【第六十四話】前世
どこもかしこも白かった。
白い靄が辺りを覆っている、空も地面も無い空間。
様々な大きさがある鏡のカケラのような何かが所々に浮かんでいて、そこには見慣れた亜麻色の髪と深緑色の目をした自分が映り込む。
私はそんな空間をふよふよと浮遊していた。
「ここは…?」
誰ともなく呟くが、その声は白い靄に吸い込まれてしまう。
朧げで思考がまとまらない頭。
一体いつからこの空間にいるのかも判然としない。
辺りを漂っていると、視界の端に何かが引っかかった。
そちらを見れば他のものより明らかに大きい、人程の大きさの鏡のカケラが浮かんでいる。
ふわふわとそちらへ近づく。
その大きい鏡のカケラは、ここではないどこかを映しているようだった。
並んだ電柱、ひと気の無い道路、日の暮れかかった住宅街。そんな場所でランドセルを背負った少女が1人、歩いている光景。
少女はゆっくりと歩く。まるでこの道の先につらいものが待っているかのように顔を俯かせながら、ゆっくりと。
鏡のカケラ越しに私はその少女を見つめる。
(この少女は…)
思考がまとまらない頭でも分かった。
(前世の私だ)
そう思ったと同時に、私の頭の中に前世の記憶が甦った。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
11歳の時に両親が離婚した。
そうなる事は薄々分かっていた。
荒れ果てた家、怒鳴り声が絶えないリビング、顔を突き合わせる度に睨み合う両親。
だから両親が離婚すると聞いた時、私に驚きは無かった。
離婚協議の末、私は母に引き取られた。
母との2人暮らしが始まってから、母は私に異常な執着を見せるようになった。
私の人間関係を隅々まで把握しようとしたり、私の部屋のゴミ箱を漁って検分したり。
クラスメイトと遊んでいると何処からともなく母がやってきて無遠慮な質問を繰り返すものだから、クラスメイトは次第に私に寄り付かなくなっていった。
「あなたは、わたしを捨てないわよね」
それが母の口癖だった。
高校卒業と同時に、逃げるように母の元を離れた。
父が養育費を踏み倒し、金銭的に余裕がない中で高校まで行かせてくれた母に感謝するべきだと分かっていたが、次第にエスカレートする母の異常な執着にもう耐えきれなかった。
私は保護シェルターに駆け込んで働き口を探した。
数年かけて生活費を貯め、奨学金制度を利用し大学へ進学した。
大学。そこは楽園だった。
学業をこなしながら毎日のようにアルバイトを掛け持ちし、忙しさで目の回るような毎日だった。
それでも自由だった。そこには、自由があった。
生活を分刻みで管理される事もない。人間関係に介入される事もない。直情的に喚き散らされる事もない。
休み時間に隣の席の人とちょっとした会話をしたり、アルバイト先で親切な先輩に差し入れをもらって食べたり。
そんな何気ない日常が、私は堪らなく嬉しかった。
その日の事はよく覚えている。
よく晴れた暑い日曜日。
蝉が鳴く中、アルバイトに向かうべく支度をしていた時だった。
ピンポーンと、滅多に鳴らないチャイムが鳴る。
(こんな日曜日の朝っぱらに何だろう)
首を傾げながらドアを開けると、そこには制服姿の警官が2人立っていた。
「すみません、---さんでお間違え無いでしょうか」
その言葉に戸惑いながら頷くと、警察官は顔を険しくした。
「緊急の用事で以前---さんが在籍していた保護シェルターに現住所をお聞きしました。これから言う事はあなたにとってショッキングな内容だと思いますが、どうか落ち着いて聞いて下さいね」
「はぁ…」
いまいち状況が理解出来ていない私に向かって警察官は言葉を続ける。
「---さんのお母様が病院に搬送されました。自殺未遂と見られていますが、現在捜査を進めています。つきましては…」
警察官2人は尚も話し続けていたが、その言葉は私の頭の中を素通りして行った。
どうやら、母が自殺未遂をしたというのは本当のようだった。
何か原因に心当たりはないかと聞かれたが、私には答えられなかった。
「とにかく一度、親戚等に連絡を取られた方がいいと思いますよ」
そう言って警察官の2人が去っていってから、私は暫くその場から動く事が出来なかった。
アルバイト先からの着信音で我に返った私はその電話にて休む旨を連絡すると、いつも使っているリュックサックを持って駅へ向かった。
電車を乗り継ぎ、現実感がないままに母が入院しているという病院へやってきた。
名前を名乗れば案外すんなりと母のいる病室に通される。
陽の光に溢れた清潔感のある病室。
病院のベッドに横たわった母は、最後に見た時とはまるで別人のようだった。肌は荒れ、髪はパサパサで、目は落ち窪んでいる。
老婆のようになってしまった母の寝顔を私はぼんやりと眺める。
私にとって、母は絶対的強者だった。
私を管理する強大な存在。
しかし今ベッドに横たわっている母は小さく見えた。
とても、小さく。
この感覚をなんと表現していいのか分からない。
私はベッドの脇に立って只じっと母を見下ろしていた。
その時、入り口の方からガラリとドアの開く音がした。
「…ッ‼︎…あんた、---だろ⁉︎」
突然名前を呼ばれて振り向くとそこにはどこか見覚えのある中年男性が立っていた。
(何度か会った事がある。確か、お母さんの弟で、私にとっては叔父さんの…)
私がそう考えるのも束の間、その男性は私につかつかと近寄りいきなり私の頬を張り飛ばした。
パァンという破裂音が病室にこだまする。
突然の強い衝撃に私はよろめいた。
私が呆気に取られてその男性を見上げると、彼は憤怒の表情で私を見据えていた。
「今更何のつもりでやってきた⁉︎あんなに姉さんから可愛がられていたのに、突然姿を眩ませて…」
男性は顔を歪め、歯を剥き出しにして怒鳴る。
「お前が居なくなった後、姉さんがどんなにショックを受けたか知らんのだろ⁉︎半狂乱になってあんたのことを探し回っていたんだ‼育てられた恩も忘れて…この親不孝者が‼」
その時、病室のドアから中年女性が走り寄ってくるのが見えた。
女性は男性の肩を押さえる。
「あんた、落ち着きなさいよ‼︎」
女性に制止されても男性は叫び続けた。
「姉さんは植物状態になってもう2度と目覚めねぇ、お前のせいで死んだようなもんだ‼︎この人殺し‼︎」
男性は再び私に向かって手を振り上げる。
「どうなさったんですか‼︎」
騒ぎを聞きつけた看護師が病室に駆け込んできて、男性の腕を押さえる。
「落ち着いて‼︎落ち着いて下さい‼︎」
男性は私を憎々しげに睨むと叫んだ。
「二度と、この地をその足で踏むな‼︎出て行けぇ‼︎」
いつの間にか、私はアパートの暗い自室で電気もつけずに膝を抱えていた。
「…お母さん、小さかった」
ぽつり、と言葉が溢れる。
(人間だった。私を破壊する怪物のように感じていたけれど、お母さんも只の人間だったんだ)
そんな当然の事を今更に自覚する。
(とにかく離れなくては自分が壊れると思って逃げ出した。それが間違いだったとは思っていない。でも…)
「もう少しだけでも私がお母さんと向き合っていたら、何か変わっていたのかな…」
それ以来。
自由の喜びが、罪悪に変わった。
笑っている時も、美味しい物を食べている時も、微睡んでいる時も。別人のようになってしまった母の姿が頭にこびりついて離れない。
『人殺し』という言葉がいつも私に付き纏うようだった。
罪悪に押し潰されそうで、私は何かに取り憑かれたように学業とアルバイトに打ち込んだ。
そうでもしないと途方もない狂気に呑み込まれそうな気がして怖かった。
ボロ雑巾みたいになっても、動いて、動いて、動いて、動き続けて…その結果、私は過労で倒れた。
(どうしてこんな事になってしまったのだろう)
搬送された病院で、点滴を受けながら思う。
(私は、生まれてきて良かったのかな)
点滴を受けた病院からの帰り、ふらふらとコンビニに立ち寄った。
「いらっしゃいませー」
気怠げな店員の声。
私は糸が切れた凧みたいに目的もなく店内を歩く。
本が陳列してあるコーナーに立ち寄った時、一冊の漫画が目に入り何となく手に取った。
『待望の最新刊‼︎』と帯に銘打たれたその漫画のページをパラパラとめくる。
その『待望の最新刊』では、公爵と呼ばれる青年が貧民街に訪れる場面から話が始まった。
公務として貧民街に訪れた公爵一行は石を投げつけられる。その犯人は年端も行かない少年だった。
捕縛された少年は公爵に向かって吐き捨てる。
「お貴族様は良いご身分だな、食べ物がなくて泥を啜った経験もないんだろ‼︎どうせおれたちの事なんて使い潰しの効く虫けらくらいにしか思っていないんだ。お前にとっておれたちの生活なんてどうでもいいんだろう‼こんな人生なら、生まれてこなければよかった…‼︎」
しかし、そんな彼に公爵は言うのだ。
「僕の力で出来る事は限られているかもしれない。それでも、全ての人の生きる権利を保障する事を僕は諦めない。それが領主としての僕の役目だから」
青年公爵は少年の前に跪く。
「君が僕の事を信用出来ないのは当然だ。しかし近い将来、君たちが安心して暮らせるようにしてみせる。…人が生まれる事に意味などない。でもね、人間は皆等しく幸せになる権利を持っているんだよ」
そう言って、青年公爵は貧民街の少年に手を差し伸べた。
「お客さん…お客さん?」
声をかけられて漫画から顔を上げると、コンビニ店員が近くに立っていた。
「大丈夫ですか…?」
「何がですか?」
コンビニ店員の心配そうな声に問い返す。
するとコンビニ店員は驚いたように目を見開いた。
「何がですかって…だって、そんなに泣いてるし…」
そう言われて、私は自分が滂沱の涙を流している事に気がついた。
「すみません、何でもないんです。ただ…」
ぼたぼたと涙を流しながら言葉を絞り出す。
「生まれて初めて自分の生を祝福されたような、そんな気がしたんです」
それから私が『君と白薔薇』に出てくる公爵…ウィリアム・ムーアに傾倒するまで時間はかからなかった。
『君と白薔薇』を読みながらある時は彼の活躍に喜び、ある時は彼のピンチにハラハラして、ある時は彼の悲しみに心を痛める。
灰色だった毎日に色がついた。
彼に…ウィリアム・ムーアに、「生きていて良いんだよ」と、背中を押された気がした。
ウィリアム・ムーアという青年は、私にとって生きる希望になった。
傷つきながらも懸命に、時に正しく時に優しく生きようとする彼の言葉は、彼の生き方は、毎日死んだように生きていた私に生きる理由をくれた。
「たかが漫画でしょ」と、そう言う人も居たけれど私にとってはそうではなかった。
私の中で彼は紛れもなく生きていた。
その日『君と白薔薇』の新刊を買って、逸る心で家に帰った。
前回はウィリアム・ムーアがピンチに晒されていて、私は今日の発売日まで気が気じゃなかった。
(きっと大丈夫。今まで様々なピンチを切り抜けてきた彼なら、きっと…‼︎)
そう思いながらページを開いた。
そして彼は死んだ。
何度もストーリーを読み返した。
読み返したら、物語が変わるんじゃないかとありえない期待をして、何度も、何度も、何度も。
そしてその度に絶望した。
ウィリアム・ムーアはもう戻ってこない。
繊細な心を持ち、思慮深く、領主として人として常に優しく正しくあろうと努力していたウィリアム・ムーアは、もう目覚めない。
もう、彼は二度と。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
ふわふわ、ふわふわ。
白い空間にたくさんの鏡のカケラが浮かぶ。
意識を記憶の奥底に飛ばしていた私は緩慢に瞬きをした。
目の前にある人程の大きさがある鏡のカケラにはもう何も映っていない。
その時、視界を過った自分の手に違和感を感じて私は両手の平を見た。
長年、槍を扱ってきた私の手。
そんな武人特有の手は、武器なんて一度も持った事がないと言わんばかりの手に変わっていた。
そう、"前世の私"の手のような…。
顔を上げて目の前の鏡のカケラを見る。
鏡からはいつの間にか"前世の私"が見つめ返していた。
ぺたり、と鏡に触れれば、向こうの私も同じ動きをする。
これはまるで…
「前世の私の姿になっている?」
その呟き声すらも"前世の私"の声。
辺りを見渡す。
無数に浮かぶ鏡のカケラ全てに"前世の私"の姿が映り込んでいた。
(違う、私はリア・フローレスだ。もう前世の---じゃない)
そう思いながらどの鏡を覗き込んでも鏡の中の"私"は前世の姿のままだ。
その時、鏡のカケラに映った"前世の私"が口を開いた。
[『君と白薔薇』の世界に生まれ変わるなんて都合の良い事があると思った?全部、自分の妄想だったんだよ。彼は漫画のキャラクター。そして漫画の『君と白薔薇』の世界で彼は死んだんだ]
私は口元を覆ってよろめく。
(そんな…そんな筈はない。私はリア・フローレス。『君と白薔薇』の世界に生まれ変わってウィリアム様の…騎士に…)
私の思考は段々とゆっくりになり、徐々に意識が消えていく。
周囲の白い靄が濃くなる。
自分すらも消えていくような感覚に襲われた時、
『リア、君は僕を置いて逝ったりしないよね』
そんな言葉が頭に響いた。
(…そうだ、夢なんかじゃない。彼らは確かに存在していた)
私の初めての親友、ライリー。
底抜けに明るいポピー。
王太子のフィンレー、その護衛騎士のエドワードさん、逆境に立ち向かったシャーロット。
親切をくれたターナー医師。
モーリス騎士団長、後輩のジョンソン、気のいいムーア公爵家騎士団の仲間たち。
そして…
私の主君であり大切な人。ウィリアム様。
ウィリアム様を庇って私は毒で倒れた。今私は死にかけているのだろう。
今見ているこの光景も、きっと私の弱い心が映し出している幻影。私を死に誘う幻覚だ。
でも、私は死ぬわけにはいかない。
『ボクは貴方のために精一杯生きる努力をする。そう約束します』
雨が降り頻る墓地で彼とそう約束したのだから。
身体の感覚が確かになり、意識がはっきりしてくる。
気がつくと鏡の中の私は、亜麻色の髪に深緑色の目をした見覚えのある"リア・フローレス"の姿へと戻っていた。
靄が薄れ、頭上から光が差し込む。
私は靄を振り切り飛び立つと、光の方へと向かっていった。




