【第六十一話】毒(ウィリアム視点)
何が起こったのか分からなかった。
リアの身体が力を失って僕に凭れかかり、ずるずると崩れ落ちて地面に倒れるまで、僕は何も出来ずその場に突っ立っていた。
「リア…?」
僕がその名を呼んでも地面に転がった彼はぴくりとも動かない。
彼の腹部から矢柄が生えているのを停止した頭で眺めていた僕は、『矢柄が彼の腹から生えている』のではなく『矢が彼の腹部に突き刺さっている』のだと数拍経ってようやく気がついた。
僕はまろぶように彼の隣に膝をつき、彼の腹部に手を伸ばす。
この光景が夢である事を願いながら。
しかしそんな僕の望みに反して、硬く冷たい矢の質感が僕の掌に触れる。
手を横へ動かすと、ぐちゅりという音と共に水気のある何かを触った様な感覚がした。
視線を向ければ僕の掌が紅に染まっているのが見える。
鼻腔に鉄臭い匂いが広がった。
「あ…」
思わず声が漏れる。
「ああ、あ…」
彼の青白い顔、閉じられた瞼、ぐったりと投げ出された手足、矢の突き刺さった腹部。
全て紛れもない現実だと感覚が告げているのにそれを理解する事を脳が拒絶する。
その時、僕の肩に誰かの手が触れた。
「公爵サマ」
その手は強く僕の肩を揺する。
「公爵サマ、しっかりするっす。そのままじゃ団長が死んじまう」
その声に僕はハッと自分を取り戻す。
機能していなかった聴覚が、周りの音を拾い始めた。
僕の横にはいつの間にか茶色の髪をした騎士がいて、僕の肩を掴んでいる。
茶髪の騎士、ダニエル・ジョンソンはその鳶色の瞳に真剣な色を湛えてこちらを見つめていた。
「気が動転する気持ちは分かるっす。でも最高責任者である公爵サマが指示を出さないとおれたちは何もする事が出来ないんす。このままじゃ助かるものも助からなくなる。フローレス団長を助けるためにも冷静になるっす」
その言葉に辺りを見渡す。
ムーア公爵家の騎士たちがじっとこちらを見ながら僕の指示を待っている姿がそこにはあった。
僕は目を瞑り、深く息を吸う。
(落ち着け、平静さを保て。リアを救うために必要な事を考えろ)
リアの血で塗れた掌を握った。
(リアが倒れた時の状況を思い出すんだ)
僕は目を開き、口をあける。
「リアの倒れ方からして矢には毒が塗られていた可能性が高い。矢を抜いた後すぐには止血せず、毒を少しでも外に出す事を優先する。それから、そこに倒れている射手の持ち物を調べて毒の原液が無いか探してくれ」
リアの肩を抱き起す。
意識のない彼の腕が力なく垂れ下がった。
「処置が終わり次第、我々はムーア公爵邸へ帰還するものとする。先程の賊がいつまた来襲するか分からない。油断はしないように」
僕の指示に騎士たちが動き始める。
矢の処置が終わるまで、僕はリアの肩を抱き続けていた。
「どうも。国立病院所属のターナーです。患者は?」
小柄かつふくよかで不健康そうな顔色をしたその医師は、ムーア公爵邸の門に降り立つなりそう言った。
「こんにちはターナー医師。患者はこちらです」
僕も最低限の礼を尽くしてすぐにリアのいる場所へ案内する。
ムーア公爵家に毒物専門の医者はいない。
だから僕はリアをムーア公爵邸に運び込むなり王都へ早馬を飛ばした。
王都からやってきたターナー医師と共に廊下を足早に歩く。
僕はリアが寝かされている部屋の扉を開けると寝台に横たわる彼へ駆け寄った。
「彼の容体は」
リアの側についていた使用人は無言で首を横に振る。僕はそれを見てリアの手を掬い上げた。
「リア、毒の専門医がいらしたよ」
意識は無いと分かっていながらも、リアの手を握りしめて声をかける。
そして彼の手を握ったままターナー医師の方を振り返った。
「ターナー医師、彼が患者の…」
そう言いかけた僕は言葉を途切れさせる。
「ターナー医師…?」
そこには顔を手で覆っている医師の姿があった。
「そうか…ムーア公爵家の騎士団長…まさかあの時の騎士だとは…」
ターナー医師はそう呟くと深く溜息を吐いた。
「これはいけない…」
その不穏な様子に嫌な予感がして、僕は問い掛ける。
「どうなさったのですか。『これはいけない』とは…?」
ターナー医師は暫く黙り込んでいたが、やがて口を開くと僕に奇妙な事を尋ねた。
「ムーア公爵閣下。先程この騎士の事を"彼"と言いましたかな?」
「え、ええ。それが何か」
僕がそれを肯定するとターナー医師はその顔を一層歪める。
「面倒だ…実に面倒な事になった」
またしてもぶつぶつと何事か呟き始めた医師に僕は段々と不安になってきた。
(まさかリアが受けた毒はそれほど深刻な毒物なのだろうか)
すぐに治療へ移らない事がその証の様に思えて、堪らず医師に声をかける。
「ターナー医師、早馬で事前に毒の原液を送った筈ですが、この毒はそんなに治療が難しいものなのでしょうか」
僕のその言葉にターナー医師はぴたりと沈黙した。少しの後、その口を重々しく開く。
「ええ、ええ。もちろん頂いた原液は解析しましたとも。その毒はじわじわと体をまわり対象者を死に至らせる毒物です。そしてその解毒剤がここにあります」
ターナー医師は飴色の液体が入った瓶を懐から取り出す。
「この解毒剤を飲めばその毒は中和できる。後遺症もなく鮮やかに回復していきます。本来であればね」
「本来であれば…?」
僕が怪訝な顔をする中、ターナー医師は小声で言葉を続ける。
「ワタシとした事が、患者が騎士だと聞いて油断していた。昔会っていたというのに、その可能性をすっかり失念していたのだ」
「…?…ターナー医師、先程から何を仰っているのかよく分かりません。その解毒剤をリアに飲ませれば良いという事ではないのですか?」
彼の囁き声に向けて問いかけるとターナー医師は首を横に振った。
「この解毒剤は男性なら過不足なく効きます。しかし女性には効きません。女性特有の体内分泌物がこの解毒剤の吸収を妨げるのです。女性に対し今回の毒を解毒をしようと思うなら、隣国にしか生えない貴重な薬草を同時に摂取させなければなりません」
「いったい何を…仰っているのです…?」
震えてきた僕の声に、医師は口を噤む。
ターナー医師は顔を歪めて天井を仰いだ。
「患者のプライバシーを言う訳には…いやしかし、その患者本人の命がかかっているのだ」
医師は再びこちらへ顔を向ける。
「この解毒剤はその患者には効きません。何故なら…」
ターナー医師はリアを一瞥した。
「そこにいる騎士は女性だからです」




