第98話 密室の怪物
陸軍省本部庁舎――口さがない者からは「魔窟」などと呼ばれるそこには、複数の秘密会議室が存在する。地上階に設置されるものもあるが、その大部分は地下――分厚い石壁に守られ、壁には魔術的盗聴を防ぐための複数の対魔呪刻、あるいは高出力の妨害用術式を常時展開する刻印が施されている。
その一室に、二人の将校の姿があった。いずれも陸軍では穏健派に属する者――エリカの父であるゲイル・シュミット大佐である。急遽王都に呼び出された彼ら、周囲をカービン銃で武装した衛兵に固められて地下会議室に押し込められ、対立派閥の将官と一対一で会談せざるを得ない状況に、少なからず苛立ちを抱いていた。
「……娘が何か無作法でもしましたかな」
シュミット大佐は瞳を鋭く光らせ、眼前に腰掛ける人物――シュヴァイガート中将を注意深く見つめた。にらみつけるような視線ではないが、有効的というわけでもない。シュヴァイガート中将が国際的協調路線を軽視し、アルタヴァ共和国との決戦を望んでいるというのは周知の事実であり、国際的穏健派であるシュミット大佐とは当然ながら犬猿の仲である。
だが、シュミット大佐はそれを表に見せるような人物ではない。あと数年で少将のポストが空くことを彼は理解しており、無用な衝突を引き起こすのではなく、あくまで面従腹背を貫いて将官の座を手に入れ、内部からの改革を狙っていこうという意図を持つ程度の器は持ち合わせている。
「いえ、とんでもない――シュミット大佐。過去に類を見ないほど優秀な騎兵軍曹だとも」
「なら、なぜ私がここに?」
危うい問いかけであることは理解している。だが、今聞かなければもはや問いただす機会は訪れないことをシュミット大佐は理解していた。シュヴァイガート中将もそれは理解しており、暫し沈黙の中で相手の意図を読み取ろうとした。
(この男は質問の答えを求めているわけではない。私が同意を取ろうとしていることを理解して、それを言わせようとしている……が、娘のためを思って、というわけではあるまい。この男のすることだ、政治的な理由を帯びて踏み込んできている)
そのような人間的理由だけでシュミット大佐が動くわけではないことを、シュヴァイガート中将はよく理解していた。将校同士――それも敵対する派閥の者が顔を突き合わせるとなれば、その会談は一種の政論のぶつけ合い、あるいは小規模な政争となる。
もっとも、それを露わにするほど二人とも愚かではない。陸軍大学を優秀な成績で卒業し、政戦両略の雄として軍政界に名を馳せてきた大人物である。いずれは陸軍大臣、あるいは退役後に陸軍評議会の専任終身議員として政界に躍り出るだけの野心を秘め、なおかつそれを隠し通し、一見すると政治的野心には無関心な愛国者と見せかけるだけの力量を持ち合わせている。
「なに、ちょっとした挨拶のつもりで呼んだのだよ。君の娘――エリカ・シュミット軍曹が陸軍省の特務に加わってくれることになってね」
「特務――なるほど、アルタヴァとの和平交渉の護衛を?」
流石に耳が早い、とシュヴァイガート中将は苦々しげに感じた。だが、それを表情に表すほど彼は小物ではない。どのような経路でもって情報を手に入れたのかは全く不明であるが、既にアルタヴァとの交渉が政治的に決定されていることは分かっていた――その事実を前に、中将は密かに奥歯を噛み締めた。
(どこから情報を抜かれた――陸軍情報部の中に国際協調路線を志向するハト派が紛れ込んでいると聞いたが、若手急先鋒のハーネルが外務省外事課の武装局員に付け狙われて殺られたとの報告まで上がっている。連中の政治的地盤は不完全なはずだ……だが、情報網が単一であるとの保証もないか。ハト派も海千山千だ……ハーネルが始末されても、他のルートを探ってくる)
招いたのは失敗だった、と中将が悔やむ中、それを前にしたシュミット大佐は穏やかな表情のまま言葉を続けた。だが、決して警戒を解いたわけではない。むしろ、大佐の纏う雰囲気は最前線のような烈しさを帯びつつある。
「警戒なさらずとも結構です、閣下。そのような話ならば開戦直後から出ていることです。戦争とは常にどこで終わらせるかを考えてから始めるものですから。休戦特使の護衛に際して、陸軍大臣肝煎りで設立された部隊が使われるのは当然でしょう。驚くようなことでもありませんが」
「……」
「第七分隊は単独での特殊運用を前提とした部隊……半分が軍関係者の重鎮の娘であり、もう半分も軍の『訳あり』に縁を持つという。それに、それぞれに特殊な技能を持っている者が多い。娘はそれなりに鍛えていたつもりだが、それすら霞むほどの特技兵として優秀な者をかき集めた精鋭揃いだ」
そこで一旦、シュミット大佐は言葉を切ってシュヴァイガート中将を見つめた。口調は至って穏やかであるが、研ぎ澄まされたナイフのような輝きを放つ瞳を前に、中将は獲物を見定めた猛獣を前にしたような気分となった。
「……何かしら、急迫の危険でも? 特殊部隊を護衛につけるのならば議事堂警護の特務衛兵でも、外交官特権で騎馬隊を借り受けてもいい。何か事情があるのなら、私も協力しましょう。独断で動かせる部隊もある」
「……」
シュヴァイガート中将は暫し沈黙し、己の思考を整理した。眼前の男が油断ならないことはもはや明確な事実となった。迂闊に相手をすれば喉首を斬られかねない。だが、このまま沈黙を守っていては相手のペースに呑まれる。たくましい想像力だ、と皮肉で返すことも考えたが、それで流せるような相手でないこともまた明白であった。
(何らかの確証を得た上で、この男は私の誘いに乗ってきた……!)
最初こそ、ハト派に属するシュミット大佐の政治的な動きに対して牽制を加えるつもりで呼んだ――第七分隊の現場指揮権を一時的にベアトリクス・ブレーダ准尉から奪うという強引な方法でもって、娘のエリカを人質のようにするという外道まで働いてのけた。だというのに、眼の前の男はそれに狼狽える様子も見せない。
人の親であるからこそつけ入ることのできる弱みもある。もちろん、シュミット大佐は任務に対して極めて忠実な軍人であるから、そう簡単に揺さぶることはできない――ある程度はそれを理解できていた。だからこそ、指揮権を掌握して人質作戦を遂行するようなやり方も選べた。
だが、シュミット大佐の冷徹ぶりはシュヴァイガート中将の読みのさらに上を行った。情に流されない鋼の軍人として内外からの評価も高い。軍律と正義によって自らを支える国権の支持者と呼ぶに相応しい佐官の中の佐官を、対立派閥にある中将自身も少なからず買っていた。
(巌にも等しい自律心……そうであるから家族を人質に取りさえした。だというのに、この男は眉ひとつ動かさないときた。娘を人質に取られていると理解しながら、こちらの鼻を明かすつもりで乗り込む好機と捉えた……)
娘の所属する部隊の指揮権を盾にハト派を牽制しようとした試みを見抜き、人質戦法と知りながらも堂々と対立派閥の重鎮の前に現れて、逆に揺さぶりを掛けてくる度胸は尋常のものではない。
シュミット大佐自身もアルタヴァ介入戦争に従軍し、武名をもって地位を手に入れた人物であるが、決して政治を苦手とするわけではない。むしろ、自分の武功をうまく用いて「英雄」の仮面を被り、政治的中枢へと潜り込む強かさを持っている。
(国家の番犬の名に惑わされたか、この男――その実、狼であるか)
どこからか情報が漏れていることは間違いない。第七分隊の護衛としての配備は極秘事項であり、その立場故に政治的に中立であることを求められる国境守備隊隊長を通じてのみ伝えられたはずであるが、シュミット大佐はどこかで情報を掠め取ることに成功している。
それについて声を荒げて詰問する、あるいは衛兵隊に命じて拘束することはこの上なく容易である――が、シュヴァイガート中将の自尊心はそれを許さなかった。第七分隊を護衛として投入することはもとより牽制として伝えるつもりでいたし、それをやたらに口外しない限りはシュミット大佐に危害を加えるつもりもなかった。
だからこそ、シュミット大佐が自分の計略の上を行って計画を察知し、その上自分の娘が何らかの陰謀に巻き込まれるかもしれないと知っても平然としている眼前の状況は何より苦々しいものであった。
娘を盾に取った脅しさえ無意味であることを突きつけられれば、もはや政治的に敗北したも同然である。政治的敗北を覆い隠すための武力行使――軍政家としては当然ながら選択肢に入れなければならないことではあるが、可能な限り避けなければならない事態であった。軍部内で派閥対立が存在することはあっても、それを表沙汰にして剣を持ち出すことはタブーである。
シュヴァイガート中将は苦々しく思いながらも、それを表情に出さないように穏やかな口調でもって言葉を返した。
「……いや、構わんよ。君の娘の働きに期待させてもらう。今日はそのための挨拶のつもりで呼んだのでね」
「左様でございますか、閣下――ご丁寧な対応感謝いたします」
「お互い忙しい身だ……今日はここまでにしよう」
分厚い扉を押し開け、外で待っていた衛兵隊にシュミット大佐を案内させてその背中を見送ると、シュヴァイガート中将は小さくため息をついて懐に収めた拳銃にそっと触れた。そのとき、シュミット大佐は振り返りもせず、どこか余裕すら帯びた声で止めの一言を放っていった。
「ああ――それと、この部屋に敵ならいませんよ。そこまで警戒せずとも結構です、閣下。同じ国の将校だ、もっと気楽にやっていただいて構いませんとも」
頭を強打されたような気分――この男はどこまで分かっているのか、と叫び出したいのをシュヴァイガート中将は堪えたが、ドアが閉まったと同時にその拳は地下会議室の机を殴りつけ、続けて呪いの声が短く反響した。
「……あれのどこがハト派だ――怪物め」




