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ご都合主義はなぜご都合主義なのか

 さて、この話は実は結構面倒な話です。かなり端折って書きますが、正直、本を一冊書けるくらい面倒な話です。


 ご都合主義と呼ばれる理由にはどのようなものがあるでしょうか。いろいろあるかもしれませんが、理由の一つに「たまたま」であるとか「偶然」というものへのある種の不信があるのではないかと思います。もちろん、小説などでは作者や制作側が意図を持って作品を構成しているでしょう。その点は考慮しないといけない点ではあります。ですが、それであってもなぜ「たまたま」や「偶然」を描くことにある種の不信、あるいは手抜き感のようなものを感じるのでしょうか。


 それを考えるには、時代をかなり遡るところから始めないといけません。

 骨、亀の甲羅、サイコロ、カード、これらは長い歴史を持っています。あるいは天体観測も、やりかたはどうあれ長い歴史を持っています。

 例えば、(えき)において陰陽の組み合わせを得るには、筮竹(ぜいちく)を使ったり、陰陽の印の入った算木、あるいはそのようなものを使います。算木のようなものの方を考えてみましょう。木でもかまいませんし、適度な大きさの骨でもいいかもしれません。それらを使い、陰陽を6個得ます。陰陽の2つですから、2の3乗が8、2の6乗が64。八卦と六四卦というのはこの数字です。なぜそんな陰陽の組合せを使ったのでしょうか。

 サイコロも同じです。どの目、あるいはどの面が出るかという使い方をしていたようです。

 カードも、どのカードを引くかというあたりが古いものです。

 亀の甲羅。そのひび割れをどうして見たのでしょうか。

 天体観測も同じです。あ、いやこれだけは少し別の面もありますが。それでもどうして天体観測なんかをしたのでしょうか。

 これらは、一体何をしていたのでしょうか。そう占いです。

 問題は、何を使ってどう占っていたのかではなく、占いという行為そのものをなぜ行なっていたのかです。「未来を知りたい」というのは、いいとこ答えの半分です。なぜそれらの方法で「未来を知る」ことができると考えたのでしょうか。

 もしかしたらそれらで実際に何かを知ることができたのかもしれません。あるいは、気持の問題かもしれません。そこのところの実証は困難でしょう。いや気持の方だけならそれなりに実証できるかな。

 ですが、当時はそれらの実証などできない、少なくともかなり困難でした。なのに、なぜ占いが発生し、今にも続いているのでしょうか。


 その答は実のところ簡単なものです。「偶然という概念がなかった」、あるいは「偶然という概念が弱かった」からです。「たまさか」というような言葉はどこにでもありますが、それは「稀なこと」というような意味であって、今でいう「偶然」、あるいはもっと強く「因果などなく」という意味ではなかったようです。

 つまり、何かが起きたら、それは別の何かと何らかの因果があったり、あるいは影響があったりすると考えられていたいのです。「何かが起きたら」の「何か」は何であってもかまいません。何であっても何かがそこに現われているのですから。


 さて、19世紀、あるいは20世紀になり統計学や確率論が構築されます。そこに至ってやっと「偶然」という概念が発明されました。

 そして、統計にせよ確率にせよ、大学レベルの教育によってやっと何とか身につけられるものです。

 歴史が浅いことも、大学でということも、これらは「偶然」という概念が、そしてその概念の獲得が実は意外なほど困難なものであることを示しています。


 もちろん、「偶然」という概念が人間にとって難しいものであるのには理由があります。いや、人間にとってではありませんね。地球上の生物のどれにとってもでしょう。特に動物にとっては。

 というのも動物は生き延びるためにはあらゆる出来事から行動を決める必要があります。あるいはそのように進化してきました。そこには「偶然」という概念が入り込む余地は小さいでしょう。「何かが偶然起きた」と考えるよりも、「何かが起きたら、それは別の何かと関係している」として行動を決める方が個体にとっては有利だったであろうことは想像に難くありません。「草が踏まれるような音がした」ならば、その音は実際には何なのかを確かめに行くより、まず逃げる方が、生き延びる可能性は高かったでしょう。

 そして現在も、人間は「偶然」を嫌います。それは、人間にとって理解が難しいものだからです。それはバルトが言っているように、「人間は出来事Aの後に出来事Bが起きたら、出来事Aは出来事Bの原因であり、出来事Bは出来事Aの結果であると考えるようになっている」理由としても説得力があるものと思います。


 もちろん、人間の意図が入っている創作物において「偶然」をあからさまに使うのは私も積極的には賛成できません。「ご都合主義」についても同様です。

 それはなぜなのでしょうか? 人間は論理的だからという意見もあるかもしれません。ですが、そこに疑問を挙げたいと思います。本当に論理的だからでしょうか? 生物として受け継いできたものが、まだ頭の中で機能しているからではないのでしょうか。そこが、まだ人間の限界の一つなのでしょう。人間は、人間が思っているほど、他の動物から離れていないのでしょう。

 昨年、軟式高校野球で「延長50回」ということがありました。まぁ、これはルールの不備とも言えますが。ですが起こる可能性があることは起こるのです。マーフィーの法則が言っているように。

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