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逆行の劉備 ~徐州からやりなおす季漢帝国~  作者: 青雲あゆむ
第2章 揚州攻略編

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9.寿春への侵攻(地図あり)

建安元年(196年)4月 徐州 下邳かひ


 東城を取り戻した俺は、徐州の守りを固めつつ、虎視眈々と袁術の隙を狙っていた。

 そして翌年の春になると、いよいよ行動を起こしたのだ。


劉繇りゅうようどのが、丹陽郡の掌握に成功したようです」

「そうか。太史慈たいしじも上手くやってくれたようだな」

「ええ、彼がいなければ、袁胤えんいんを追い出すのにも苦労したでしょう」

「ああ、さすがだな」


 俺が兵をつけて送り出した劉繇が、丹陽郡の掌握に成功した。

 孫策が刈り取った丹陽郡北部はこの頃、袁術の従兄弟である袁胤が治めていた。

 しかし丹陽郡の南部はまだ服属しておらず、その基盤は脆弱なままだ。


 そこへ正式な揚州牧である劉繇が、兵を連れて攻め寄せた。

 そしてその指揮を執っていたのが、太史慈という武将だ。

 彼は中原でそれなりに名が売れている武将で、後に孫呉で活躍する男である。


 前生のこの時点では、すでに劉繇と決別してるんだが、今生では劉繇と共に広陵へ招いた。

 そして太史慈を主将にするよう劉繇を説得し、2千人の兵を付けて送り出したわけだ。

 そしたら期待どおりに戦ってくれたようで、早々に袁胤の軍を打ち破った。

 ちなみに丹陽を切り取った孫策は、今は呉郡の制圧に忙しく、その隙を突けたってのもある。


 いずれにしろ、劉繇は揚州牧としての権威を使い、短期間のうちに丹陽郡を掌握してくれた。

 まだまだその基盤は弱いだろうが、袁術と孫策を分断できたのは大きい。

 これで俺も動きだせるって寸法だ。


「よし、袁術を攻めるぞ」

「はっ」



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


建安元年(196年)5月 徐州 下邳国 東城


 劉繇りゅうようの丹陽郡北部の掌握を知った俺は、東城に軍勢を集めた。

 それまで準備を整えていたのもあり、その数は1万人を超える。

 この軍勢を関羽、張飛、張遼の3将に預けると、俺は彼らを寿春へ向けて送り出した。


 え、俺は何をしてるのかって?

 俺は東城に残って、徐州に睨みを利かせてるんだ。

 下手に本拠地を留守にしてると、いろいろと企む輩がいるからな。


 俺以外にも、下邳では陳羣ちんぐん陳宮ちんきゅうが控えており、徐州全土を統制してくれている。

 そしてこの東城では魯粛ろしゅくが俺のそばに控え、参謀役を務めていた。


「関羽たちは今頃、どこにいるかな?」

「すでに陰陵いんりょうを落とし、西曲陽にしきょくようへ迫っているとのことです」

「ほう、早いな。噂どおり、袁術は寿春に兵を集めているんだろうな」

「ええ、そのようです。おそらく西曲陽までは、すんなりと取れるでしょう」

「ああ、問題は寿春だが、どれぐらいの兵力が集まりそうだ?」

「そうですな。おそらく1万も集まれば、良い方でしょう」

「ハハハッ、俺が劉繇と組んだ影響ってやつか」

「はい。周辺の豪族どもは、様子見をしているようですな」


 本来なら袁術は、3万~4万人ぐらいは集められるはずだった。

 しかし劉繇が丹陽郡を取るのと並行して、九江郡に噂をばらまいたのだ。

 それは劉備が劉繇と組んで、揚州に秩序をもたらそうとしているという噂だ。


 その噂自体が事実であり、さらに劉繇は朝廷から正式に任じられた州牧である。

 おかげで俺にも正当性が認められつつあり、寿春周辺の豪族は様子見をして、兵を出すのを渋ってるわけだ。


「さて、後は関羽たちが、どれぐらいで寿春を落とすかだな」

「ずいぶんと信頼されているのですね?」

「そりゃあ、そうさ。関羽、張飛、張遼はそれぞれ、一騎当千の武人だからな」

「なるほど。特に関羽どのからは、老練な指揮官の風格が感じられますからな。朗報を聞けるのも、そう先ではないかもしれません」

「ああ、こっちも諜報活動で応援してやろうぜ」

「かしこまりました」


 俺の関羽たちへの信頼を聞いて、魯粛も素直に納得してくれた。

 問題はどれぐらい掛かるかだけどな。

 頼むぜ、兄弟。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


建安元年(196年)7月 徐州 下邳国 東城


「関羽どのが、寿春の攻略に成功したそうです」

「おおっ、とうとうやったか。さすがは関羽だな」

「ええ、周辺の豪族を、上手く味方につけたようですな。それにしても、驚くほど早い勝利でしたが」


 寿春の攻略に掛かって2ヶ月ほどで、とうとう朗報が入ってきた。

 俺はそれほど意外ではなかったが、本来ならそんなに簡単に落ちるはずはなかったのも事実である。


 袁術は数万の兵力を揃えられたはずだし、城の中にはたっぷりと兵糧が蓄えられていたのだから。

 しかし俺が劉繇と組んだことで、周辺の豪族は様子見を決めこんだ。

 それどころか関羽の誘いに乗って、我が軍の下に馳せ参じる豪族までいたそうだ。


 おかげで袁術は早々に籠城を決めこみ、守りを固めることしかできなかった。

 そこを関羽たちが囲んで、連日攻め立てたわけだ。

 兵力は袁術が1万足らずのところ、こちらは2万近くにまで膨れ上がっていた。


 こうなると袁術の人望は下がる一方で、城内の士気は上がらない。

 そこで袁術は江東に遣いを出して、孫策に救援させようとしたようだな。

 しかし孫策は呉郡の制圧でそれどころじゃないし、間の丹陽郡も押さえられている。


 一応、救援を出そうと試みはしたようだが、丹陽郡で太史慈に阻まれた。

 さすがにそれ以上の無理はできないので、孫策は呉郡の制圧に専念しているらしい。

 それを関羽に教えてやったら、すぐに城内へ知らしめてやったそうだ。


 すると城内の士気がさらに下がり、次の日から脱走兵が出はじめたんだとか。

 そこで関羽たちがここぞとばかりに攻め立てたら、とうとう袁術が音を上げたって寸法だ。

 とうとう交渉の使者が出てきて、”城は明け渡すので、袁術たちが落ち延びるのを見逃せ”、と要求してきたそうだ。


 この提案は想定の範囲内だったので、多少の交渉をまじえて合意に至った。

 その後、袁術は袁紹を頼り、冀州へ落ち延びることとなる。

 ちなみにこの頃、徐州の北に位置する青州は、袁紹の長男である袁譚えんたんによって、ほぼ制圧されていた。


 そのため俺たちは、徐州内で袁術に監視を付けたうえで移動させ、とっとと青州へ追い出すことにした。

 一応、袁紹と俺は味方ということになってるし、袁紹と袁術は従兄弟同士の間柄だ。

 まあ、なんとかたどり着けるんじゃないかな。


 でも袁術って、袁紹と仲悪いはずなのに、どうするつもりなのかね?

 そんな簡単に頭を下げられるなら、そもそも仲違いなんてしてないと思うんだけどな。

 どうせまた決裂すると思うから、送り出してやったんだけどね~。


「さて、まずは九江郡を制圧してから、廬江郡の掃除に取り掛かるか」

「そうですな。ところで孫策の方は、どうするのですかな?」

「ああ、それは考えがあるから、まずは周瑜と連絡をつけてくれ」

「ほほう、周瑜どのといえば、孫策と親しいと聞きます。ということは?」

「まあ、そういうことだ。頼むぞ」

「かしこまりました」


 こうして俺は揚州の一部を支配するべく、大きく動きはじめたのだ。

今回の戦場となったのは揚州 九江郡の寿春です。

寿春は揚州の州都に当たる要地で、袁術が拠点としていました。

九江郡の東側はもう徐州で、陰陵のちょっと東に東城が位置します。

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


地図データの提供元は、”もっと知りたい! 三国志”さま。

 https://three-kingdoms.net/

ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] >そのため俺たちは、徐州内で袁紹に監視を付けたうえで移動させ、とっとと青州へ追い出すことにした。 袁紹ではなく、袁術ではありませんか?
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