が再計算されます)』
猪狩は、その問いの意味を深く考えなかった。
早く家に帰りたい。
沙織の顔が見たい。翔太を抱きしめたい。
思考の全てがそれで埋め尽くされている。
「あぁ、はいはい。更新、更新っと!」
涙で滲む視界のまま、彼は勢いよく空中の【はい】ボタンを叩いた。
『登録完了。ランキングを更新しました』
この軽率な決定が、世界を震撼させることになるとは、彼は夢にも思っていなかった。
それは、地球という小さなコップに、規格外の岩石を放り込んだ瞬間だった。
溢れ出した水のように、日本はおろか世界中の政府機関や探索者協会が大騒ぎになる中――当の本人は、マンションのエントランス前で、石像のように固まっていた。
手には、一本の鍵。
異世界に飛ばされたあの日からずっとインベントリにしまっていた自宅の鍵だ。
王になろうが、天鋼級探索者になろうが、自分が「帰る場所」を忘れないための楔。
何度も何度も、心が折れそうになった夜に、この鍵の硬く冷たい感触を確かめて耐えてきた。
だが、いざ本物のオートロックを前にすると、指が震えて鍵穴に狙いが定まらない。
(インターホンを鳴らすべきか? それとも、この鍵で開けて、玄関まで行ってから鳴らすべきか……?)
いや、いきなりオートロックが開いたら不審がられるか?
でも、インターホンで「俺だ」と言って、信じてもらえるのか?
三年だぞ。
「……どんな顔して帰ればいいんだ?」
世界最強の力を手に入れた男が、たかが自動ドア一枚の前で、迷子のように立ち尽くしていた。
◇
「ママー、今日の晩御飯なにー?」
息子の無邪気な声が、空洞のような夕暮れの住宅街に響く。
猪狩 沙織は、ビニール紐のように指に食い込むスーパーの買い物袋を持ち直しながら、隣を歩く息子に微笑みかけた。
「今日は翔太の好きなハンバーグよ」
「やったー!」
弾けるような息子の笑顔だけが、今の彼女の救いだ。
ダンジョンが発現して以降、探索者の行方不明は珍しくない。
夫も、三年前、迷宮深層でモンスターに遭遇し、そのまま“消息不明”となった。
法律上、彼はもう「死んだ」ことになっている。
さらに数か月前、夫のパーティ仲間だった湊さんまでもが行方不明になった。
最後に残っていた「夫との繋がり」さえも断ち切られ、沙織は本当の意味で孤立していた。
ふと、沙織は足を止め、買い物袋の中身を覗く。
ひき肉、玉ねぎ、パン粉。
そして、無意識にカゴに入れてしまった、一本の缶ビール。
(……また、買っちゃった)
夫が好きだった銘柄だ。
「今日は疲れたー!」と言って帰ってきた彼が、プシュッと音を立てて開ける姿が、今でも壊れたビデオテープのように何度も脳裏に再生される。
もう、飲む人はいないのに。
冷蔵庫には、そうやって「うっかり」買ってしまったビールが、何本も鎮座している。
「ママ? どうしたの?」
「ううん、なんでもない。……パパ、これ好きだったなって」
「うん! パパ、ビール飲むといつもお髭ジョリジョリしてきたよね!」
「そうね……」
周囲からは、「まだ若いんだから再婚すればいい」と言われることも増えた。
生活は楽ではない。
女手一つで息子を育てる重圧に、水中にいるように息苦しくなる夜もある。
本当は、もう二度と会えないかもしれない――三年も行方不明なら、誰だってそう思う。
だけど、気づけば、あの人のいない日常にも少しずつ慣れかけている自分がいる。それが一番怖かった。
冷たい恐怖が胃の腑に落ちる。慣れてはいけないはずなのに、寂しさも、悲しみも、時間とともに摩耗していく。
でも、それでも。
私の知っている猪狩 勝利という人は、どれだけ無茶をしても、必ず「ただいま」って、呆れるくらい自然に帰ってきてしまうのだ。
だから私は、期限切れのクーポンを捨てられない人のように、希望的観測だと分かっていながら、冷蔵庫のビールを捨てられずにいる。
「……ん?」
視界の端に、マンションのエントランスが映る。
そこで、沙織の足が止まった。
入り口のオートロックの前に、人影がある。
それも、異様な。
身長は2メートル近いだろうか。
堂々とした体格と上質なローブに身を包んだ、威厳のある男が立っている。
「……ッ」
沙織は反射的に翔太を背中に隠した。
不審者だ。
最近は探索者崩れの犯罪も増えていると聞く。
関わってはいけない。
そう判断し、引き返そうとした時だった。
「……ぅ」
その男から、微かな声が漏れた。
男は、オートロックの盤面の前で立ち尽くし、右手を小刻みに震わせていた。
その手には、何か小さな金属片――鍵のようなものが握られている。
鍵穴に差し込もうとして、止めて。
また差し込もうとして、引っ込めて。
まるで、拒絶されることを何よりも恐れているかのような、迷い子のような背中。
(あれ……?)
心臓が早まるより先に、視線が男の手元に吸い寄せられた。
男が握りしめている鍵。
そこについている、泥だらけのキーホルダー。
プラスチック板をトースターで焼いて作った、歪な形のプレート。
そこに描かれているのは、下手くそな似顔絵だ。
『パパ、おしごとのときは、これをもっていってね!』
『おう! これがありゃあ百人力だな!』
三年前。
翔太が幼稚園で作って、誕生日にプレゼントしたもの。
あの人が、「俺の宝物だ」と言って、どんな高価な装備よりも大切にしていたお守り。
「……まさか」
スーパーの袋を持つ指先から、急速に温度が失われていく。
ありえない。
だって、三年だ。
生きているはずがない。
でも、あのキーホルダーを持っている人は、世界に一人しかいない。
「ママ? あのおじちゃん、泣いてるの?」
翔太の声に、男の肩がビクリと跳ねた。
ゆっくりと、錆びついた機械のように、男が振り返る。
伸び放題の髭。
日焼けした肌。
顔にはいくつもの小さな傷跡がある。
少し、痩せただろうか。
記憶の中の夫とは、随分と様変わりしてしまっている。
けれど。
困ったように眉を下げて、今にも泣き出しそうなその表情は、あの日のままだった。
「……あ、いや。その、なんだ」
男は――勝利は、しどろもどろに言い訳をするように、鍵をぎゅっと握りしめた。
「鍵、うまく刺さらなくて……。あと、いきなり帰ると驚かせちまうかなって……」
それが、三年ぶりの第一声だった。
世界最強の力を手に入れた男が、たかが鍵穴ひとつのことで、子供のように怯えている。
沙織の手から、力が抜けた。
ドサッ、と。
重力に従って買い物袋が落ちる。
ハンバーグを作るために買った卵が、地面で潰れる湿った音が、静寂を切り裂いた。
「あ……、あ、な……た?」
視界が水膜で歪み、何も見えなくなる。
喉の奥が熱く焼けて、言葉にならない嗚咽が漏れた。
「パパ!!」
状況を理解するよりも早く、翔太が叫んだ。
子供の本能が、目の前の巨人を「父親」だと認識したのだ。
翔太は沙織の横をすり抜け、全速力で男の懐へと弾丸のように飛び込んだ。
「パパだ! パパだぁぁぁ!!」
「……っ、おう、翔太。大きくなったな……!」
勝利が膝をついて息子を抱きしめる。
その目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出していた。
三年間、何をしていたのか、私には分からない。
でも、今ここにいるのは、間違いない。
ただの泣き虫な、私の、愛しい人だ。
「あなた……っ、馬鹿……ッ!!」
もう、我慢できなかった。
沙織も駆け寄り、二人を包み込むように抱きついた。
「鍵なんて……っ! 開けて入ればいいじゃない……っ! ここはずっと、あなたの家なんだからぁ……!!」
「ごめん……ごめんな、沙織……っ」
泥の匂い。
鉄の匂い。
そして、懐かしい夫の匂い。
確かな体温が、そこにあった。
夕暮れのマンション前。
再会した家族の泣き声が、いつまでも響いていた。
それは、世界で一番温かい、日常への帰還だった。
◇
ホルム村に転移した俺は、村人たちの出迎えを受けていた。
「湊様! お帰りなさいませ!」
「おじちゃん、お帰り!」
村長のユルダをはじめ、ポポやガル、村のみんなが集まってくる。
その温かい光景に、頬が緩む。
「あぁ、ただいま。……ん?」
ふと、人混みの奥に違和感が小骨のように刺さる。
村人たちが、どこか恐縮しているというか、強張った空気を漂わせているのだ。
「どうした? 何かあったのか?」
俺が尋ねると、ユルダが困ったような、それでいて畏れ多いような顔で口を開いた。
「は、はい。実は、湊様にお客様がお見えでして……」
「客? こんな辺境にか?」
誰だろうか。
バルガス男爵の関係者か、それとも商人か。
どちらにせよ、村人たちを怖がらせるような奴なら追い返さなきゃな。
そんなことを考えながら、俺は案内された集会所へと足を向けた。
扉を開ける。
そこにいたのは――。
「あら、遅かったじゃない。待ちくたびれたわよ?」
粗末な木の椅子に、まるで玉座のように優雅に腰掛ける美女。
燃えるような深紅のドレス。
黄金の装飾。
そして何より、その場にいるだけで空間の酸素濃度が変わってしまったような、圧倒的な「格」。
「……は?」
思考のブレーカーが落ちる。
なんで。
どうして。
「エ、エレオノーラ……!?」
「ふふ、ごきげんよう、ミナト。会いに来ちゃった」
彼女は妖艶に微笑むと、ゆっくりと立ち上がり、俺へと歩み寄ってきた。
その瞳は、獲物を捕らえた肉食獣のように、昏く、怪しく輝いている。
「お話、しましょう?」
孤独って人を殺す力があると思います。
そんな中、愛しい人たちに会うために三年間も死ぬ思いをしてきた先輩。
そりゃ手が震えて鍵は刺せませんよね。
良かった、会えて。
お帰りなさい。
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