第48話 おじさん、人間やめてるってよ
「……借り、ですか?」
問い返した俺の視線の先で、先輩がバツが悪そうに頬を掻く。
「あぁ、ちょっと面倒な奴にな」
「はぁ」
肺の空気が、頼りない音を立てて抜けていく。
思わず、気の抜けた声が出てしまった。
「隣国にゼノビア帝国ってあるんだがな、そこの皇帝に探索中に何回か命を助けられててな。戦闘狂なのか、定期的に戦えって言われてんだよ」
「なんすかそれ。……そいつ、強いんですか?」
「あぁ。赫金級でも上位クラスだな。だけど、長年天鋼級の壁が超えられてないらしく、そこを乗り越えた俺と戦って何かを掴みたいんだとさ」
鼓膜を揺らす声色は軽い。
けれど、吐き出された言葉は鉛のように重く、部屋の空気を沈殿させていく。
このままでは、先輩は帰れない。王としての責務と、皇帝からの要求。二つの鎖が、目の前の男を雁字搦めにしている。
なんとかできないだろうか。
ワームログを使えば、地球の座標は特定できるかもしれない。だが、それだけでは足りない。先輩を繋ぎ止める鎖を、物理的に断ち切る必要がある。
俺は視線を中空へ彷徨わせ、すがるような思いで脳内のナビ子へ意識を向けた。
(ナビ子。今の俺って、ダンジョンの外だとどのくらいの強さだ?)
『現在のマスターは、ダンジョン外出力で赫金級なりたて、Lv.800相当のステータスです』
相手は赫金級の上位。流石に厳しいか。
『赫金級に到達している探索者は戦闘経験も豊富です。恐らくですが、現時点では、赫金級上位の探索者と戦えば、マスターが敗北する可能性が濃厚です』
耳の奥が、じりっと熱を帯びる。
胸の底に、細い棘がねじ込まれたような痛みが走った。
勝てない。
勝てないと、先輩が帰れない。
「……俺が、もう少し強くなれば」
思考より先に、言葉が漏れ落ちた。腹の底にあった熱が、勝手に形を成す。
「そういえば!」
その独り言を拾い、先輩が反応した。
軋む音を立てて、巨体が椅子から身を乗り出してくる。
「湊、なんかやたら強くなってるらしいじゃねぇか! どういうことなんだ?」
「いえ、それは……誤解というか、なんというか」
俺は慌てて手を振った。
誤解を解くために、ここ最近起きた出来事を順に説明していく。
完全手動が原因で起きた変化のこと。
仇であるワームをぶち殺す過程で、この世界に来てしまったこと。
廃棄地域にある村で生活していたこと。
話を終えると、先輩は呆れたように息を吐いた。
「なんだ、そりゃ。相変わらず変な奴だな、お前は」
「まぁ、先輩ほどではないですけど」
「なんでだよ!」
「異世界に来て、王様になってたり、天鋼級になってたり?」
「そ、それを持ち出すのはずりぃだろ! 王様に関しては、俺だってなりたくてなったわけじゃねぇからな!」
「どうですかね。昔から目立ちたがり屋なところあったからなぁ」
心底嫌そうな呻き声が、鼓膜を震わせる。
先輩の顔に張り付いているのは、既視感のある表情だ。
かつて地球のダンジョンで道に迷った時と同じ。「こっちが正解だ!」と自信満々に断言したのに、俺のマッピング通りに進んだら逆方向が正解だった時。
あの時も、こんな風に眉間を寄せて、バツが悪そうに口を尖らせていた。
ここが異世界の王城で、目の前の男が最強の探索者で、一国の王だなんて嘘のようだ。
交わす言葉のテンポも、空気感も、あの頃と何も変わらない。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
あぁ、俺は本当に、この人に会えたんだ。
口元が勝手に緩んでしまうのを隠すように、俺は冷めかけたお茶を喉に流し込んだ。
先輩は咳払いを一つして、王の声色を取り戻す。背筋を立てたというより、勢いで形だけ整えた感じだ。
「まぁでも、ダンジョン外で赫金級同等の出力が得られるのは分かったが、それだけじゃあ勝てねぇだろうな……」
先輩の鋭い眼差しが、俺を射抜く。
「湊。お前、探索者の間で『秘銀級以上は人間を辞めてる』って言われてたの知ってるか?」
「えぇ、まぁ。あそこまでいくと人外だろ、みたいな話ですよね」
「あれ、比喩じゃねぇんだよ」
先輩は、とん、と自分の分厚い胸板を指先で叩いた。
「レベルが500を超えた瞬間、人間は人間じゃなくなる。魂の格が上がって、肉体そのものが作り変えられちまうんだ。こっちじゃ『種族進化』って呼ぶらしいがな」
「……種族、進化?」
「あぁ。ある者はより強靭な『鬼』へ、ある者は魔力を極めた『精霊』へ。俺の場合は、肉体がオリハルコン並みの硬度を持つ『金剛羅刹』ってのになった」
「……でも、ぶっちゃけそんな変わったようには見えませんけど」
俺の視線が、先輩の身体をじろじろとまさぐる。
凄まじい筋肉の鎧。けれど、腕が四本あるわけでも、角が生えているわけでもない。
「そりゃ普段は魔力を抑えて、人の姿に擬態してるからな。本気の姿……『顕現』すりゃあ、また別だ」
先輩はポリポリと頬を掻き、さらに言葉を継いだ。
「それに、Lv.1000を超えると更に変化する。もう半分神様みたいなことができるようになる」
「はぁ……神様ですか。先輩が?」
正直な感想が口をついて出た。目の前の男は、どう見ても神々しさとは無縁の、ただの脳筋だ。
「おい、なんだその目は。……まぁ、いい。お前だけだよ、俺をそんな風に見てくれるのは」
文句を言いながらも、先輩は嬉しそうに口の端を吊り上げている。
この国では、誰もが彼を「英雄王」として崇め奉る。対等な目線で、呆れたり、疑ったりしてくれる相手はもういないのだ。
「ま、難しい話は今はいいか。要は、秘銀級以上は本当の意味での化け物なんだよ。だから仮に出力が同程度だったとしても、多分勝てねぇ」
突きつけられた言葉に、胃の腑が冷たく縮み上がる。
化け物。先輩はそう言った。
だが、目の前で笑っている先輩は、昔と少しも変わらない。
定食屋で愚痴を言い合って、奥さんの手料理自慢をして、子どもの写真を見せてくれた、あの頃のままだ。
そんな人が、人間じゃないなんてことがあるのだろうか。
「……」
「だからお前も、覚悟しとけよ。その『自律進化』ってのがどこまで行くかは知らねぇが、お前もいずれ、人間じゃなくなる時が来るかもしれねぇ」
深刻そうな顔で、先輩が俺を指さす。
その言葉の重みを感じながら、俺は自分の身体を見下ろした。
「……あー、そういう意味だと、俺もう人間辞めてるかもしれません」
「はぁ?」
先輩の手が、ピタリと止まる。
数秒の硬直の後、頭上から素っ頓狂な声が降ってきた。
「肉体が作り変えられたって意味なら、もうとっくに。自律進化が付与されたときに内臓とか筋肉とか、全部」
(だよな、ナビ子?)
『はい。一般的な種族進化とはプロセスが異なりますが、マスターの肉体構造は既にホモ・サピエンスの定義から逸脱しています』
さらっと肯定された。
『ですがご安心を。生殖機能等の重要器官は保存されていますし、遺伝子配列も模倣していますので、人間との交配も可能です』
(いや、その情報は今いらないけど……)
俺の視線が虚空をさまよっている間に、理解が追いついたのだろう。
ガタっと椅子が鳴いた。
「なんだそれ、大ごとじゃねぇか!」
不意に、視界が影に覆われる。
身を乗り出してきた先輩が、俺の頬や腕をペタペタとまさぐり始めた。
「おい、痛みはあるか? 飯の味はわかるか? 女にムラムラするか?」
「全部ありますって。……っていうか、それを言うなら先輩も同じでしょう。そんなに心配しなくても」
「あぁ、それもそうか」
先輩はあっさりと手を引いた。
「いや、湊の場合、どっからどう見てもただの人間だったもんでな」
「それを言うなら、先輩だってそうですよ」
「……あぁ、そうか。違いない」
二人の間に、一拍置いて笑いが弾けた。
お互いに、システム的にはもう「ヒト」の枠組みから外れているのかもしれない。
けれど。
「……ま、大事なのは中身ってことですかね」
「おう。俺たちは、どこまで行っても『元・人間』だ」
「いや、先輩と違って俺は現人間を自認してるんですがそれは」
「おい、急にはしごはずしてんじゃねぇよ!」
ひとしきり笑い合った後、俺たちは同時に息を吐いた。
張り詰めていた空気が緩み、心地よい沈黙が降りる。
だが、問題が解決したわけではない。
俺は温くなった紅茶を一口啜り、居住まいを正した。
「話を戻しますが、『借り』をチャラにするために、何回戦うとか決めてないんですか?」
太い指先が、ガシガシと乱暴に後頭部を掻き回す。
先輩はバツが悪そうに視線を逸らして、呻いた。
「うーん、そこなんだよなぁ。何回というか、あいつとは腐れ縁だし、探索中に何度も命を助けられちまってるからなぁ……」
「ただ、俺が異世界から来たってのは伝えてある。だから、帰る方法が見つかったら、もう付き合えねぇぞとは言ってあるんだが」
「なら、何も言わずに帰っちゃってもいいんじゃないですか?」
「バカ言え。さすがに世話になった奴に何も言わず帰るのは人としてやべぇだろ」
「あー……確かに」
さすがにそれは不義理すぎるか。
……ん?
「いや、でもそもそも、この国の王様がいきなりいなくなって大丈夫なんですか?」
「あぁ、そこは問題ねぇ。俺はあくまで『雇われ社長』みたいなもんだからな。元々、探索に行ってる時間の方が長ぇくらいだ。政治の実務は宰相たちが回してるし、次の王候補も育ててある。それに、俺が王になったときと違って、今は内乱も鎮まって国は安定してる」
「へぇ……準備万端っすね」
「当たり前だろ。いつか帰るつもりだったんだからな。それに、湊が貸してくれたワームログのおかげで座標さえわかりゃ、またこっちに来ることだってできるだろうしな」
先輩は、遠くを見るような目で言った。
「なら、本当にあとは皇帝の相手だけなんですね」
「あぁ、あと何回か戦って満足させれば、流石に満足させられるだろ」
先輩はニカっと笑った。
「俺が助けになれればいいんですが、流石に今のレベルじゃ厳しそうです」
「気にすんなよ! ってかこのアイテムが無かったら帰れなかったんだからよ。何でも言う事聞いてやるぜ」
豪快な笑い声が、不意に途切れる。
何かを閃いたのか、先輩がポンと手を打った。
「あ、そうだ。湊、勉強になると思うから皇帝と手合わせするとき見に来るか? 進化した俺の力を見せてやるよ!」
「え、いいんですか? ぜひ見たいです!」
俺が身を乗り出すと、先輩は満足げに頷いた。
胸の奥で、熱い塊が暴れ回る。
探索者にとっての雲の上、人類の到達点とも言える赫金級と天鋼級。
「人間を辞めた」者同士が本気でぶつかり合う光景とは、一体どんなものなのか。
それは単なる武術の試合なのか、それとも神話に出てくるような天変地異の再現なのか。
想像するだけで、指先の感覚が鋭敏になる。
未知への好奇心と、これから自分が踏み込むかもしれない領域への畏怖。
その光景をこの目に焼き付けられる機会なんて、そうそうあるものじゃない。
「じゃあ、その時になったらまた連絡する。バルガスを通して連絡が届くようにしとく」
「あ、はい。お願いします」
俺が頷くと、先輩はふと顎に手を当てた。
何か引っかかることでもあるのか、眉間に皺を寄せて思案顔になる。
「……バルガス、か」
「どうかしました?」
「いや、あいつの名前を出して思い出した」
先輩はポンと手を打って顔を上げた。
「そういえば、もともとスタンピードを抑えた功績で廃棄地域の領主にするって話だったな」
「あー……そういえば、そうでしたね」
すっかり忘れていた。
この城に呼び出された当初の目的は、論功行賞だったはずだ。
あまりに濃い時間が過ぎ去りすぎて、遠い昔のことのように感じる。
先輩は椅子の肘掛けに頬杖をつき、改めて俺を見定めた。
「湊も既に理解してるとは思うが、この世界ってのは強い奴が正義。ヴィクトリアの王としてはお前が領主になるなら願ってもねぇことだ。だが、あそこは何もない場所だぞ? 本当に要るのか?」
「何もないなんてこと、ないですよ。あそこには俺を助けてくれた村の人たちがいるんです。あそこ、行政サービスが届いてないのに、金だけ取られてました。徴税官が来るたびに揉める。……あれ、面倒なんで、全部まとめて俺の管轄にしたいんです」
俺は即答した。
「ふむ……。なら、俺の権限でその村人たち全員を王都に住めるようにしてもいいが? 居住区と当面の生活資金くらいならすぐに用意してやれるぞ」
先輩の提案に、俺は少し考え込んだ。
確かに、設備も整った王都の方が、生活はずっと楽だろう。安全面も保証される。
「……その方がいいかもしれませんね。一度、村に戻ってみんなに聞いてみます」
「おう、そうしてくれ。もし、住み慣れた場所がいいってなら、予定通りお前を領主にする方向に進めるさ」
先輩の声から、温度が消えた。
顔を上げると、先輩は試すような、それでいてどこか厳しい眼差しで俺を見ていた。
「さっきも言った通り、この世界じゃ強い奴が正義だ。力を持ったお前なら、その気になれば何だってできる。徴税官を追い払うどころか……村に理不尽を強いたムカつく奴を殺したりも、な。その力の使い方は自由だ」
その言葉の裏には、重い問いかけが含まれている。
『人間』でいたいなら、よく考えろよ。
そう突きつけられた気がして、俺は思わず背筋を正した。
「少なくとも俺は、殺したりしませんよ。村の人達は分かんないですけど」
「おう。好きにしたらいい。でも、お前もいずれは地球に戻るんだろ?」
「えぇ、そのつもりです。……でも、だからこそ、俺が帰った後も、安心して暮らせる土台を作ってやりたいんです」
脳裏に、村の人たちの顔が浮かぶ。
金属片を拾い集め、泥水を啜りながらも、明日を信じて笑っていた彼ら。
何も知らなかった俺に、生きるための術を教えてくれた彼ら。
「村のみんなには、本当にお世話になったんで」
「……義理堅いな、お前も」
先輩はニヤリと笑うと、ポンと手を打った。
「なら、予定通り廃棄地域の領主として任命する場合の話をしよう。まず、税金なんかは免除する」
「え、いいんですか? 流石にそれは反発が……」
「反発なんてねぇよ。廃棄地域からの税金なんて、元から期待されてねぇし。建前はいくらでも作れるからな。『ダンジョンからのモンスター対応』と『帝国との国境警備』を一手に引き受ける特別自治区ってことにすりゃいい。面倒な雑務は全部免除だ」
「なるほど」
先輩の説明に、俺は納得して頷いた。
「その代わり、帝国が攻めてきたり、スタンピードが起きたりした時は、近隣の領主と協力して対処するようにしてくれ」
「わかりました。まぁ、やらないと自分たちの命がないから心配ないとは思いますけど」
「そりゃそうか。違いねぇ」
先輩は豪快に笑い飛ばすと、話題を切り替えるように手を振った。
「で、どうするか決まったら連絡をくれ」
「あ、はい。分かりました」
「ちなみに、今日はどうする? 泊ってくか?」
「いや、村に帰ります。まだ少し不安なんで」
俺が首を振ると、先輩は少し残念そうに、けれど納得したように頷いた。
「そうか。ま、お前ならいつでも来ていいぞ。転移門を使うのは警備上難しいかも知れんが……お前くらいのレベルなら、空を飛んで移動することもできるだろ?」
「まぁ、それくらいは」
「よし、この後、位置関係を教えてやるから、好きな時に来てくれていいからな」
先輩はそう言って、改めてニカっと笑った。
その笑顔は、かつて居酒屋で「またな」と手を振った時と変わらない。
立場も、場所も、そして肉体の構造すら変わってしまったけれど。
俺たちの関係だけは、あの頃のままそこに在った。
俺は深く頷き、力強く言葉を返す。
「はい。……また来ます、先輩」
こうして、異世界での奇妙な再会は幕を閉じた。
新たな目的と、心強い味方。
そして何より、「一人ではない」という確かな温もりを胸に抱いて。




