33.鄧城の陥落(地図あり)
建安11年(206年)6月 荊州 南郡 襄陽
鄧城の周辺で揉み合いを続けていると、あまりの損害の多さに危機を覚えたのか、敵が籠城戦法に移った。
ほぼ同数の兵力で、常に倍以上の損害を与えていれば、そうなるのも当然であろう。
そして俺たちにとっては、それこそが狙いであった。
我が軍は城を囲み、さらに攻撃を続ける。
ちなみに鄧城もそれなりの城壁を持つが、襄陽などとは比べるべくもない。
邪魔な水濠もなければ、城壁の高さでも一段以上おとる。
そんな城に対して、俺たちは新兵器を投入した。
「放てっ!」
指揮者の号令に続いて、10本もの太矢が飛んだ。
それは城壁上の櫓などに突き刺さり、そこから縄が垂れ下がる。
その縄は人がぶら下がれる程度の強度があり、さらに一定間隔ごとに結び目がついている。
「野郎ども、よじ登れ!」
「「「おうっ」」」
号令を受けた男たちが、スルスルと猿のように縄をよじ登っていく。
彼らはこの時のために、縄のぼりと近接戦闘の訓練を受けていた。
それを見た敵兵は、石やら矢やらをお見舞いしようとするが、よじ登る兵士は頭に小振りな盾を装着していた。
この盾で敵の攻撃を避けながら、すばやく縄をよじ登るのだ。
運が悪いと肩や手に攻撃を受けて、転落する者もいるのだが、通常よりはその確率も低い。
さらに城外に控える弓兵も、しきりに矢を放って敵を牽制していた。
おかげで5人ほどが城壁上へたどり着くことができ、すかさず剣を抜き放って、敵の排除に動いた。
その結果、さらに縄をよじ登る人数が増え、城壁上に味方が増えていく。
そしてある程度の味方が上がった時点で、隊長の魏延がそれに加わった。
「野郎ども、ここからは俺も一緒だ。城門を奪うぞ!」
「「「お~っ!」」」
魏延が剣を抜いて振り回すと、味方が一気に勢いづく。
それはまさに襄陽攻略戦で、甘寧が果たしていた役割だ。
あの時、難攻不落と呼ばれた襄陽を落とした俺たちは、城壁を越えて乗りこむ決死隊の有用さに気がついた。
それはとても危険な任務だが、普通に城を攻略するよりも遥かに効率的でもある。
そこで甘寧たちが用いた手法を研究し、より成功率の高い方法を考えた。
その結果、床弩という強力な投射器で、太い矢を城壁上に撃ちこみ、それに結わえ付けた縄をよじ登ることにしたのだ。
当然、そのための道具をいろいろと試行錯誤し、隊員には縄をよじ登る訓練も施した。
これによって襄陽の時よりも、すばやく城壁に登ることが可能になったのだ。
そしてその決死隊を率いるのが、今回は魏延というわけだ。
あいつはよほどに手柄を立てたいのか、この話を聞きつけるとすぐに志願してきた。
魏延はわりと若いほうだし、腕っ節も張遼や甘寧に準じるぐらいの実力がある。
そこで隊員の選定から訓練までを一任し、決死隊を養成させたのだ。
その成果が、今ここに結実しつつある。
結局、魏延は見事に役割を果たし、城門を内から開けることに成功した。
その後、南陽での初の成果として、俺たちは鄧城を手に入れたのだ。
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建安11年(206年)7月 荊州 南郡 襄陽
曹操軍の最前線だった鄧城の陥落により、周辺の都市が恭順してきた。
なにしろ10万近い軍勢を撃破し、わりと短期間で城まで落としてみせたのだ。
その衝撃は相当なものがあり、様子見をしていた豪族がなびくのも不思議でない。
我が軍はその威勢を駆って、南陽の都である宛まで攻め上がった。
途中、新野などで抵抗もあったが、やはり決死隊の活躍により短期間で攻め落としている。
そして今は宛城を囲んでいるって話だ。
もちろん俺はいまだに襄陽で、後方支援に徹している。
誰よりも信頼できる主将が、軍を率いているからな。
それに後方支援と言ったって、やる事はいくらでもあるんだ。
よどみない補給体制の構築や、新規兵員の補充に加え、支配地の統治にも目を光らせねばならない。
戦争をしてる分だけ、普段よりも忙しいぐらいだ。
そんな仕事の合間に、俺は前線から来た伝令の報告を聞いていた。
「ということで、敵は宛城周辺に軍勢を集め、防戦の構えを見せております」
「敵の兵力は?」
「城内の兵力は不明ですが、おそらく15万は下らないかと」
「15万か。どうせ新兵ばかりなんだろうな」
「はい、おそらくは」
ある程度、予想はしていたが、敵は完全に守りに入っていた。
今は中原のあちこちで反乱騒ぎが起きているし、徐州や揚州にも備えねばならない。
しかしいかに混乱しているとはいっても、曹操は朝廷を主宰し、中原を押さえているのだ。
それこそ何十万人もの兵力をひねり出すのも、不可能ではない。
そのための時間稼ぎとして、宛に大軍を集めたのだろう。
そのほとんどが新兵だとしても、そう簡単に攻め落とせるものではない。
「それで関羽将軍は、宛に押さえの兵を置き、周辺都市の制圧に回りたいとの仰せです」
「ふ~ん、俺はいいと思うけど、陳宮はどう思う?」
「それがよろしいかと。南陽郡自体が落ちれば、いずれ宛も降伏するでしょう」
「そうだろうな。よし、宛以外の都市攻略を、許可する」
「はっ、そのお言葉、必ずや将軍にお伝えします」
こうして我が軍は、南陽全体の制圧へと動いていった。
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建安11年(206年)9月 荊州 南郡 襄陽
あれから2ヶ月で、南陽郡はほぼ制圧された。
西は武当から東は舞陰まで、南は随から北は魯陽までと、ほとんどの都市に軍勢を送ることで、支配下においた。
まともな兵力は宛にかき集められているおかげで、抵抗も少ない。
その間、宛の曹操軍は無抵抗だったかといえば、そんなことはない。
必死にこちらの包囲を食い破ろうとしてきたが、それに対するは関羽である。
野戦陣地を上手く使い、敵の半分程度の手勢で、攻撃をよく防いだ。
敵も総数15万といえど、その多くが不慣れな新兵だ。
しかも優秀な指揮官も不足しているのか、これといって危険な場面もなかったらしい。
それじゃあ、隣の豫州は何をしてたかといえば、あちらも大混乱だという。
なにしろ南陽のすぐ隣は、許都のある潁川郡だ。
いつ攻められるかと、気が気でないだろう。
豫州でも必死に兵員をかき集めつつ、さらに天子さまを兗州の済陰郡へ移動させたとか。
そして潁川郡を中心に守りを固め、こちらの様子をうかがっているようだ。
ハハハッ、天下の司空閣下が、それでいいのかねえ。
いずれにしろ、周囲が全て俺に帰順した結果、宛城は孤立した。
さらにそれを敵に知らせてやると、南陽出身の兵が脱走しはじめる。
そりゃあ、故郷が敵方に寝返ってるのに、わざわざ軍に残る必要もないよな。
本来なら俺は漢王朝に逆らう逆賊だが、堂々と曹操を君側の奸として非難している。
さらには襄陽へ攻め寄せた官軍を跳ねのけた辺りから、周辺の豪族の反応も変わってきた。
ひょっとして劉備なら、官軍にも勝てるのではないか?
そんな期待というか、懸念のようなものを抱えた豪族が、どんどん様子見をするようになる。
これによって官軍の徴兵がさらに滞るようになり、豪族の懸念はさらに高まった。
そんな状況の中で、俺に前線への出張要請が届いたのだ。




