23.益州への侵攻(地図あり)
建安6年(201年)7月 荊州 南郡 江陵
益州への侵攻を宣言して2ヶ月。
準備の整った我が軍は、とうとう益州へなだれ込んだ。
江陵に集結していた軍勢が、続々と長江をさかのぼっていく。
その兵力は総勢で5万にも達し、そうそうたるものだ。
軍勢を率いる将として、関羽を筆頭に黄忠、張遼、趙雲、魏延、徐盛が名を連ねている。
代わりに荊州攻めで活躍した張飛、甘寧、太史慈はお留守番だ。
それぞれ徐州、揚州、荊州で兵を鍛え、守りを固めている。
一方の俺は江陵に陣取って、後方支援に徹する形だ。
参謀として陳宮、魯粛を手元に置き、徐庶、龐統、諸葛亮を、軍師として関羽たちに付けた。
関羽たちの武勇と、軍師たちの智謀でもって、益州を早めに攻略して欲しいものである。
その一方で、中原では曹操と袁紹のにらみ合いが続いていた。
面白いことに、今生の袁紹はいくらか用心深くなったようで、なかなか隙を見せない。
おかげで曹操もつけ込む隙を見いだせず、戦線は停滞しているようだ。
ちなみに今回の益州攻めについては、ちゃんと朝廷の許可を取ってある。
なにしろ劉璋は、朝廷に逆らって州牧の地位に居座ってるような状態だ。
前生では黙認されていたが、俺が討伐すると言ったら、渋々ながら認めてくれた。
噂によると、曹操の周辺はこの件について、けっこう揉めたらしい。
俺に益州攻めを任せると、さらに強大化するのを恐れる一派。
逆に曹操の邪魔をしないよう、俺の目を益州へ向ければいいと考える一派。
さんざん揉めた挙句、曹操の決断で許可することになったらしい。
しょせん益州なんて、中華の辺境だ。
中原さえ制覇すれば、大したことないと思ったんだろうな。
その考え、いつかひっくり返してやろうじゃないか。
そして江東の孫策も、着々と戦力を増しているという。
そのうえで山越族などの異民族や、反乱勢力の討伐に乗り出しているようだ。
なにしろ孫策には、安南将軍という地位がある。
文字どおりに華南の治安を守護する将軍として、武威を振るっているわけだ。
そのやり方は相当に苛烈らしく、多くの罪人を血祭りに上げているとか。
さすがに無実の民を虐げることはないらしいが、けっこう恐れられてるみたいだな。
前生でも孫権が反乱に悩まされてたから、ある程度は仕方ないんだろう。
しかしあんまりやり過ぎると、また暗殺とかされるんじゃないかね。
なかなかの好青年だったから、そうなって欲しくはないが、潜在的な敵であるのも事実。
当面は様子見だな。
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建安6年(201年)10月 荊州 南郡 江陵
「劉備さま、我が軍が成都へ到達したとのことです。敵軍とは野戦で衝突して、これを撃破。1万ほどの兵が成都に籠城し、にらみ合っているとの由にございます」
「ふむ、敵の本軍を打ち破ったか。さすがは関羽たちだな」
「ええ、諸将も大活躍だったようです」
益州に侵攻して3ヶ月も経つと、我が軍は益州の都である成都へ達していた。
その過程では、まず巴郡の江州城を落とし、西漢水をさかのぼって墊江へ。
さらに涪水を経て徳陽へ進軍している。
そして成都の周辺で野戦となったようだが、無事にこれを撃破して今に至るわけだ。
「1万で籠城、か。落とすのにどれくらい掛かるかな?」
「その程度でしたら、押さえの兵を置いて、周辺を制圧できます。見込みがなくなれば、降伏するのではありませんかな」
「う~ん、そうだな。関羽なら上手くやってくれるだろう。こっちは補給を絶やさないようにして、朗報を待つか」
「それがよろしいでしょう」
頼りにしてるぜ、兄弟。
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建安6年(201年)12月 荊州 南郡 江陵
「劉備さま! 劉璋が降伏したとの知らせが入りましたぞ」
「陳宮の言ったとおり、わりと早かったな」
「ええ、なにしろ我が軍には、勇将・猛将が揃っておりますからな。加えて軍師たちも、良い働きをしたようです」
「そいつは頼もしいな」
成都を囲んで2ヶ月で、とうとう劉璋が降伏した。
陳宮が見立てたとおり、関羽は1万ほどの兵を押さえとして残し、残りを周辺の都市制圧に向けた。
その結果、周辺の主要都市がひと通り落ちると、成都の士気は一気に低下した。
その陰には諸葛亮や徐庶、龐統の暗躍があったのは、言うまでもない。
大量に潜入させていた密偵を使い、周辺都市と城内に噂をばらまいた。
”劉璋の地位は朝廷に認められておらず、許都への出頭命令が出た”
”これ以上、劉璋に味方しても、逆賊として一緒に処刑される恐れがある”
なんて感じの噂だな。
そのうえで成都の城内に向けても、今のうちに降れば劉璋の命は奪わない、なんて交渉を持ちかけた。
結局、周辺都市の陥落を知らされてしばらくすると、交渉の使者が出てきたわけだ。
そのうえで多少の譲歩をしてやると、とうとう劉璋が降伏する。
侵攻してから半年足らずの、益州陥落である。
我が軍の死傷者もそれほどじゃなかったらしいから、上々の成果だ。
さすがは関羽と諸将、そして軍師たちだ。
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建安7年(202年)1月 荊州 南郡 江陵
益州の奪取を喜んでいると、また1人、頼もしい男が仕官してきた。
「陸遜 伯言にございます。以後、劉備さまに忠誠を誓います」
「待ってたぜ、陸遜。これからよろしく頼むな」
「ありがたきお言葉」
彼は元廬江太守 陸康の従孫であり、そして前生で俺を打ち破った仇敵だ。
多少の恨みはあるものの、俺は彼の高い能力に目をつけていた。
そこで廬江郡を制圧した時に、呉郡の陸家に連絡を取ったのだ。
”廬江も平和になったので、いつでもお越しください”、なんて感じでな。
さらに陸遜とも渡りをつけると、徐々に誘いを掛けていった。
幸いにも陸家は孫策を恨んでるから、あっちに取られる心配は少ない。
そんなさりげない勧誘の甲斐あって、成人と同時に仕官してくれたわけだ。
今生ではその能力を、俺のために使ってくれよ。
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建安7年(202年)4月 益州 巴郡 江州
そんなこともありながら、俺たちは益州の制圧を進めていた。
さすがに全ての反乱分子までは討伐できていないが、全ての郡の要所を押さえ、とりあえずの統治が始まった感じだ。
ちなみに漢中を占領していた張魯も討伐し、ただの宗教家に戻してやった。
今後は徐々に治安を改善して、その生産力を高めたいと考えている。
そんな準備が整ったところで、俺は江州を訪れていた。
「よう、関羽。久しぶりだな」
「お久しぶりです、劉備さま。なんとか益州を平定できましたこと、ここに報告させてもらいます」
「ああ、さすがだな。もちろん、他のみんなも良くやってくれた」
「「「ありがたきお言葉」」」
俺の労いに、関羽を始めとする配下たちが頭を下げる。
その後も多少のやり取りをしてから、今度は劉璋に仕えていた人材に面通しをする。
その筆頭は張粛という男だった。
「劉備さまにおかれましては、ご機嫌うるわしゅう。我ら一同、引き続き益州のために働きたいと存じます」
「ああ、俺の方からも頼む。一時は争ったといえ、我らは共に漢王朝に仕える身だ。天子さまのため、そして民のため、その力を振るってほしい」
「「「ははっ」」」
張粛をはじめとする益州組の官吏たちが、そろって頭を下げる。
劉璋が降伏してくれたので、益州の官僚機構は比較的のこっていた。
今、分かっているだけでも、文官は張松、董和、許靖、李恢、法正、王累、王連などが恭順している。
さらに武官は厳顔、張任、李厳、孟達、龐羲、呉懿、黄権、楊懐、高沛などが、俺に従ってくれるようだ。
ちなみに厳顔とは、今生でも一悶着あったらしい。
江州の戦いで降伏したのだが、相変わらず頑固な男で、”自分の首をはねろ”と言い放ったとか。
そこでわりと年の近い黄忠が、厳顔との決闘を願いでた。
そのうえでコテンパンにのされて、ようやくおとなしくなったとか。
さすがは黄忠、上手いことやってくれたな。
こうして俺たちの益州制圧は、1年足らずで一応の終結を見たのだった
あっさりと益州制圧が終わってしまいましたが、次の幕間でも少し補足します。
さらにそれとは別に陸遜をゲット!
彼は史実で203年に孫権に仕えてますが、今生では先に劉備から誘われてたって寸法です。
こんな逸材、逃がすわけがない。w
それから今回の舞台は益州(左下の黄色部分)で、その郡配置は以下のようになります。
厳顔と戦ったのが巴郡の江州(現代の重慶市)で、下図の左下にあります。
江州から右の魚復へと流れてるのが長江で、その本流は西へ続いています。
また江州から北へ分岐するのが西漢水で、さらに墊江から西へ分かれるのが涪水です。
そして広漢郡の徳陽を経て、蜀郡の成都へ至りました。
その成都は西側の新都のちょっと下辺りにあります。
地図データの提供元は、”もっと知りたい! 三国志”さま。
https://three-kingdoms.net/
ありがとうございます。




