35 フェリクスが仕える人物
フェリクスの人生で、あれほど緊張したことはない。
次期宰相として認められるために受けた試験の日も、正式に認められて貴族たちの前で陛下からのお言葉を賜った時も、心が揺れることは一度もなかった。
たった一人の女性に愛を伝えるということがこれほど難しく、動揺するとは全く思っていなかったのだ。
情けなくも肝心なところで息が吐ききれず、ちゃんと声が出せなかったことをフェリクスは後悔している。
(メアリにはちゃんと聞こえていただろうが……いや、これからまた伝えていけばいい)
結果的にメアリと想いを通じ合わせることができたのだ。
今はその喜びをかみしめることに決め、フェリクスは普段通り仕事をこなしていく。
いや、普段以上に絶好調だ。アルフォンスとマクセンの視線がやたら突き刺さってくることに気づいたフェリクスはふと顔を上げた。
「マクセン。フェリクスはずいぶんと機嫌が良さそうじゃないか。彼に何かいいことでもあったのかな?」
「それがですね、詳しいことはわからないのですが近頃いつもにも増してメアリ様との仲が甘酸っぱいのですよ」
「へぇ! それは朗報だな。妹たちが心配していたけれど、ついにフェリクスがメアリ嬢に愛を告げたのかもね」
「間違いないと思いますね」
「ごほん、ごほんっ!」
あえてこちらに聞こえるよう、これみよがしに話題を出す二人にフェリクスもまたわかりやすく咳をした。
「実際どうなの、フェリクス? 私もマクセンも、君のことが心配なんだよ。メアリ嬢に愛想を尽かされやしないかってさ」
「ご心配なく。メアリとの仲はいたって良好ですので」
「愛してるって言ったの?」
「お答えする義務はございません」
「出たよ。いいじゃない、ちょっとくらい教えてくれたってさ。まぁいいや。妹たちから聞こうっと」
アルフォンスの言葉を聞いて、フェリクスはグッと言葉に詰まる。
もしかするとメアリは王女殿下方に聞かれたら素直に答えてしまうかもしれない。いや、間違いなく伝えているだろう。
さらにおしゃべり好きな王女殿下方なら嬉々として兄であるアルフォンスに話すに違いない。
そうなれば必然的に両陛下にも、さらには父ウォーレスにも伝わるのは時間の問題だ。
もはや口止めすら意味をなさない。フェリクスは諦めたように肩の力を抜いた。
(まったく。どうして人の色恋にそこまで興味津々なのだか。殿下にはもう少し落ち着いてもらいたいものだが……両陛下も好奇心旺盛な方々だ。似たのだろうな)
現宰相の父の苦労がしのばれるが、フェリクスも同じ道を辿るのかと思うと今から頭が痛い。
だが両陛下はもちろんアルフォンスも、王族として必要な素質を持っているのは間違いない。
メアリがペンドラン家のメイドに害された時、フェリクスはたとえメアリが許そうと、ペンドランの者が許そうと、絶対に自分だけは許すつもりがなかった。
完全に頭に血が上っており、自分の怒りの感情だけで突っ走りそうになっていたのだ。
そんなフェリクスを落ち着かせたのは、他ならぬアルフォンスだった。
『追い込まれた人間というのは何をしでかすかわからないものだよ。私としてもメイドを許せない気持ちがあるけれど、ここは近くで見守り再教育するという手もあるんじゃないかな? 処刑したり追い出したりすることは簡単さ。でもこの先の余計な憎しみや争いを未然に防ぐことも、上に立つ者として必要なことだよ。違うかい?』
アルフォンスは、大事な場面で判断を間違えない。
いや、正解か間違いかなど誰にもわからないことだ。迷わない、が正解かもしれない。
(これだから殿下には敵わない。一生お仕えし、支えたいと思える唯一の人だ。……八割は手のかかる子どもでしかないが)
思っていても、口には出さない。
フェリクスは軽く目を伏せてわずかに口角を上げた。
「そういえば、フェリクス。結婚式の準備は進んでいるの? 来年だっけ。あっという間だと思うけど」
「もちろん進めていますよ。僕たちが忙しくなるのはまだまだこれからです。だからこそ、今のうちに手を開けておきたいのですが」
「……毎日のように新しい仕事が舞い込んでくるんだから、焦ったって仕方なくない?」
「毎日のように新しい仕事が舞い込んでくるので、溜め込んでしまってはそれこそ詰みですよ、殿下。それとも、僕の分も殿下が」
「よーし、今日もがんばろう! 毎日コツコツこなすのが一番の近道だよね! ははは!」
アルフォンスの手綱を握るのはとても簡単だ。
だが彼が素直に言うことを聞くのはフェリクスだからだということも十分理解している。
信頼には忠誠を。そして、忠誠には信頼を。
「結婚式の招待状リストや式場確保、その他諸々の資料は屋敷の方に用意してありますんで」
「ああ、助かる」
こそっと耳打ちで教えてくれるマクセンに対し珍しく素直に礼を言うと、なぜか怪訝そうな顔を返されるのは癪に障るが、それは幼い頃からの腐れ縁だからこそ。
婚約者であるメアリ含めて、フェリクスは人に恵まれていると改めて実感した。




