after Day. 17
結構久しぶりのafterシリーズです。そして結構久しぶりに、茉莉の姉の登場です。
「さて、本日のマス部の宿題、やっちゃいますか!」
自室の机に向かって、わたしはシャーペンを握りながら気合いを入れた。まあ、今日気まぐれで出されただけで、今日中に片付けないといけないものではないのだけど……。
本日の宿題は、
『パスカルの三角形を偶数と奇数で塗り分けると、シェルピンスキーのギャスケットができることを示そう!』
というものだ。用語の詳しい説明は、一つ前のエピソードを見てもらうとして、まずは方針を立てよう。
シェルピンスキーのギャスケットの特徴は、三角形の各辺の中点を結んでできる、真ん中の逆三角形が取り除かれていることだ。パスカルの三角形でいえば、空白になっているのは偶数の部分だ。パスカルの三角形の作り方を踏まえると、空白の逆三角形の上辺にあたる段が、両端の1を除いて全て偶数だと示せば、その下に偶数が逆三角形に並んでいるといえるはず。
まずは、この証明に必要な二項係数の性質の中で、蘭子が説明を飛ばしたものを証明しておこう。二項係数の一般式に当てはめれば、恐らくすぐできる。
「うん、すぐにできた」
これで、この関係式は天下御免で使える。証明可能な物事は証明なしで信じてはならない……沼倉が以前に教えた格言を、わたしは何かにつけて思い出している。逆に言えば、自力で証明できた物事は、素直に信じて使っていいのだ。
さて、パスカルの三角形を偶数と奇数で塗り分けた図を、よく観察してみよう。シェルピンスキーのギャスケットを形作る何かがあるはずだ。
じー……。
シェルピンスキーのギャスケットは大雑把に見て、三つ鱗の家紋みたいに、三つの合同な三角形を組み合わせた形だ。上にある三角形の下辺にあたる段は、両端も含めて全て奇数になっている。奇数だけが並んでいる段は、0段目、1段目、3段目、7段目、15段目(パスカルの三角形は頂上を0段目としている)。これらの共通点は何か。
決まっている。全て、2の累乗より1つ少ない値だ。
つまり、こんな仮説が立てられる。
『2^k-1段目の二項係数は、全て奇数である』
『ついでにいうと、2^k段目の二項係数は、両端を除いて全て偶数である』
「たぶんこれは、どちらか片方を示せたら、もう片方もすぐに示せるよね……なんか、そんな気がする」
だんだんわたしも、数学に対する感覚が鋭敏になってきたかもしれない。厳密な証明を経てなくても、分かりそう、という手応えがあるのだ。
では早速、さっき証明したばかりの関係式を使ってみよう。かけ算の式なら、どの数の倍数なのかを考えやすいから、2の倍数、つまり偶数かどうかを調べる方がやりやすいかもしれない。
フィボナッチ数列関係の証明と違って、普通の数学的帰納法が使えるから、理屈さえ分かればスラスラと解ける。
「2の累乗かぁ……偶数と奇数で塗り分けるってことは、mod 2で考えるってことだし、やっぱり何か関係あるのかな。もしかしたら、mod 3とかで塗り分けたら、また別のフラクタル図形が出来たりして」
後でエクセルを使って塗り分けたら、予想以上にすごい結果になったのだけど、それはまた別のお話である。
さて、奇数のみ、偶数のみ(両端を除く)の段がどこにあるか分かって、少しずつシェルピンスキーのギャスケットの全貌が見えてきた。次に知りたいのは、2^k段目から下に偶数が逆三角形に並ぶこと、その両端に、奇数がVの字に並んでいること、これらが間違いないかどうかだ。
「まあ、パスカルの三角形の作り方から見て、ほぼ間違いないけど……あんまり数式を疎かにしても、蘭子先輩にグチグチ言われそうだしなぁ……」
天井を仰ぎながら、わたしは蘭子の反応を想像して放心してしまう。
出会って四ヶ月の濃い付き合いの中で、何となく分かるようになった。数学を学ぶ上で、蘭子は数式とイメージの両方を大事にするけれど、どちらかと言えば数式の方を重視する事が多い。たぶん、感覚的な正しさより、確実に信頼できる正しさを重宝しているからだろうな。
以前にも蘭子は、三平方の定理の厳密な証明が教科書に詳しく書かれていないことに、どこか憤慨している様子だった。大抵はどんな書籍でも、三平方の定理は図形の切り接ぎで説明することが多く、それはそれでビジュアル的に理解しやすいが、どんな直角三角形でも同じことが成り立つかといえば、どうしても曖昧さが残る。三角形の相似の性質を使えば、どんな直角三角形にも通用する証明になるというのに。
中高生にとって『抽象化』はとても高度な考え方に思われがちだけど、これから数学を学ぶなら、無数にあるパターンを一発で確かめられる万能のツールとして使いこなせるよう、教科書でも積極的に説明するべきだと、蘭子は力説していた。
まあそれはともかく、パスカルの三角形の作り方から何となく分かる、というものじゃなく、確実にこうであると数式で示す必要がある。パスカルの三角形の、どの位置の数値を調べようとしているか、条件もきちんと確認しよう。
まず、偶数が並ぶ逆三角形のエリアは、一番上が2^k段目で、両端にあたる0番目と2^k番目を除くから、範囲は0<m<2^kということになる。段が下がるごとに範囲が1ずつ狭まっているから、2^k+l段目の範囲は、左端がl+1番目で、右端はどの段でも2^k-1番目だから、l<m<2^kとなる。一番下の段では、左端のl+1番目と右端の2^k-1番目が一致するから、l+1=2^k-1なので、一番下は2^k+(2^k-2)段目だと分かる。
まとめると、縦の範囲は2^k ≦ n ≦ 2^k + (2^k-2)であり、横の範囲は2^k+l段目でl<m<2^kということになる。
考えるべき範囲が分かったところで、このエリアの二項係数が全て偶数だと示したいが、どうするか……左上の二項係数との関係を示す式を使ってみようか。
「いや、やめよう」わたしはかぶりを振った。「あれを使って偶数かどうか判断できたのは、2^k段目という特殊な条件があったからだし、たぶん他の段で同じ手は使えない」
ここは素直に、パスカルの三角形の作り方に則って示そう。たぶんそっちの方が楽にできる。
しかしこれって……n段目の左からm番目を調べるわけだから、変数が2つある場合の数学的帰納法が必要になるのでは。そういうものがあると杏里が言っていたが、具体的にどうすればいいか説明はなかった。証明に必要なら、あの場で説明があってほしかったのだが……。
いや、違う。
「あっ、そっか。一番上の段については、両端以外全て偶数になるって、さっき証明したばかりだった。ということは、段数を表すnについての数学的帰納法だけで済むかもしれない……」
思いついたら善は急げ、だ。わたしは早速試してみた。2^k ≦ n ≦2^k + (2^k-2)の範囲で、n-1段目の指定された範囲が全て偶数としたとき、n段目の指定された範囲が全て偶数になるということを示す。
うん、予想はしていたが、この範囲のどこでも、(偶数)+(偶数)=(偶数)という計算になるから、逆三角形のエリアが全て偶数であることはこれで確定した。
ただ、そのエリアの外側が奇数で囲まれていないと、偶数の並びが綺麗に逆三角形になるとは言い切れない。上辺(2^k-1段目)に奇数が並んでいるのは確認済みなので、次は両側にVの字の形に奇数が並んでいることを確かめる。パスカルの三角形の対称性から、左右のうち片方だけを確かめればいいと言える。後は簡単な数学的帰納法だ。
「よし、後は仕上げだ!」
終わりが見えてきて、わたしはぐっと拳を握りしめる。
パスカルの三角形の両端は、常に1であり奇数だから、2^k-1段目までを見ると、『奇数で囲まれた三角形のエリア』が3つあって、その3つの三角形に挟まれている逆三角形のエリアに偶数だけが並んでいることになる。
偶数のみの逆三角形エリアの、左隣および右隣にある、『奇数で囲まれた三角形のエリア』の内部だけが問題となるが……偶奇の変化だけで考えれば、上の『奇数で囲まれた三角形のエリア』の内部と同じ挙動を示すから、3つの三角形エリアは全て、偶数と奇数の配置が完全に一致することになる。
つまり、パスカルの三角形の見る範囲を『2^(k-1)-1段目まで』から『2^k-1段目まで』に広げたとき、新たに増えた範囲では、『2^(k-1)-1段目まで』の偶数と奇数の配置を、2つ分コピーして左右に置いて、空いたスペースを偶数で埋めたことになる。この、2つ分コピーして左右に配置する、という作業が、結果として自己相似を生み出しているわけだ。
だから、パスカルの三角形を偶数と奇数で塗り分けると、フラクタル図形が浮かび上がる、と言える。
「終わった……」わたしは椅子の背もたれに寄りかかり、天井を仰ぐ。「てか、奇数のみ、偶数のみが並ぶ段を見つけるところ以外は、単純な足し算しかしてない気がする……何となく感覚で分かりそうなところまで数式で表すのが、こんなに疲れるなんて……」
どんなに当たり前に思えそうな事でも、条件を細かく整理して、条件に合致する範囲で数式を動かして、立てた予想が正しいことを順序よく示す。数学はそういうものだと分かっているけど、わたしはまだ、それが当たり前のようにできるほど、数学的な体力があるわけじゃない……それをまざまざと思い知らされた気分だ。
ひと仕事終えてくたくたになっているわたしの元へ、姉の八重子がドアを開けて入ってきた。……ノックもなしで。
「おーい、もんちゃん。充電器貸してくんない?」
「またどこかに置いてきたの? あと入るときはノックして」
「おっ? 例のマス部の宿題、いま終わったとこ?」
意地でも聞かないつもりか……。本当は“もんちゃん”呼びに関してもひとこと言ってやりたいけど、改める気配が全くないから半ば諦めている。
「しかし、よくやるねぇ。普通に夏休みの宿題だってあるだろうに、部活でも宿題が出されるなんて」
「まあ、強制じゃないし、期限とかも特にないけど、やらなかったらそれで落ち着かないから。どっちかっていうと、研究発表会の方がきついよ……」
「あー、もうすぐだよね。12日だっけ。私も見に行くから頑張っておいで。中身理解できないかもしれないけど、どうせこっちも夏休みで暇だし!」
姉は親指を立ててウィンクして、これっぽっちもありがたくない激励の言葉をかけてきた。夏休みとか関係なく、普段から暇そうにしている気がするが……。
わたしは机に置いていたスマホの充電器を、姉に向けて放り投げた。
「ほら、終わったら返してよ」
「おおきに~」
姉はひらひらと手を振って、その手で充電器をキャッチした。器用な奴だ。
「それより、もんちゃんの誕生日のお祝いを先に考えないとね。人生初の研究発表会に向けた、壮行会も兼ねているし、盛大にやらないと」
「壮行会って……普通は前日にやるものじゃないの? わたしの誕生日、発表会の二日前だよ」
「プレゼント、何がいい?」
「うーん……」いま一番必要そうなものを思い浮かべた。「関数電卓とか?」
「女子高生が誕生日にもらうやつじゃねぇー……完全にマス部に染まってやがる」
「そうは言っても、あんまり思いつかないんだよなぁ……おしゃれとかも大してしないし、ぬいぐるみもこれ以上増えたら手狭になるし」
小さい頃から誕生日やクリスマスにぬいぐるみをもらうことが多くて、枕元や棚に結構置かれているけど、そろそろ場所に困ってきたところだ。
「えー? 他に色々あるでしょ。YES/NO枕とか、ひらひらのネグリジェとか、ムーディーな感じのランプシェードとか」
「ここをラブホにでもするつもり?」
未成年の妹を使ってどんなセンシティブな妄想を働かせているのか、姉は興奮気味にムフフと笑っている。どっちにしても女子高生が誕生日にもらう物ではないんだよなぁ……。
「ああ、そういえば」思い出したことを姉に伝える。「言い忘れてたけど、誕生日にマス部の先輩たちがうちに来て、ささやかだけどお祝いすることになってるから、何か用意するならそのつもりでお願いね」
すると、姉は今世紀最大級の驚きで表情を歪ませた。
「もんちゃんが誕生日に人を家に招くの!!?」
「その驚き方は失礼じゃないかな?」
確かに今までそういうことはなかったけど、ここまで大仰に驚かれるとさすがに怒るよ?
「分かった! 10日はもんちゃんの初めての研究発表会を応援する壮行会と、初めて誕生日に人を招いた記念日を兼ねて、お赤飯と鯛めしを用意しておくわね!」
「普通に誕生日をお祝いしなさいよ!」
なんだか姉がノリノリになって、斜め上の祝い方をやりかねない勢いだ。しかも祝う動機がことごとくわたしに失礼だから、おめでたさの欠片もない。こんなにも歓迎できない誕生日のお祝いがあるだろうか。いや、ない。
「というか、誕生日に出すご飯ものなら普通ちらし寿司とかでしょ。何なの、お赤飯とか鯛めしとか」
「ケーキはどうする? やっぱ三段重ね?」
「結婚のお祝いか! ローソクを立てる所がなくなるわ!」
果たして、わたしの誕生日のお祝い会は無事に終わるのか。何ひとつ予想のつかない、初めて尽くしの16歳の始まりが、いよいよ間近に迫っていた。
ところで、マス部の部員じゃないのにわたしと一緒に宿題を課せられた、あの子はどうなったかというと……。
『このままだとTシャツ作りが進みません! 助けてください~!』
「……Tシャツを優先していいんだよ?」
手も足も出なくて助けを求める電話をかけてきた乃々美に、わたしはなだめるように言った。たとえ強制でなくても、一度気になると落ち着かないというのは、わたしに限ったことではないらしい。
後日、わたしからのアドバイスのおかげで問題が解けたお礼として、蘭子と同じくシェルピンスキーのギャスケットをプリントしたTシャツが贈られたのだが、それはまた別のお話である。
理屈さえ分かってしまえば、シェルピンスキーのギャスケットができあがる過程は、まるでパズルみたいで面白いです。……ですよね?
さて、次回はいよいよ茉莉の誕生日会のお話です。とはいえ、あまり特別な事はしないで、いつものマス部のノリが続きます。マス部の先輩たちは、たぶんまともに誕生日をお祝いしてくれないので、読者の誰かが心の中で茉莉をお祝いしてあげてください。プレゼントはブクマ・感想・評価ボタンでどうぞ。




