第33話 小さな手のひらの宝物
本日、18時に二本目更新します。
東の空が白む前。
まだ夜の帳が下りている頃、ホルム村は、かつてないほどの静寂と安息に包まれていた。
一ヶ月前までのこの村は、死体置き場のような場所だった。
泥水をすすり、寒さに凍えて身を寄せ合う。明日の朝、誰が冷たくなっていないか怯える日々。
だが、今は違う。
「……んご」
「寝相わりぃな、ポポのやつ」
ガルの家のベッド――乾燥した藁の上に清潔な布を敷いただけのものだが――で、ガルは苦笑しながら身じろぎした。
腹の上に、温かい重みがある。
見下ろせば、七歳になる少年のポポが、ガルの腹に足を乗せて熟睡していた。
喉の奥で潰れたような寝息を立てている。
村には、まだ大人の男手も不足している。夜はこうして身を寄せ合って眠るのが常だった。
だが、その「身を寄せ合う」意味は変わっていた。
かつては体温を分け合わなければ凍死するから。今は、寂しくないように、という温かい理由だ。
「……あったけぇな」
布団を引き上げ、ポポの肩まで掛けてやる。
隙間風は、湊が補修してくれた壁のおかげで入ってこない。
腹の中には、夕食に食べた干し肉と野菜のスープが、まだ熱源として残っている。
清潔な水で体を拭き、清潔な服を着て眠る。
こんな当たり前のことが、涙が出るほど贅沢だと知った。
(師匠……)
ガルは、この生活をもたらした「神様」のような男の顔を思い浮かべる。
出会った当初、俺は彼に噛みついた。「お前のせいで食い扶持が減った」と罵り、敵意を剥き出しにした。
今思えば、あれは自分の無力さを認めるのが怖かっただけだ。誰かを守れない自分への苛立ちを、余所者にぶつけていただけだった。
だが、あの人は怒らなかった。
謝罪した俺に、彼は呆れたように笑って、こともなげに言ったのだ。
『お前は皆の兄貴として、守ろうとしてただけだろ。そういう奴は必要なんだよ』
その言葉が、凍えきっていた胸の奥に、熱いスープのように沁み渡ったのを覚えている。
俺の虚勢も、警戒も、すべては家族を守るための必死な足掻きだったと、彼は認めてくれた。泥水をすするようにして守ってきた小さな誇りを、肯定してくれたのだ。
生きる術だけじゃない。俺はあの人に、魂まで救われたんだ。
数日前、彼はふらりと村を出ていった。「リハビリ」だなんて言って、いつものように飄々と。
たった一人がいなくなっただけ。それなのに、ふとした瞬間に視線が彼の背中を探してしまう。
「……早く帰ってきてくれよ、師匠」
誰も聞いていない闇の中で、俺は小さく本音をこぼす。
あの人がいないと、村の空気はこんなにも静かで、心細い。
「ん……みなと、おじちゃん……」
ポポが寝言を漏らし、何かを抱きしめるように体を丸めた。
その腕の中には、彼が片時も離さない「宝物」がある。
以前、湊が気まぐれにくれた、ロックタートルの甲羅だ。綺麗に磨き上げられ、宝石のような光沢を放っている。
「……お前も、強くなりてぇんだな」
ポポは言っていた。
この甲羅はただの器じゃない。湊のおじちゃんみたいに、強くて優しい男になるための「勇気の石」なんだ、と。
少年の頭を優しく撫で、再び眠りに就こうと目を閉じる。
明日もまた、トトたちと訓練がある。
もっと強くなって、師匠を驚かせてやるんだ。そしていつか、俺たちが師匠の背中を守るんだ。
そんな、幸福な未来を夢見ていた。
◇
異変は、唐突に訪れた。
「――敵襲ッ!! 総員、起きろぉッ!!」
見張りの怒声が、まどろみを強制的に引き剥がした。
俺は弾かれたように飛び起き、枕元の剣を掴む。
長年の過酷な環境で培われた危機察知能力が、脳髄に警報を鳴らしていた。ただ事ではない。
「ポポ! 起きろ! 避難だ!」
「……う、ん……お兄ちゃん?」
「いいから立て! 姉ちゃんのところへ行け!」
眠い目をこするポポの背中を押し、家の外へと放り出す。
外に出た瞬間、鼻をついたのは強烈な獣臭だった。
朝霧の向こうに、光るものがあった。
赤い瞳。
闇に浮かぶ炭火のように、ゆらゆらと揺れている。
黒狼だ。
三匹の獣が先兵のように、霧の中から姿を現した。
「ひっ……!」
「落ち着け! 陣形を組め!」
トトが錆びた剣を構えて前に出る。
リリが、ザザが、ピピが、それぞれの武器を手に取って続く。
本来なら、恐怖で足がすくむ場面だ。だが、不思議と体は震えていなかった。
(やれる。俺たちは、師匠に力を貰ったんだ!)
アドオンによる身体能力の向上。
俺は湊から新しく授けてもらった剣を握りしめ、先頭の黒狼に躍りかかった。
「らぁぁッ!」
腕に、確かな手応えが伝わる。
肉を断ち、骨を砕く感触。
軽い。泥の中を歩くようだった以前とは違う。錆びついた鎖が外れたように、体が前へと出る。
「すげぇ……!」
「いけるぞ! これなら守れる!」
トトが剣で斬り裂き、ピピが正確無比な弓で目玉を射抜く。ザザがタワーシールドで牙を受け止める。
連携は完璧だった。
瞬く間に、数匹の黒狼が沈黙する。
俺たちは強い。村を守れる。
そう、確信した瞬間だった。
「……嘘だろ」
誰かの絶望的な呟きが漏れる。
霧が晴れていくにつれ、俺たちの表情が凍りついた。
倒した死骸の奥。
戦闘によって少し霧の晴れた視界の先に、無数の赤い瞳が浮かび上がっていたのだ。
二十……いや、三十に届くかもしれない。
この辺境の村を襲うにしては、あまりにも過剰な戦力が、そこには控えていた。
「くそっ、こいつら! 前に来たときとは数が違うぞ!」
俺は叫び、剣を構え直す。
トトが弾き返し、ザザが押し留めるが、敵の圧力は増すばかりだ。
「……あぁ、そうか」
不意に、背後でリリの声がした。
彼女は蒼白な顔で、村を囲むバリケードを見上げている。
「あの人は……湊様は、これを見抜いていたのね……!」
あの日。黒狼の群れを撃退した後、師匠はなぜか急いでバリケードを強化させた。
使っていない家屋の床板を剥がさせてまで築き上げた、無骨で巨大な防壁。
当時は「そこまでしなくても」と思ったが、あの人は分かっていたのだ。
本当の脅威は、あのはぐれ黒狼たちではなく、その後ろから来る「これ」だと。
「下がるぞ! バリケードの内側へ!」
「避難壕へ! 子供と老人を先に!」
ユルダ村長の指示が飛ぶ。
戦線が維持できない。個々の力は上がっても、圧倒的な物量差はいかんともし難かった。
「くそっ、退け! 退けぇッ!」
俺は殿を務め、剣を振り回しながら後退する。
村人たちがパニックになりながらも、村の奥にある簡易的な避難壕へと走っていく。
ポポも、姉のピピに手を引かれて必死に走っていた。
その時だ。
「あっ」
ポポが何かに躓き、転んだ。
その拍子に、懐から「何か」が転がり落ちた。
乾いた硬質な音が、不自然なほど鮮明に響いた。
あの甲羅だった。
「だめッ!」
ピピの静止を振りほどき、ポポは反射的に逆走した。
宝物。
それを失くしたら、自分はまた弱虫なポポに戻ってしまう。そんな強迫観念があったのかもしれない。
あるいは、ただ純粋に、師匠との絆を守りたかっただけなのかもしれない。
「ポポ! 戻れ!」
思考よりも速く、俺は声を張り上げていた。
焦燥が、喉を焼き切るように駆け抜ける。
ポポは小さな手で甲羅を拾い上げ、安堵の表情で振り返った。
「あった! お兄ちゃん、これ――」
その直後。
巨大な影が、少年を覆い隠した。
群れを率いる、一回り大きな黒狼。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
地面を蹴った。
喉が張り裂けんばかりに叫び、手を伸ばす。
届く。届け。頼むから届いてくれ。
師匠、力を貸してくれ。俺に、あの子を守る速さをくれ。
だが。
現実は、物語のように美しくはなかった。
指先がポポの服にかするよりも速く。
黒色の閃光が、宝物を抱え込んだ小さな体を弾き飛ばした。
硬いものが砕ける乾いた音が、鈍い衝撃音に混じる。
まるで壊れた人形のように、ポポが宙を舞い、地面に叩きつけられる。
その手には、砕けた甲羅が握りしめられたままだった。
「ア、ガァァァァァァァッ!!」
ガルは咆哮し、黒狼の脳天に剣を叩きつけた。
一撃で頭蓋を粉砕する。
だが、遅かった。
あまりにも、遅すぎた。
「ポポ! ポポッ!」
駆け寄ったピピが悲鳴を上げ、その体を抱き起こす。
その体は、まるで壊れた人形のようにぐったりとしていた。
胸が、不自然な形に陥没している。
あばらが砕け、内臓ごと押し潰されたのだと、一目でわかってしまった。
致命傷。
口の端からごぼりと血の泡が溢れる。
誰の目にも、助からないことは明らかだった。
「お、お兄、ちゃん……ごめん……なさい」
ポポの声は、血で詰まっていた。
謝るな。なんで謝るんだよ。悪いのはお前じゃない。守れなかった俺だ。
言いたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。
「ばか! そんなもん……! 師匠に頼めば、いくらでも代わりなんて――」
「だめ……これは……ぼくの……」
ポポの手が、弱々しく俺の服を掴む。
その小さな手の中で、砕けた甲羅がジャリと音を立てた。
あの日、泥水をすするしかなかった俺たちに、初めて「人としての生活」を教えてくれた証。
勇気を持てと、背中を押してくれた魔法の証。
「……お母さんが、言ってたの。……勇気があれば、何でもできるって……」
「あぁ、そうだな。勇気があるお前なら助かるからよ……!」
「おじちゃんとの、約束……守れなかった……」
焦点が合わなくなっていく瞳が、宙を彷徨う。
急速に体温が奪われていくのが、抱きしめた腕越しに伝わってくる。
「ねぇ、お兄ちゃん。……僕、お母さんに会える? ……いっぱい、ご飯たべたよ。……大きく、なったよ……」
「……あぁ。会える。会えるに決まってるだろ……!」
嘘でもいい。今はただ、この子を安心させてやりたかった。
喉の奥が熱くて、焼けるように痛い。
「そっかぁ……。……じゃあ、お母さんに、教えてあげなきゃ……」
ポポの口元が、わずかに緩んだ。
痛みも、恐怖も、もう感じていないようだった。
最後に彼が見たのは、絶望ではなく、大好きな家族の笑顔だったのかもしれない。
「……神様って……神様の姿ってーー」
糸が切れたように。
抱きしめていた力が抜け、小さな手が地面に落ちた。
握りしめられていた甲羅が転がり、朝日に照らされて虚しく輝いた。
「ポポオォォォォォォォォッ!!」
慟哭は、冷たい朝の空気に溶けて、誰にも届かずに消えた。
◇
喉の奥で鉄の味がするほどの全速力で村に飛び込んだ時、そこには異様な光景が広がっていた。
モンスターの群れは、すでに全滅していた。
村人たちが決死の覚悟で撃退したのだ。村の広場には、無数の黒狼の死体が転がっている。
だが、村を包んでいたのは、勝利の歓声ではなかった。
呼吸音すらうるさく感じるほどの、重苦しい沈黙。
「……何があった」
錆びついた蝶番のような声が出た。
村の中心に、人だかりができている。
俺が近づくと、村人たちが無言で道を開けた。
そこに、小さな膨らみが横たわっていた。
布を掛けられた、小さな体。
「……おい、ポポの姿が見えないが」
分かっていた。
分かっていて、俺はあえて口にした。
間違いであってくれと、心のどこかで縋りながら。
その場に膝をついていたガルが、俺の足元に崩れ落ちた。
「……守りきれなかった」
「…………」
「師匠に……せっかく強くしてもらったのに……! ごめんなさい……ごめんなさいッ!」
ガルは地面に額を擦り付け、血を吐くように謝罪を繰り返した。
その横で、ピピが遺体に縋り付いて泣き崩れている。
「リリ」
「……みなと、さま……」
「どうして、こうなった」
リリは泣き腫らした目で、俺を見上げた。
そして、震える手で、血に濡れた欠片を差し出した。
「……これを。あなたが下さった甲羅を……取りに戻ったんです」
俺は、その欠片を受け取った。
俺が食器代わりに取ってきたロックタートルの甲羅。
こんなもののために。
「……そんなもん」
視界が水底に沈んだように歪む。
熱いものが頬を伝い、甲羅の上に落ちる。
「いくらでも取ってきてやるのに、よぉ……ッ!」
手の中で、甲羅を握り潰そうとして――止めた。
これは、あの子が命を賭けて守った宝物だ。俺にとってはなんてことのないモノでも、あの子にとっては勇気の証だったんだ。
それを、俺の感情で壊すことなどできない。
「……あったけぇよ。なぁ、ポポ……」
ガルの壊れたような呟きが、静寂に響く。
彼はポポの冷たくなった頬に自分の頬を擦り寄せ、まるで子供をあやすように揺れていた。
「お前はいつだって、あったけぇな……」
まるで、ただ眠っている弟を慈しむような響きだった。
だが、その腕の中にある小さな体からは、もう生命の温もりは感じられない。
ガルは必死に自分の体温を分け与えようとしているが、ポポの体は冷たくなっていく一方だ。
その理不尽な温度差が、胸を鋭利な刃物で抉る。
ピピが、声にならない悲鳴を上げながら、過呼吸のように肩を上下させている。
現実を受け入れられず、ただポポの手をさすり続けるリリ。
誰もが、この理不尽な喪失の前で立ち尽くしていた。
行き場のない怒りで、拳が震える。
Lv.388。圧倒的な力。異常な成長速度。
だが、そんな数字に何の意味がある?
たった一人の子供も救えないで、何が「自律進化」だ。何が「神様」だ。
俺は歯を食いしばり、慟哭する村人たちの輪の中で、ただ立ち尽くすしかなかった。
冷たくなったポポの小さな手は、もう二度と、俺の指を握り返してはくれない。
ただ一つ。
あの子が遺した砕けた甲羅だけが、俺の手のひらに痛いほど突き刺さっていた。
この日、俺は本当の意味で、この世界の「理不尽」を知った。




