第23話 差し出す手、迷いなき足取り
「助けに行くわ。六人居れば救出できる――迷っていたら、助かるものもの助からない。手伝ってもらうわよ!」
決意のこもったエリカの言葉に、オリヴィアは暫し目を見開いていた。彼女から見ても、エリカの第一印象は余り良いものではなく、常に冷徹で周りを見下し、ただ一人強者であろうとする姿勢は時として疎ましいものであると感じられていた。
だが、今のエリカは全く別人であるかのようにオリヴィアは感じていた。分隊を任された指揮官として、同じ訓練生が窮地に陥っているところは捨て置けない――緑の瞳に現れた鋭い輝きにオリヴィアは一瞬圧倒され、その後、笑みを浮かべて深々と頷いた。
「そうだ。僕たちはまだ訓練生だけど、それでも陸軍の兵士だ――傷ついた仲間は、捨て置けない。みんなを呼んでくるから、エリカは向こうの部隊のところに行って。救護用のキットはほとんどユイが持っているからすぐに手当はできないけれど、負傷者を落ち着かせたり、危険な場所から動かす程度ならできるはずだ」
「……分かったわ。頼んだわよ――オリヴィア!」
エリカは猛然と、深い森を突っ切って駆け出していく。派手に藪を踏み越え、倒木を蹴飛ばし、一振りのナイフが切り裂いていくが如くに一直線に進む。訓練のセオリーから外れる行為ではある――だが、目の前の状況は訓練ではない。行軍経路で落石が生じ、同じ部隊に負傷者が出たのは紛れもない事実であり、その救助に向かうという行動は、実戦にも等しいものであるとエリカは正確に理解していた。
(私は、沢山のものを踏みつけてきた――自分が優秀であると証明するために、何もかも投げ捨ててきた)
両の拳を握り、藪を突っ切り、飛び越える。生い茂る茨が戦闘服にかぎ裂きを作り、腕や太腿を切った――だが、そんなことに構ってはいられない。世間知らずのお嬢様と、路地裏育ちのチンピラに教えられたのだ――単純な正しさだけでは前に進めないと。兵士には、自分が優秀であると証明するよりも大切なことがあると。
それ故、彼女はただひたすらに駆ける。これまでの人生で人に遅れを取ったことは一度も無かったし、これからもそうあり続けたいと思っている――ヴェーザー王国陸軍の将を父に持つエリカ・シュタイナーは、誰かに負けてはいけないという思いは、彼女を駆り立てる原動力だ。
だがそれと同時に、この二十日あまりの日々で自分がどれだけ小さな存在なのかを思い知った。自分に及ばない者と肩を並べることを馴れ合いと断じて一方的に嫌い、挙げ句の果てに殴打され、それでも変わろうとしなかった自分を、救ってくれた者たちがいる。確かに自分たちは弱いと認め、一人で戦うことの意味に理解を寄せながらも、直線的すぎる在り方では、他者も自分も傷つけると――その言葉は、彼女にとっては天啓に近いものだった。
(放っておいても、いずれ教官が見つけるかもしれない。けれどそれではいけない――私は、あの二人に救われた。自分以外の誰かを認めることを知ったなら――もう、私は誰も見捨てられないし、見捨てない)
ぬかるんだ山道に軍靴の跡が残り、戦闘服に泥が飛んでも走り続ける。頬に跳んだ泥を手の甲で拭うと、それはさながら古代の戦化粧のように白い肌に残った。足取りに一切の迷いを見せることなく、エリカは負傷した戦友たちのもとに駆け寄り――僅かの間、そこに立ちすくんだ。
「……!」
負傷して倒れていた訓練生の中には、奇しくもエリカを浴場で殴りつけた少女たちの姿があった。背負った背嚢に記された番号からは、彼女たちが第三分隊であることが読み取れる。偶然というには出来すぎている――だが、第七分隊が登頂ルートを変更し、その先で第三分隊の訓練生たちが負傷して動けずにいたことは紛れもなく偶然の事象である。
「あっ――」
第三分隊の隊長ははっとして顔を上げ、気まずそうに視線を逸した。エリカを拘束し、顔に水を浴びせかけた張本人である。関係が改善したとはいえ、別段仲良く会話をするというわけでもない。元より忍耐力に優れたエリカにとって、あの程度の暴力はそれほど痛手となる行為ではなかった。
むしろ、腹いせにリンチを加えた者たちのほうが後味の悪さを感じてすらいたが、エリカはそのようなことを一切斟酌せず、一歩踏み出して第三分隊の隊長を見つめ、彼女に対して堂々たる態度で呼びかけた。
「第三分隊、レイン・ダルド隊長――第七分隊長として助けに来たわ。状況を説明して」
「え――」
「状況を説明してと言ったのよ。どうしてこうなったのかはいい――大方、私たちと同じで一度捕まって、裏から回ろうと思って失敗したんでしょう。それで、負傷者の状況は?」
エリカの言葉に、第三分隊の隊長を務めるレインは、少しばかり逡巡しながらも応えた。
「自力で動けない重傷者が三名……足に落石が当たって、みんな捻挫か骨折で動けない」
「傷の確認と初期手当は? 救急キットのマニュアル通りにすれば――」
「落石に巻き込まれたときに失くなった。いきなり岩が落ちてきて、気がついたら背嚢が飛ばされていたから……手持ちはバンダナしか無いから、それを巻いて固定してる」
「無いよりかはマシね――今のところはそれでいいわ」
その場に横たえられた負傷者たちを、エリカは横目に見やった。致命的な傷ではないが、少女たちはいずれも痛みに表情を歪めている。ある者はエリカが救援に来たことに気づくと、少しばかり困惑したような顔で視線を背けた。それを見た隊長のレインは、恐る恐るエリカに話しかけた。
「どうして、私たちを――」
「……理由が必要?」
「で、でも私たち……」
「過去の遺恨に拘っていられる状況ではない……ってことよ。忘れたわけではないけれども、負傷者が出ているのに恨み言を言っていられない」
「……」
「それに、私にだって反省すべき部分はあった。貴女たちとの協調を拒んで、自分だけが優秀であることを求め続けて――考えなしだったのは、私よ。だから、何も言うつもりはない」
レインは暫し沈黙していたが、第七分隊の救援がこちらに駆けてくるのを見て顔を上げ、エリカを正面から見据えて口を開いた。
「貴女のこと、少し誤解していたかもしれない」
「……否定はしないわ。人間、本当に分かり合うなんてことはほとんどの場合あり得ないから」
「皮肉屋?」
「……それは、誤解じゃないかもね」
ふっと表情を緩め、エリカは駆けてくる戦友たちに手を振った。泥に塗れ、茨で戦闘服のそこかしこにかぎ裂きをつくりながらも、彼女たちの表情に迷いや躊躇いは一切見られなかった。第三分隊は演習の中で競い合う相手である――だが、それ以上に守り、支え合う戦友であると、彼女たちはいずれも確信していた。
エリカは隣に立つレインの背中を軽く叩き、続いて必死の表情で黒髪をなびかせて駆けてくるユイに視線を向けた。
「応急キットなら全部揃っているし、何より私たちの部隊にはエキスパートがいるわ」
「確か……軍医の娘だっけ」
「ええ。どうして騎兵学校に入校したのか知らないけれど、ユイは間違いなく、私より重いものを背負っているわ。優秀であらなければならないって、常に自分に言い聞かせている――それでも優しくいられる分、間違いなく私より強いわ」
エリカの言葉は穏やかであったが、どこか哀しみを帯びているかのようにレインの耳に響いた。レインは何か言おうとしたが、詰まった言葉は一陣の風に吹き散らされていく。行くわよ、と一言告げると、エリカは倒れた訓練生のもとへと駆けていった。
事実、その状況は実戦に近いものであった。作戦行動中に三名が負傷――手持ちの医療装備は十分とは言い切れないファーストエイドキットであり、分隊員は多少ばかり包帯の巻き方を練習した程度の技術しか持たない訓練生となれば、最悪の事態が起きたとしても何の不思議もないし、第七分隊の面々は、ただ一人を除いてそれを予感していた。
だが、そのただ一人――ユイだけは眼前の状況を正確に把握し、即座に最適な手段を講じた。今までに見たことがないような真剣な表情で一歩踏み出すと、彼女は分隊全員の顔をざっと見回して口を開いた。
「傷の手当は私がする。開放骨折じゃないし、大量に出血してるわけでもないから、このキットだけで三人分凌いで、全員を下山させる。担架を作るから、オリヴィアとテレサ、それからカレンは太めの木材を六本用意して。アイリスとエリカは一足先に下山して、訓練所の常駐医官に連絡。それさえしてくれれば、あとは私と第三分隊でどうにかできる」
『……!』
その瞳は真剣そのものだった。いつも穏やかに笑みを浮かべている彼女らしからぬ迫力――本職の軍医にも負けないほどの輝きが、鳶色の瞳に宿っていた。全員が覚悟を決めたのを確かめると、さらにユイは言葉を続けた。
「それと、全員戦闘服のジャケットを貸して。担架の材料に使うから」
「それはわかるがよ、今すぐ降りねェといけないのか? 教官殿を待つって方法もあるかもしれねェぞ?」
脱いだジャケットを手渡しながらカレンが問いを投げると、ユイは小さく首を振って空を指さした。少女たちが見上げると、いつの間にやら空を黒い雲が覆い尽くしつつあった。一時間と経たないうちに強い雨が降り始めるであろうことは、天気にそれほど詳しくない訓練生にも理解できた。
「今日の気温はそれほど高くないから、負傷して動けない状態で雨に打たれたら体温が下がるかもしれない。骨折とか捻挫なら命に関わることはないけれど、負傷した状態での低体温は簡単に命を奪う――だから、雨が強くなる前に下山するんだよ」
「……分かった。そういうことなら、任せた。ユイは軍医のタマゴだもんな――間違いねェぜ」
カレンは深々と頷き、手にしていたジャケットをユイに手渡した。分隊の面々がジャケットを差し出すと、彼女は真剣な表情でそれを受け取り、地面に横たえられたままの負傷者のもとへ駆け寄ると、手早く傷の確認を済ませて手当に掛かった。その手さばきには何の迷いもなく、意識よりも自らの体が今なすべきことを知っているかのように、分隊の少女たちには思えた。
アイリスは手当てが順調に進んでいることを確かめると、隣に居たエリカに視線を向けた。彼女はアイリスをしっかりと見つめ、それから深々と頷いて口を開いた。
「私たちの使命を果たしましょう、アイリス」
「……ええ!」
来た道を猛然と駆け戻る。どれだけ茨が絡もうとも、彼女たちの足は止まらない。為すべきを為し、救うべきを救う――その覚悟が、二人の足取りを確かなものに変えていた。




